そろそろ冷蔵庫の中身がなくなりそうだ。
気がついたのは夕飯の献立を立てるため、アイくんと食材の確認をしていたとき。普段なら買い物にはハカセの車で行くが、今は俺のスケボー制作のため地下室にこもっている。つまりこれはまたとないチャンスである。
「俺が荷物持ちするからデートしようぜ!」
食材の買い出しはアイくんとハカセの担当で、俺はもっぱら留守番だった。スーパーまで車を出すのはハカセだし、財布を握っているのはアイくんで、俺には漢字が読めない。妥当な采配だ。これに関して文句はない。
しかし、今荷物持ちをできるのは俺以外にいない。つまり選択肢は俺以外に残されていないのだ。
にんまり笑った俺を前にして、アイくんは呆れに少々の同情を混ぜたような顔で溜め息をついた。
「お米も買いたいから、途中でへばったりしないでよね」
すなわち答えはイエスである。
「荷物持ちするとは言ったけどさあ……」
「あら、今さら弱音? 小嶋くんと円谷くん、それに吉田さんまで抱えて走り回っていたから、このくらいは平気だと思ったんだけど」
「俺の手って二つしかねえんですよ?」
「そうね。私の手を数に入れていないことだけは評価してあげる」
現在地スーパー。俺が押すショッピングカートには肉、魚、野菜以外に米だの醤油だの、箱詰めのミネラルウォーターだのが積まれている。アイくん容赦ない。
ハカセと一緒だとこっそりお菓子をかごに忍び込ませることもあるとかで、普段は必要最低限に抑えて長居はしない、というかできないらしい。だから今日はここぞとばかりに買っていると。ああ、砂糖も買い置きしておきたいですか、そうですか……。
「で、肝心の今日の夕飯は何にする?」
「冷蔵庫に残ってた豆腐が明日までだったから、豆腐ハンバーグにするつもりよ」
「腐った豆」
「豆に富むと書いて豆富、でもあるわ。それに豆乳を凝固させたものだから発酵食品じゃないわよ」
「ニホン語ぉ、分からねえ……」
「それだけ話せて何言ってるんだか」
悪魔じみた文字の種類、同じ字でも違う読み方に飽き足らず同じ意味なのに違う字もあるとかなんなんだ。ハンター語を見習ってくれ。公用語になるだけの分かりやすい造りをしている。でもニホン人がニホン語と呼んで話す口語はハンター語と同じという矛盾。俺にはとんと理解しかねる。
しかしこの際だからと、買い物ついでに文字をあれこれ教えてもらった。値札やパッケージに書かれた商品名の読み方が主だが、特に念押しして教えられたのは“エネルギー”と“脂質”と“糖質”と“食塩相当量”の文字。あと“低”と“減”と“無”。ひいてはハカセの命に関わる文字である。俺は必死で頭に叩き込んだ。
「それじゃあ牛乳取ってきてくれる? 低脂肪の」
「てい、てい……低脂肪ね、了解」
肉売場にアイくんを残し、牛乳らしきパックがずらりと並ぶ陳列棚へ向かう。牛の絵が描かれたもの、豆や苺やバナナが描かれたもの、それから飲み切りサイズの小さなパック。
その中からどうにか“低”の字を見つけて小走りに戻ると、何やらアイくんに話しかける女性の姿があるではないか。黒髪ロングにすらりとした体型のかわいこちゃん。「おつかい? 偉いわね」とかそんな感じだろうか。これが俺くらいの野郎だったら誘拐を疑うところだが、彼女も買い物かごを提げているしその線はないはず。というかアイくんの様子からして相手は十中八九知り合いだ。
「アイくん、たぶん低脂肪乳持ってきた。えーっと、こんちは?」
話の切れ目を狙って、牛乳をカートの買い物かごへと滑り込ませる。無難な切り出し方が分からず中途半端な挨拶になってしまったが、かわいこちゃんは律儀にも頭を下げながら挨拶を返してくれた。いい子だ。
さて、俺の対外的な立場は極めて微妙で曖昧なものである。アイくんとハカセに話してある事情が全体の三割とすると、コナンに二割、スバルに一割といったところ。トールは一割五分かな。拳銃だの遺跡だのの話が出ると、途端に胡散臭くなってしまうことは俺自身も自覚済み。
下手に自分で名乗るよりかは、アイくんの都合のいいように紹介してもらった方がいいだろうと思い、やや座った目の彼女に視線を移した。
「……彼の名前はアービィ・アイレ。博士の人の良さにつけ込んでうちに居候している妙な外国人よ」
「妙なって」
間違っちゃいねえから反論できないところが辛いんだけど。
特に俺からの口答えがないことを確認したアイくんは、続いてかわいこちゃんに手のひらを向けた。
「彼女は毛利蘭さん。江戸川くんが居候している毛利探偵事務所の娘さん。空手の達人でもあるから、妙な気は起こさないことね」
ランさんと呼ばれた女の子がぺこりとお辞儀すると同時に、肩から長い黒髪が滑り落ちた。
コナンめ、こんな綺麗な女の子と一つ屋根の下とかどれだけ稀少な経験か分かってんのか。例え今分からずとも、あと十年もすればその類まれなる幸運のありがたさを知ることになるだろう。思春期の憧れだよな、年上美人のお姉さん。俺そういうビデオ知ってる。
彼女の目には未だ困惑の色が濃く、視線は俺とアイくんの間を行ったり来たりしている。お国柄というのもあるだろう。この国は黒目黒髪以外の人間に対する壁が分厚いようだから。
とは言え、決して険のある視線ではないから、頭ごなしに警戒されているわけでもない。共通の話題があったことも救いだった。
「コナンなら俺も知ってるよ。たまにハカセんちで遊んでくからな」
「あなたの方が遊んでもらってるように見えるけど?」
「俺が遊んでやってんの」
腕を組み、ちょっと斜に構えたアイくんが不敵な笑みを乗せる。たまらず視線を合わせて反論してみたが、アイくんの意見は変わらない。少年探偵団とかいうチビ共だって俺が遊んでやっているのであって、俺が遊んで“もらっている”なんてことは万に一つもない。ねえったらねえ。
アイくんは屈んだままの俺を置き去りにして、視線だけでランちゃんを見上げた。いつどの場面を切り取っても、彼女はおおよそ子供らしからぬ表情をする。
「そういうことだから、変に心配してくれなくて大丈夫よ」
「えっ!?」
「まあ、アイくんの言うとおりってやつ。いろいろややこしいから怪しい奴に思えるかもしんねえけどなあ」
立ち上がってカートの縁に肘を乗せ、手のひらに顎を乗せて片眉を上げる。こういうとき、俺の立場はとても不便だ。信用に足るものが何一つない。今はアイくん自身が“大丈夫”と告げて、相手がその言葉を聞き入れてくれるからこそ問題になっていないのであって、これが妙に正義感のある奴だったり話を聞かない奴だったりするとさあ大変、てな具合になってしまう。問題になってからでは手遅れなのだ。いらぬ若芽は出るそばから摘まねえと。
ランちゃんは俺を疑ってしまったという気不味さからか、やや俯き加減に顔を赤らめた。普通にグッとくる。そしてアイくんの肘が刺さってる。分かってますって口説きません。
「コナンにもまた遊びに来いって言っといてくれると嬉しいかな。今週はまだ来てねえし」
「あ、はい。帰ったら伝えておきます。あの、コナンくんと遊んでくださってありがとうございます」
「……アイくん」
「駄目よ。それじゃあ、私たちはそろそろ帰るから」
「うん。引き止めちゃってごめんね」
控えめに手を振るかわいこちゃんが遠ざかる……。
アイくんと話すとき、必ず身を屈めてくれる辺りにも人の良さを感じた。難しい年頃だろうに、最初っから最後までいい子だったなあ。空手強いらしいけど。
アイくんも可愛いがあと二十年は待ちたい感じだし、他はおじいちゃんと小僧と息子爆発して欲しい系の面した男だし、ランちゃんとの出会いは思わぬ癒やしとなった。やはり若い女の子はいい。そしてランちゃんとひとつ屋根の下しているコナンは今度来たときにはちょっと男同士の話をしようか。大丈夫、ちょっとチクッとするだけだから。
「鼻の下を伸ばしてるところ悪いけど、彼女、幼馴染の工藤新一以外は眼中にないわよ」
アイくんの無慈悲な言葉に、俺は愕然とした。シンイチとやらの名前を聞くのはこれで二度目だ。ハカセだけでなくランちゃんまでもとは許すまじ。
会ったら絶対ぶっ飛ばす、と固く拳を握った俺の隣で、アイくんは何やら呆れたような溜め息をついていた。
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