人の話し声がする。それも一つや二つではない。重なり過ぎて、ぼやけた頭では言葉の一つひとつは拾えないが、喜怒哀楽を一緒くたにしたような声の集まりだった。
歓声のようでもあるし、怒声のようでもあるし、悲鳴のようでもある。ただのざわめきではなく、寄せては返す波のような揺らぎが少しずつ意識を押し上げる。
一瞬、テレビの音かとも思ったが、自分の置かれた状況を思い出して、頭より先に体が跳ね起きた。
「アービィさんは!?」
無理やり開けた目にまず刺さったのは、上りかけの朝日。白く焼けた視界を慣らすように瞬きを繰り返し、騒ぎの中心にいるであろう下手人を探す。現状は把握できていないが、とりあえずアービィさんが悪いことだけは分かる。
「やっと起きたかよ名探偵……。あの兄さんなら、さっきから暴れ放題好き放題やってるぜ」
俺の顔をした怪盗が、手の甲で口元を隠しながら声を潜めて言った。
俺たちはコンサートホールの入り口で毛布を被って仮眠をとっていた。寝る前の記憶では、アービィさんは入り口前の階段に腰かけて大人しくしていたはずだ。……正確には、大人しくしているように見えた、だが。やはり目を離すべきではなかったのかもしれない。
十段ほどの階段を下りた先は広場になっている。広場を囲むように街路樹が並び、その根本には花壇が作られ、季節の花を咲かせる。足元にはアスファルトではなく煉瓦が敷き詰められており、色味の違う煉瓦を組み合わせて、流水にも似た模様が広場全体に流れ込んでいた。
そして、現実と向き合う。
広場の中央、クラシックコンサートとは縁遠そうな人だかり。筋肉質な男と身軽そうな女性でできた人の輪の中心でたった今、天を突かんばかりに拳が掲げられた。
「ウィナー俺ぇえ!! やはり俺は強かったー!」
率直に言って頭が痛い。元気一杯に拳を突き上げたのは、やはりというかなんというかアービィさんで。その反対側では筋骨隆々といった風体の男が、人垣にもたれるようにして伸びている。これがアービィさんの仕業であることは言わずもがな。
恐らく俺が起きる前からあの調子だったのだろう。事実、キッドの声に驚きの色はなかった。
「三十分くらい前に始発組が二十人くらい来たんだよ。まあ、俺もそんとき起きたんだけど。そんであの兄さんが『この先に進みたくば俺を倒して行け』って立ち塞がったと思ったら手合わせが始まって、そっから無双状態」
「ははは……やりそー……」
「アービィさん無視してこっちに向かって来た奴もまあ、いたにはいたんだけどな……」
言葉を濁した先、視線を追うと蛙のような格好で気絶している男がいた。犯行現場の目撃者曰く「足元の小石を蹴って一発」だったらしい。いよいよあの人が人間かどうか疑わしくなってきた。
正体と思惑はどうであれ、アービィさんが強いことには変わりない。柔道、空手、少林寺、テコンドー、ボクシング、エトセトラ。募集要項に腕の立つ者とあっただけに、素人目にも見事な体捌きの人間が次から次へと現れる。しかし、アービィさんはそれを遥かに上回る強さで、立ちはだかる人間を次から次へと捩じ伏せていった。
中には“競技者”とは明らかに違う者もいたが、結局アービィさんに遊ばれて終わったのだから笑えない。いや、笑いしか出ない。
「善良な一怪盗相手にあんな戦闘民族を二度も出してくるなってんだよなあ」
隣の怪盗が頬杖をついて中途半端な笑みを浮かべるのに、俺も似たような笑みを返す。身体能力に関してはある程度把握しているつもりだったが、戦闘に関しては今回が初見。結果は呆れるほど強いというものなのだから、思考がすっ飛んで笑いたくもなる。
自然と二人分の溜め息が重なった。理由は違えど、原因は同じだ。
「マジでなにもんだよ、あの人」
「それを今調べてんだよ。見逃してやってるんだからちゃんと協力しろ」
「へいへい。怪盗使いの荒い探偵ですこと。つったって俺も命に関わるようなことはやらねえからな」
「わーってるよ。だから何か気づいたことがあったら……」
「逐一報告だろ、分かってるって。ま、お互い一筋縄ではいきそうにねえな」
「はは、違いねえ……」
俺は素性を、キッドは宝石を。お互いに欲しいものをアービィさんから盗み出すため、今だけの同盟を結んだ。そうと知らぬアービィさんは今も元気に相手を投げ飛ばしている。女性に対してだけ妙に扱いが丁寧に見えるのは、恐らく気のせいではない。……蘭にも気をつけるように言っておこう。
そうやってしばらくはアービィさんの一人無双を眺めていたのだが、不意にギャラリーの一人と目が合った。相手は視線が重なったにも関わらず、逸らさずじっとこちらを見ている。キッドが「どっちの顔の知り合いだ」と聞いてきたが、今の体と元の体、どちらのときも会ったことはないはず。特に見覚えもないのでどう反応したものかと困っていると、中央で行われる手合わせの合間を縫って、視線の主が声をあげた。
「すみません! ちょっといいですか!」
もはや勝つことよりアービィさんと手合わせすることが目的になりつつあった空気の中。一人だけその空気を察していなさそうなアービィさんが返すように手を挙げる。
「はい、なんでしょう」
「ちょっと質問なんですけど、あの入口のところにいるのってもしかして……」
「ああ、あれね。俺のツレ。コナンとシンイチ」
「やっぱりそうですか! どこかで見たことあると思ったんですよ!」
「ん?」
コナンと新一。その名前を聞いた途端、広場全体にざわめきが広がった。そうか、キッド絡みでこの顔がこの場にそろっているとなると、確かにそれは意味合いが変わってくる。
“キッドキラー”の小学生に、“高校生探偵”の工藤新一。端的に言うと、この二人はキッド対策として鈴木相談役に直接呼ばれる可能性がある。実際には呼ばれていないし、アービィさんがいなければ参加自体を諦めていたくらいなのだが、事情を知らない参加者の間では勘違いがさらなる勘違いを生んだ。
「キッドキラーって、盗まれた宝石を毎回取り返してる子だろ?」
「ああ! あの!」
「そういえば新聞なんかでよく鈴木次郎吉と一緒に写ってたな」
「今回も鈴木次郎吉に呼ばれてるのかしら」
「工藤新一って生きてたんだな。最近あんま見てなかった気がするけど」
「死んだらニュースになるでしょ。両親どっちも有名人だし」
「やっぱ噂の高校生探偵もキッドは気になるのか」
「それか鈴木相談役に是非にと呼ばれた、とか」
「じゃああの二人の“ツレ”のこの人って……?」
自然と、数多ある視線が一カ所に集中する。これだけの視線に晒されてなお、アービィさんに動揺は微塵も見られない。それどころか腕を組んでふんぞり返っている辺り、肝の太さがうかがえる。さっきまで「どういうこっちゃ」って顔してたくせに。彼は自分に都合のいい空気を感じ取ることには長けていた。
意味もないくせに意味深な笑い声をもらし、何もバレていないくせに「バレちゃあしょうがねえ」とのたまうアービィさん。
出会ってからこれまで、幾度となく感じた嫌な予感が確信へと変わる。彼と会って間もないキッドも何か良からぬ空気だけは感じ取ったらしく、わずかに身構えた。
そして、アービィさんは意味もなく髪を掻き上げ、こう言った。
「そうです。俺が試験官です」
俺は虚言もここまでくると清々しいなと思った。
「やっぱり! じゃあこの手合わせも……!」
「そうです。試験です」
「ご、合格者はいるんですか!?」
「うーん。今のとこいねえかなあ。もう一声って感じ?」
「次! 次は俺とお願いします!」
「おい、あんたはさっき負けてただろ!」
「私ももう一度お願いします!」
「待てよ! 俺はまだ手合わせしてもらってないんだぞ!」
円を描いていた人垣が崩れ、アービィさんの周りに人が殺到した。こうなると収拾をつけるのは至難の業だろう。自業自得だから助けるつもりもないが。
「んじゃああれだ、こうしよう。今から俺に一発でも入れられたら合格」
「本当ですか!?」
「アービィさん嘘つかない。はいカウントいくぞー。さーん、にー、いーち」
ゼロ。急に始まったおざなりなカウントが終わると同時に、一番近くにいた男が殴りかかった。しかし、拳を振り抜かぬ内にアービィさんの蹴りに沈められ、あえなく脱落。間を置かず前後左右から拳や足が飛んだが、どれも難なく躱して迎撃。そして次の敵へと向かっていく。
徐々に人垣が低くなっていくにつれ、俺とキッドの顔は青褪めた。気合いのち呻き声。テンポ良く人が倒れていくが、その中にアービィさんの姿はない。それどころか、体幹が甘いだの蹴りに変な癖ついてるだのといったアドバイス染みた声すら聞こえる。脳裏に辛うじて残っていた“遺跡発掘調査員”の文字が、無惨にも風に流されて消えていく。
「マジでなにもんだよ、あの人……」
呆然と呟かれた問いに対して唯一持っていた答えは、たった今失った。
だから、俺もそれを調べてるんだっつーの……。
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