禁断の果実
「これを、どうしてもあなたに」
そう言って桃色の髪の青年将校は一つの箱をサカズキに差し出した。
北の海のとある島で大規模な戦闘があったと報告を受けているとおり、青年が羽織っているコートや支給のジャージは派手に汚れており、いつも身に着けてい眼鏡はレンズに亀裂が走り、花柄のバンダナには血が滲んでいた。
元帥室などよりも医療機関で治療を受けた方がいいであろう風体をしている青年の手の中にあるのは、おおかた先ほどの任務で海賊どもから押収した物の一つなのだろう。一見して何の変哲もない宝箱だ。しかし────……。
────その箱を開けてはならない。
箱を目にした瞬間からサカズキの脳内にけたたましい警鐘が鳴り響く。人生の殆どを悪を根絶やしにするための闘争に費やした自身の研ぎ澄まされた勘と生物として備わった本能とが、箱の中身を知ってはならないと。知ってしまったらもう元には戻れないと警告していた。
しかし、それと同時にこれは自分のものだ。他の誰にも奪わせてたまるものかと、何が入っているかもわからないのにそう強く感じていた。相反する感情が頭の中で渦巻き、何事も迷いなく決断する性分であるサカズキを迷わせる。
だが、人の好奇心とは真に厄介なもので、一度惹かれてしまえば暴かずにはいられない。
サカズキは青年の手から箱を受け取る。大したサイズでもないのに、やけにずっしりと重たい。それに、微かに……本当に微かに。気のせいだと言われればそれまでと思うほどに極僅かに、生き物特有の脈動のようなものを手のひらに感じた。
何を馬鹿馬鹿しい。たとえ本当に小動物でも入っていたとて、堅い木材越しにそれが伝わってくるなどありえない。きっと、得体の知れなさがそう錯覚させただけだ。
サカズキは箱を机に置き、蓋の部分に手を添える。未だに頭の中では警鐘がけたたましく鳴り続けているが、サカズキの中に箱の中を確かめないという選択肢はなかった。それこそ、まるで見えない大きな力によって引き合わされたかのように。
鍵のかかっていない宝箱を開けるのは拍子抜けするほどに簡単だった。
「────何故、わしに……」
呆然としていたサカズキがやっとの思いで絞り出した問いに、青年が恐ろしいほどにまっすぐな瞳でこちらを見上げてくる。
「声が聞こえたんです。あなたの側に行きたいと、連れていってほしいと」
「────、」
◾︎◾︎◾︎
”あの”サカズキに好い人ができたらしい。海軍本部はおろかニューマリンフォード、各地の海軍支部、果ては海賊たちにまでそのような噂が出回っているらしい。揃いも揃ってくだらない噂話に感けるなど暇人めと怒鳴りつけたくなる。
元帥の座に就いてから目まぐるしく変わる情勢のせいもあったが、大将時代から輪をかけて仕事にのめり込み休暇らしい休暇も取らず、それどころかニューマリンフォードに構えた新居にすら殆ど帰ることもなかった。
そんなサカズキが、ここ最近は急務の際以外にはきっかり定時に帰り、休暇もしっかりと取るようになったのだ。恋人ができたのだと勘繰られるのも仕方ないのかもしれない。
しかし、実際はサカズキに恋人などできていない。仕事が終わったあとも、休日も。ひたすら自宅に籠っているだけだで、世間が望むような面白いことなどありはしない。
サカズキは今日も定時で仕事を終え、まっすぐこの家に帰ってくる。靴を乱雑に脱ぎ捨て、仕事用のスーツも脱がず、部屋の灯りすら点けないまま足早に自室へと向かう。元帥がみすぼらしい家に住むなと隠居したセンゴクに口うるさく言われ、仕方なしに建てた無駄に広く大きな家が今はひどく忌まわしい。呼吸ができないような、喉が渇くような、焦燥感が徐々に強くなっていく。
堪らず廊下を走り、障子を開けて部屋に飛び込む。押し入れに手をかけ、奥にしまった箱を取り出す。
特注で作らせた螺鈿箱の蓋を開けると、夜闇に包まれていた虚ろな空間に淡い光が灯る。その輝きに包まれ、ようやくサカズキの心が安寧を取り戻す。先程まで感じていた息苦しさも飢餓感も、すべてこの光が消し飛ばしてくれた。
そっと、恋人に手を差し伸べるような恭しい手つきで箱の中身を取り出す。
夜空に浮かぶ月のように薄く発光している渦巻き模様の黄色い堅果────ピカピカの実。
己の信ずる苛烈な正義のもと、悪を根絶やしにするために生きてきたサカズキが唯一その心を、身体を、全てを欲し、何十年もの間幾度として自分のものになれと口説き続けたにも関わらず一度もそのぬくもりすら抱かせぬまま海の泡となってしまった男、ボルサリーノが食べた悪魔の実。いわば彼の忘れ形見とも言える果実が、今ではサカズキの両の手に収まっている。
解っている。こんなもの、ボルサリーノの形見でもなんでもない。ましてや、この実から彼の鼓動が、ぬくもりが、声が聞こえてくるなんて、あるはずはないのだ。
────食べたいんでしょ?食べていいよォ、サカズキ……
こんなものはまやかしだ。未だにボルサリーノの死を受け入れられない弱い自分が見せた都合のいい妄想に過ぎない。あの時、青年から受け取るべきではなかったのだ。然るべき機関に引き渡せと諌めるのが己の仕事だというのに、頭では理解していたのに、どこかボルサリーノの気配を感じるそれを目の前にして、どうしても手離せなかった。
潰さないように注意を払いながら、縋るように輝く果実を抱きしめる。悪魔の実とは言い得て妙だ。まるで生命が、意思が宿っているかのようにサカズキの心を乱し、己を喰らえと誘惑するのだ。
既に悪魔の実を食べた能力者が別の悪魔の実を食べると、忽ち死んでしまうというのが通説だ。サカズキにはまだまだやらねばならないことが山ほどある。以前より世界が平和になったとはいえ、悪は至る所でまだ息づいている。それらを滅ぼすまで死ぬわけにはいかないが、この果実を前にすると喰らい尽くしてやりたい衝動に駆られる。
……その身の一片すらサカズキの手元に遺しやしなかったくせに。生きていた頃からそうだった。あいつはいつも思わせぶりな態度で誘ってくるくせに、いざ手を伸ばすと光に溶けて逃げてしまう。水面に映る月を手に入れようと躍起になるサカズキを、天上から眺めているのはさぞ愉しかろう。ただ正義を徹底できればそれでよかったサカズキの心に、度し難い感情を植え付けるだけ植え付けて自分はさっさと死んでしまうなんて、どこまで振り回せば気が済むのかと文句を言ってみても、腕の中の果実は答えない。自分の言いたいことだけ言って、サカズキからの言葉にはだんまりなのだ。
「おどれはどこまでも憎らしいのぉ、ボルサリーノ……」
どうせ、今もどこかで無様なサカズキを嗤っているのだろう。悪魔だろうと化生だろうと、なんでもいい。もう一度だけボルサリーノに会いたい。愛してほしいとは言わない、憎まれていても、嫌われていても、無関心でもなんでもいい。会って、生前終ぞ聞くことのできなかった彼の本心が知りたかった。
いつか役目を終えた時、この実を喰らったら彼と同じ場所へ逝ける。そんな夢想を胸に描きながら、サカズキは目蓋を閉じる。
着の身着のまま広い部屋の片隅で蹲るサカズキの貌は蒼白く、頬はこけ、目の下にどす黒い隈が浮いている。かつての苛烈で雄々しく生命力の滾っていた姿は見る影もなく、巨躯を丸めて泥のように眠るサカズキを抱きしめるように、光を宿す果実が淡い光を放って照らし続ける。
開け放たれた禁断の箱に最後に残ったのは希望か、それとも────……。