熱と痛みの境はひどく曖昧だ。熱くて痛い、痛くて熱い。同時に襲ってくるそれに、背中がじっとりと汗を掻いている。手足の爪の先は死人のように冷たいのに、胴体ばかりが熱を持っていた。頭は冷え冷えとしているが、途切れることのない痛みが思考を妨げる。思考は霞んでいるはずなのに、どこか冷静な部分が状況を正確に捉えている。
 病室の中は暗かった。殆ど気絶するように眠ったり起きたりの繰り返しだったから覚えていないが、消灯時間が過ぎたのだろう。
 ベッドの上で痛みに身悶えながら、天井を見つめる。何も見えやしない。けれど目を閉じると痛みが増す気がして、どうにか気を紛らわせたくて視線を彷徨わせた。
 そうすると暗闇に自分を撃ってきた人間の顔が思い浮かんで、顔を歪める。
 撃たれた瞬間は、痛みはなかった。
 降りしきる雨の中、じわりとシャツに広がった赤色を妙に冷静に眺めていた。護身用にと持たされていた銃は、撃たれる前にはホルスターから外していて、右手に持った拳銃を、撃ってきた相手に向けた。たんたん、たん。と、何発か撃ち込んだが、それは全て避けられてしまったように思える。よく動けたな、とひっそりと笑った。今思えば一種の興奮状態で、自分のことを正しく把握できていなかったのだろう。
 それからしばらくして気を失って、目覚めたらこの部屋にいた。昼間に見舞いに来た上司の話では、組織の息がかかった病院に秘密裏に搬送されて、手術を受け、しばらくを集中治療室で過ごし、そのあとこの個室に移されたらしい。
 あのとき感じなかった痛みのツケを払うように、激痛に苛まれていた。昼間はそんなことはなかったから、麻酔か、痛み止めかの効果が切れたのだろう。
 呼吸器の管を通されたせいか、喉が傷ついて声が出ない。声が出ないと訴えると、よくあることだと看護師に言われた。低くがさついた呻き声を、これが本当に自分の声なのかと疑いながら聞く。脳と身体の感覚が乖離していた。心の中で吐き捨てた悪態を、声にすることすらひどく難しい。
 身体は疲れていて睡眠を訴えているのに、痛みに苛まれた脳は眠る余裕などない。手探りでナースコールを探した。まだ、局部麻酔のための管は繋がっている。痛み止めを管から身体に流して貰えば、すこしはマシになるはずだった。
 ナースコールを押す。枕元から、看護師の声。「どうかしましたか」と尋ねられたところで、声は出ない。声をしっかり出そうとすると、喉はもちろん傷を負った脇腹も痛んだ。
「っ、……み、……めを……」
 案の定、がさついた声は明瞭な発音ではない。「今からそちらにいきますね」と、看護師が察しよく告げる。
 しばらくすると看護師がやってきたので、掠れた声でなんとか傷がひどく痛むことを伝えた。少し待っていてくださいと言われ、終わらない痛みに心がじくじくと傷んでいく。
 看護師が戻って来た。手には何かのパックを持って、それを背中から伸びている管と繋げる。痛み止めだ。背中に張り付いた管に冷たいものが流れていった。液体の薬らしい。それはじわりと熱をもった場所に沈んでいった。さすがに、効果は経口摂取のものより早い。熱が薬の冷たさと混じり合うようにして消えて、相変わらず声は出ないが、痛みは遠くなっていく。痛み止めを開発した御仁を抱き締めたい気分だった。
 痛みを感じなくなれば、しびれた脳は身体の欲求に従って眠ろうとする。ゆるゆると瞼が落ちていくのを感じながら、薬が長く効くことを願った。


「――……っ、夢か」
 脇腹がいやに熱い。唐沢が目覚めて最初に思ったのはそれだった。どくどくと、血管を流れる血液の音が聴こえてきそうだ。
 冷える季節だからと着込んで眠りについたのがあんな悪夢に繋がるとは思っていなかった。汗を掻いてしまったのか、肌着が身体に張り付いている。布団はじっとりと熱が篭っていた。ぺたりとひたいに張り付いていた前髪を後ろに流す。
 唐沢は起き上がって、布団の中から出た。寝起きのせいかすこしふらついたが、部屋の空気は冷たく、夢と現実を速やかに引き離してくれる。
 ベッドサイドの時計を見れば、午前三時を過ぎたところ。家に帰って寝たのは三時間前だ。まだ眠り足りないと身体は訴えてくるが、もう一度眠る気にもなれない。シャワーでも浴びようと、風呂場へ向かう。
 一人暮らしの部屋はしんと静まり返っていて、夢に出てきた病室を思い出した。あの組織の息がかかっていただけあって、唐沢が入っていた個室は防音性に優れ、プライバシーの保護に長けていた。普通の病院なら、ああも静かではなかったに違いない。
 脱衣所の灯りをつけた。どうせ一人暮らしだと、無精をして服を纏めて脱いでしまう。風呂場のシャワーを捻って、お湯に変わるのを待った。
 水が排水口に流れていく。鏡に映った自分を見た。脇腹にふたつ、銃創がある。唐沢からは見えないが、それは背中側にもあるはずだ。指でなぞれば、その部分だけ肌がかたく変質している。
 もう何年も前に負った傷だった。まだ、上司について仕事を覚えていたような駆け出しの頃だ。今の唐沢だったら、そうはならなかっただろうと思う、若さ故の傷痕。
 確か、一ヶ月ほどはまともに動けなかった。痛み止めを飲んでいても、時々に痛みは唐沢を苛んだ。学生時代につけた筋肉はそのときに大分落ちたはずだ。そのあと、意地で鍛え直しはしたが。
 熱めのシャワーを頭から浴びる。じわりと熱が染みていくが、あの夢のような不快な感覚ではない。肌の上を水滴が滑って、汗を洗い流していく。前に落ちてきた髪をいつものようなや後ろに撫で付けた。学生のときは、そういえばもっと髪が短かった。若く見えると舐められるぞと、当時ついていた上司に言われて伸ばしたのだ。ようやく髪型に年齢が追いついたのかもしれない。
 この傷を見るたびに、苦い思いをするような若さは、いつの間にか唐沢からはなくなっていた。雨が降りそうなことが分かるのは便利だと思うこともある。
 それでもやはり――銃は好きではない。自身を貫いたあの鉛がなかったとしても、多分、唐沢はそう思っていただろう。ひょんなことからあの組織に入ってしまっただけで、唐沢は、元々こちら側の世界の、一般人だ。一般人だった。銃は本能的におそろしい。
「ふぅ……」
 ひとしきりお湯をかぶって、ゆっくりと息を吐いた。湯船に浸かるぐらいしても良かったかもしれないなと思う。シャンプーを手に取り、わしわしと頭を揉みながら泡立てる。
 ボーダーに入って、気が付けば三年が経っていた。外回りばかりしていた初期に比べて、最近は仕事も落ち着いてきている。新規の取引が少なくなったからだ。ボーダーは組織として安定し始めた。そして、組織が安定すると、外も中も騒がしくなるのは、仕方のないことだろう。
 頼まれて本部の開発室に持ち込んだいくつかの銃は、先日、唐沢が責任を持って処分した。最近のボーダーは広報活動にも力が入り始め、その結果として広く受け入れられた、代わりというか証左というか、国内外を問わず産業スパイが潜り込むようになった。彼らに本物の銃器を、万が一にも見つけられるわけにはいかない。最悪の場合は記憶処理を施せばいいが、危険かつ不要なものは手放すに限る。
 それに。ボーダーの中の、若い戦闘員や当時を知らないエンジニアたちにも、見つかるわけにはいかない。鬼怒田の話では、銃型トリガーの開発に携わったものは多かれど、銃そのものの分解と解析に関わった人間は最小限だという。
 もう、ボーダー本部に、唐沢が持ち込んだ銃はない。あるのはトリガーで作られた銃だけ。玩具のようなあの銃が、本物の銃とそう変わらないものであるということを、どれだけの人間が自覚しているのだろう。自覚しないほうが幸せなのは言うまでもないけれど。
 泡を洗い落とす。目に入らないように瞼を閉じた。そうしていても、あの時の痛みがやってくることはない。幸いにも、唐沢を貫いた鉛玉は重要な臓器に大きな損傷を与えず、副作用もなく過ごせている。本当に幸運なことなのだろう。そもそも撃たれた時点で、どうしようもなく不幸だが。
 けれどそれが、唐沢の生きてきた人生で、その結果だった。

 身体を洗って風呂場を出て、一応端末を確認する。こんな時間に連絡はないだろうと思ったが、ディスプレイには不在着信の知らせが一件表示されていた。
「城戸さん?」
 思わず漏れた独り言は一人暮らしのせいだろうか。大きなバスタオルで身体や髪を拭きつつ、唐沢は折り返し電話をかけた。常識を持つ大人がこんな時間に電話をしてくる理由として考えられるのは、操作ミスか、緊急連絡くらいだ。そして城戸に限って前者はあり得ない。
「唐沢です。何かありましたか?」
 数コールの後、城戸が電話に出る。速やかに口上を紡いで、城戸からの返事を待った。
『すまない、こんな時間に』
 城戸の低い声が響く。『寝ていたかね?』と問いかけられたので、「いいえ」と返した。そのぐらいの挨拶はできる余裕のある案件らしい。ひとまずは警戒のレベルを下げて、城戸の話を聞く。
『先程、風間隊員が本部内で不審な事務職員を発見、報告してきた。今は監視を続けてもらっているが、きみの意見を聞きたい』
 産業スパイの相手は唐沢の担当だった。正確に言えば、どこからどんな人間が侵入してきたのかを暴く役目だ。場合によっては記憶処理を行ったスパイの処遇も交渉材料の一つにする。
「……今からそちらに向かいます」
『無理はしなくていい』
「ちょうど起きたところだったんですよ。片付けたい仕事もそっちにあるので」
『そうか。ではお願いしよう』
 ぽたぽたと垂れ下がった前髪から水滴が落ちていた。それがバスマットに吸い込まれるのを見つめながら、唐沢は続ける。
「ええ。少しお時間はいただきますが……その事務職員が、不審とされた理由を伺っても?」
『風間隊員曰く、何らかの武器を――特に拳銃を所持している可能性が高いとのことだ。胸元の膨らみからの判断に加えて、昼間に書類ケースを置いた際に中から金属が擦れ合うような音を聞いたという菊地原隊員の証言がある。勤務時間外に基地にいる時点で、十分に疑わしいがね』
「なるほど……風間隊員には、何かあったらすぐ確保するようお伝えください」
『そうしよう。……きみの関係者かね?』
 普通の産業スパイは、武器など持ち込まない。そういう物騒なものを所持してやってくるのは、確かに、唐沢の前職のような人間だろう。
「何とも言えませんね、まだ」
『……』
「ご心配なさらず。関係者にこそ、容赦の必要はありません」
『この件はきみに一任しても?』
「ええ。私はボーダーの外務・営業部長ですから」
『風間隊員には私から伝えておく。きみは本部に到着次第、行動を開始してくれ』
「わかりました」
 ボーダーに入り込んだらしい鼠は、知っているだろうか。銃が孕む熱を。銃が生み出す熱を。あの痛みを熱さを――子どもたちの世界に持ち込まないで欲しいものだ。例え、その子どもたちの手に、トリオンの銃があったとしても。
 城戸との通話を終え、唐沢は着替えに移る。黒のインナーを着て、万が一にもシャツから銃創が透けないようにし、スーツを身につける。髪はドライヤーをざっとかけてから、ワックスで後ろに流して固めた。これでいつもの唐沢だ。手首に腕時計をつけ、書類の入った鞄も持った。しっかりした革靴に足を通し、玄関の扉を開けた。

 唐沢は正義の味方にはなれないけれど。
 正義の味方を守る何かには、まだ、辛うじて、なれるらしい。
 それが傷を負ったことの続きにあるのなら、その結果だというのなら。唐沢はそれも悪くないと――あれも悪くなかったと、思うのだった。