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 アービィさんは不思議な人だった。
 俺は組織の人間かもしれないと思って近づいたのに、博士の警戒心は最初からゼロだし、灰原まで危険はないものとして接している。
 灰原がそんな調子だから、赤井さんも手が出せずにいる。精々が博士の家を尋ねる頻度を上げる程度だ。
 どういう経緯があって知り合ったのかまでは教えてもらえなかったが、あの安室さんですらアービィさんの足跡を掴めていない。試しに探りを入れたら笑顔の横に青筋を立てていたから、まあしばらくは触れない方が身のためだろう。

 あの人は、知れば知るほど謎が増える。
 銃のこと、国籍のこと、仕事のこと、言葉のこと……。そう、他にもなんでスケボー作ってもらってんだとか、いつの間に蘭に近づいたんだとか、いろいろと突っ込みたいことはあるが目下の謎は“言葉”にあった。

「一応調べてみたけど、あの文字を使っている国はどこにもなかったわ」

 朝の教室の騒がしさに紛れて、灰原が小声で告げる。結果が分かっていたとはいえ、改めて聞かされると疑心が頭をもたげた。
 すべての元凶は、アービィさんが俺の手帳に残した文字にある。もともと会話はできるが読み書きはできないと言っていたから、扱う字が違うんだろうとは思っていた。それが蓋を開けたらどうだ。全く見たことのない記号の羅列に頭を抱えた。
 どこの国の文字でもないのなら、これは一体何なのか。破り取られていないのだから、俺に見られても問題ないもののはず。しかし、どう控えめに見ても暗号。暗号を暗号で書いてどうする気だ。
 日本語のように一文字で音を成すのかどうかすら分からず、未だに解読できていない。おまけに走り書きだからか形が崩れていて判別しにくいし、あちこち黒く塗り潰されているのだって、意味があるんだかないんだか。
 そうやって俺が一人で悩んでいるのを、妙に呑気な灰原は笑みすら浮かべて眺めていた。

「どう? 彼の謎、少しは解けた?」
「増えるばっかで減る気配がねえよ」

 本当に、アービィさんは規格外だ。なんてったって怪しい所しかない。

「なあ、おめーから見てアービィさんってどんな人だ?」
「聞いても参考にならないと思うわよ」
「少なくとも俺よりかは知ってるだろ。一緒に住んでるんだから」
「そうね……」

 いつものように腕を組み、考える素振りを見せたところで始業の鐘が鳴った。それとほぼ同時に小林先生がやって来て、日直の号令がかかる。
 椅子を引く音が響く中、どこか笑いを含んだ声が耳を打つ。

「私から見たら、ただの子供好きのおじいちゃん子ね。それもとびっきりの」

 その答えに返せたのは空笑いだけ。使い慣れた皮肉は腹の底に沈んでしまった。
 ああ、確かに参考にならない意見だった。それくらいのこと、歩美たちですら知ってるっての。

 アービィさんは、明日の“面接”に俺も同行させるつもりでいる。今日はスケボーと着替えを持って、博士の家に泊まりに来るよう言われた。キッドのことを全く知らなかったアービィさんだから、少しでも情報を仕入れたいんだろうとは思う、が。
 正直、嫌な予感しかしない。
 絶対に振り回される。確信を持って言える。あの人の前で自分のペースを保てたためしがない。それでも、今回ばかりは見送りかと思っていたキッドとの対決が実現する可能性、さらにアービィさんの正体を探るチャンスとくれば、見逃すわけにもいかない。
 俺の同行を希望したのは向こうなんだ。一日張り付いても文句は言われないだろう。近くにいれば少しくらい見えてくることもあるはず。手始めに文字のことを聞いてもいい。安室さんをだしにカマをかけてみたいところだが、これは後が怖いのでやめておこう。他に使えそうな手札は……。

「また悪そうな顔して。悪巧み?」
「うるせー。元からこの顔だよ」

 頬杖をついたまま、視線だけを灰原から剥がす。
 灰原はだめだ。キッド絡みは人目につきやすいし、アービィさんは目立つ。万が一アービィさんが黒だった場合、灰原や博士を人質に取られることも考えられる。
 あれこれ考えたが、結局有効な手も思いつかないまま放課後を迎えてしまった。呑気に手を振る子供たちが今は恨めしい。
 探偵事務所に戻ってする支度といっても、大したことはない。博士のところへは頻繁に泊まりに行っているし、隣は本来の自宅だ。身ひとつで泊まりに行っても困らないくらいである。
 不意打ちでかけられた「アービィさんにもよろしく」という蘭の言葉は、俺の足に枷をはめた。具体的に言うと幸先が悪い。どうにか重たい足を引きずり、嫌々階段を下り、数段を残して目一杯溜め息をつく。だからなんで、この人はこう……。

「よ! 迎えに来てやったぜ!」

 片手を挙げて、夕日を背に晴れやかな笑みを浮かべるアービィさん。足元にはスケボーがある。時間を見計らって走らせてきたんだろう。もはや驚く気にもなれない。

「別に迎えなんて頼んでないんだけど。というか、なんでここって知ってるの」
「ハカセに聞いた。場所だけなら前に通りかかって知ってたしな」

 言いながら俺のリュックを取り上げ、左肩に担がれた。せっかく荷物持ちをしてくれるなら、それには甘えよう。だからといって俺のご機嫌取りには足りないが。
 アービィさんがスケボーに乗ったのを見て、俺もスケボーで後ろに続く。前を行くアービィさんの背中は広い。今日は天気が良くて気温も高かったから、袖が捲くられている。赤井さん並にしっかりした筋肉、それと薄い傷跡。やっぱり、とても堅気には見えない。
 「傷がいっぱいあるね」と子供の声で聞くと、アービィさんは「男の勲章だ。真似すんなよ」と振り返って笑った。が、袖を下ろす気配はない。この人にとっては、人目を引く傷跡も後ろめたいものではないのだろう。
 会話はそれっきり、博士の家に着くまでなかった。帰宅ラッシュの時間に差し掛かり、道路の交通量も増えていたし、並走するわけにもいかなかったから仕方ない。
 ただ、この人が“ただいま”と言いながら玄関を開けたのには妙な居心地の悪さを感じた。“お邪魔します”と言うのがなんとなく癪で、自然と声が小さくなる。灰原の“いらっしゃい”も博士の“よく来た”も、お客さんに対する言葉だ。なんとなく、なんとなく、癪だった。

「コナーン。すぐ手洗って飯にするぞ。そんで飯食ったら風呂入ってすぐ寝ろ。明日は早いからな」

 俺のリュックをソファの隣に下ろしたアービィさんは、そのままの足でキッチンで手を洗い始めた。夕飯は灰原の担当だったらしい。エプロン姿でアービィさんに邪魔そうな目を向けている。
 時刻はまだ五時半。陽だって沈んでいないのに、少し早過ぎないだろうか。

「早いっていっても指定の時間は六時半でしょ? ここからならスケボーで三十分もあれば行けるよ」
「馬鹿野郎。“試験”を甘く見てるなお前。合格するまでが試験だ。つまり試験はすでに始まっている」
「はあ?」
「一時には出るそうよ。あなたも災難ね」
「はあ!?」

 一時ってなんだそれ、深夜の一時か。思わずアービィさんを見たが、ご飯をよそうのに忙しくてこちらを見ていなかった。な、なんて勝手な人なんだ! 今に始まったことじゃないけど。
 ご飯におかず、味噌汁が机に並んでいく。博士が箸を並べて、アービィさんが麦茶と人数分のグラスを運び終えたところで食卓が完成した。呆けたままの俺は置き去りだ。

「安心しろ。コナンは何もしなくていい。試験通過までは俺の仕事だ」
「じゃあなんで僕を連れてくのさ……」

 それだけの自信があるなら俺は必要ないのではないか。当然の疑問だ。しかし灰原の料理に罪はないので、大人しく両手を合わせて箸を取る。

「コナンの仕事は合格した後。今日テレビで特番やってたから少しは把握したけどな。天敵がいるんならそっちの意見を聞きたいと思うのが当然だろ」
「子供に聞くの?」
「それ関係あるか? ないだろ」

 さも当然と言い切られた言葉が、心の深いところを揺らした。この体になってから、聞いたことのない言葉だ。
 “子供だから”を枕詞に線引をされることは少なくなかった。その度に歯痒い思いをした。俺だって、歩美や元太、光彦がついてこようとすれば止める。だから大人が言いたいことは分かる。だけど、事件を解決する力があるのに頭ごなしに遠ざけられるのは、分かっていても納得はできなかった。
 それをこの人は、こうも簡単に、子供の力を認められるのか。
 落ち着かない気持ちを誤魔化すように、茶碗で顔を隠す。アービィさんは子供だろうが大人だろうが直球で言葉を投げる人だ。でなきゃ元太相手にあんなに食ってかかったりしない。つまり、そういうことだ。

「まあ、そこまで言うんなら、協力してあげないこともないけど」
「おう助かる。キッド捕まえるまで頼むぜ相棒」

 むず痒い。恥ずかしげもなく差し出された拳に、俺は渋々左の拳を当てた。

 ……そして俺は、のちに当然のごとく後悔する。何せ相手はアービィさん。説明はいらない。理由もアービィさんであるということだけで十分。何をしでかすか分からないという点においては、元太たちに負けずとも劣らず。できることなら、このときの俺にひとつだけ助言を送りたいと思う。
 頼むから最初の予感を忘れるな、と。



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