愚慕
地に倒れ伏す男は右半身に酷い火傷を負い、皮膚が溶けて赤々とした肉が露出している。左脚は膝から下が失われ、無惨にも骨がはみ出している有様。傷口を凍らせて出血は防いでいるようだが、それ以上に傷は深い。これ以上戦いを続ければ────いや、そもそも戦えるような状態ではないが────確実に死ぬ。
だというのに、目の前の男の……クザンの瞳からは、かつて奴が掲げていた正義のように燃え上がる闘志が消えることはなく、こちらを鋭く射貫いてくる。
その瞳が見ているのは相対しているサカズキか、己の正義か、それとも……。
「────────、」
マグマの高熱を孕んだ空気を吸い続けて肺がやられているのだろう。肩を切らせヒューヒューと浅い呼吸を繰り返すクザンの青白くなった厚い唇が、ここにはいない男の名を紡ぐ。
睦言のような、懇願のような、呪詛のような。恋人に愛を囁くように、子が親に縋りつくように、罪人が神を糾弾するように、自身にとっての正義と同等に何者にも侵され難い男の名を呼ぶ。
殺すつもりはもとよりなかった。決闘の末に相手か自分のどちらかが死ぬかもしれないとは覚悟はしていたが、価値観や思想の違いはあれど殺したいほどクザンを憎んだことはないと、この瞬間まで思っていた。
だが、サカズキの心とは裏腹に、自身も立っているのがやっとの痛手を負った状態のくせに風前の灯火で転がっているクザンにとどめを刺そうと、灼熱のマグマを纏った右手を振りかぶり────、
「もういい、決着はついた!救護班!急いで手当を!!」
黄金色に輝く巨体が二人の間に割って入る。この決闘の立会人である元帥のセンゴクが、クザンを庇うようにサカズキと対峙し、冷徹な瞳で「引け」と訴えかけてきたのと同時に待機していた衛生兵たちが一気に走り寄ってくる。
十日もの間、食事も睡眠もろくにとらずに戦い続けた緊張の糸がここでようやく切れたのか、先ほど己の中に満ち満ちていた殺意というエネルギーが嘘のように霧散し、支えを失った身体はドサリとその場に座り込む。アドレナリンも切れ、クザンにやられた怪我や凍傷が全身を苛み、意識を保つのもやっとだった。
「サカズキ!おい、こっちにも担架を……」
「いえ……その必要はないですけぇ……わしゃあこれから行かなきゃならん場所があるんで……ッ」
肩に置かれたセンゴクの手をやんわりと跳ね除け、力の抜けた両脚を精神力だけで無理矢理立たせる。クザンの冷気による攻撃で身体中のあちこちが凍りつき、普段の堂々とした姿からは考えられない鈍重な歩みで船着場へと向かおうとするサカズキの異様な迫力に衛生兵たちは気圧されその場に立ち竦み、誰もサカズキに近づけないでいた。
しかし、サカズキの暴挙をセンゴクが見過ごすはずもない。センゴクは背を向けたサカズキの前へと回りこみ、ここは通さないとばかりに仁王立ちをして立ちはだかる。
「そんな大怪我をして治療もせずに死にたいのか!?どこに行くのか知らないが、なにも今でなくとも……」
「今でなけりゃあいけんのです!!」
大地を轟かさんばかりに声を張り上げるサカズキの瞳は目の前にいるセンゴクのことなど目もくれず、ここではない別のどこかにいる『誰か』を見つめていた。自身の獲物を絶対に逃がさない獣のような強い執着心のみで血を吐きながら這いずり進む姿に、センゴクは人知れず背筋に冷たいものが奔る。こうなってはサカズキの意志を曲げるのは不可能だ。これが死闘の後のサカズキでさえなければ殴り倒して強制的に治療を受けさせるところだが、この状態でそんなことをすれば文字通り引導を渡しかねない。
「……わかった。船を出してやるから、せめて乗船してる間は手当を受けてくれ……いいな?」
「…………恩に切ります」
ここが妥協点だろう。サカズキはセンゴクに促され停留していた軍艦へと向かい歩き出す。ちょうどその時、クザンを乗せた担架を担ぐ衛生兵たちが自分たちの横を通り過ぎる。
すれ違いざま、閉じられていたクザンの瞳が開かれ。ひたとサカズキの姿を捉える。海底を思わせる深い深い青を宿す視線には先ほどまで漲っていた敵愾心や忌まわしさはなく、むしろ浮かべているのは……憐憫だ。
────馬鹿だな。俺も、お前も。
そんな自嘲の色濃い声が聞こえたきがした。敗北者の言葉に耳を傾けても無意味だとわかっているのに、クザンの声なき声はいつまでもサカズキの頭からこびりついて離れなかった。
■■■
パンクハザードにほど近い位置にその島はあった。まるで持ち主がいつまで経っても現れない落とし物のような、小さく寂れた名もない島。
こんなところに何の用があって、と言いたげなセンゴクの視線を躱して手短に礼を述べて歩き出す。ほんの僅かとはいえ軍艦の中で休んだお陰か、足取りは幾分軽い。それでも、万全の状態であれば十分もかからず着くはずの場所に中々辿り着けず、焦りと苛立ちで身体からマグマが沸き立ってはジュウジュウと地面を焼く。
島の中心部、草木の生い茂る中にぽつんと廃屋と言っても過言ではないみすぼらしい小屋が建っている。
その小屋の曇った窓からぼんやりと橙色の灯りが漏れているのが見えて、サカズキは全身が悲鳴をあげるのも構わずに小屋に向って走りだす。
たかが数十メートル走っただけで息苦しく膝が笑い、いつまで経っても整わないサカズキの息遣いが閑散とした空間に溶けて消える。倦怠感からこのまま意識を手放して眠ってしまいたいと一瞬思ったが、劣化した木製の扉越しに見知った気配を感じた途端にそんな弱音もどこかへと消え失せていた。
扉を開けようとドアノブに手を伸ばすと、その手は空を切って落下する。サカズキが開けるよりも早く、小屋の中にいた男が扉を開けたからだ。
「おォ〜、随分と時間がかかったねェ……おかえり、サカズキ」
サカズキとそう変わらない長身、やわらかな印象を与えるたれ目にいつも着ているツーピースのスーツを脱いだシャツだけのラフな格好をした男……ボルサリーノが人好きのする笑みを浮かべて満身創痍のサカズキを出迎えた。暖炉に火をつけていたのか、ボルサリーノの纏う空気は暖かく、凍傷と失血で冷えきっていたサカズキの身体をじんわりとあたためる。
マグマ人間の自分の方がよほど高温であることは理解しているのに、今ボルサリーノに触れたら熱でドロドロに溶けて混ざり合うのではないかという馬鹿げた妄想が脳裏に過り、深く思考するよりも早く身体が動いていた。
海軍の最高戦力に相応しい鍛え上げられた、しかして骨格の違いなのかサカズキよりも細身の身体を腕の中に閉じ込めるように抱き込む。
普段であれば褥の中以外での過剰な触れ合いを冷たくあしらうというのに、ボルサリーノはサカズキの抱擁を拒むことなく、まるで聞き分けのない幼子を相手にするかのようにポンポン、と片手でサカズキの頭や背中をやさしく撫ぜる。物心ついた頃から親兄弟もいない孤独で荒んだ生活と苛烈すぎる性格から、こんなふうに慈しみを込めて触れてくるのはボルサリーノだけだった。
ボルサリーノはサカズキが心の底から彼の存在を求めている瞬間を決して逃さず、ここぞとばかりに甘やかして雁字搦めにするのだ。それが彼がサカズキを愛しているが故の行動でなく、ただ求められたから与えただけの酷く受動的な理由からくるものだとしても、構わなかった。
否、そう思わなければとてもやるせなかった、と言うべきか。
「わしが、勝った」
サカズキらしからぬ掠れたか細い声で告げる。ボルサリーノは「おォー」とわざとらしい感嘆の声をあげるが、そこにはなんの感情もこもっていないひどく空虚なものだった。
「さすがだねェ〜、じゃあきみが次の元帥ってことかァ〜……サカズキならきっと今以上に徹底に正義を執行して海軍を導けるよォ。そりゃあ大将が一人抜けるのは痛手だけど、わっしもクザンいるし……」
「……クザンはわしの下につく気なんぞ端からありゃあせん、あいつは……そのうち海軍を辞めるじゃろうな」
「そうかァ、寂しくなるねェー……まぁ、でも……」
仕方ないよねェ、と。事もなげに呟くボルサリーノの表情を見ることは叶わない。ただ、いつもと同じ顔をしているのだろう。譲れないものを賭けて戦ったサカズキとクザンの気持ちなど微塵も興味がなく、どちらが勝っても負けてもボルサリーノが喜びも悲しみも感じることはない。
自分たちは凪いだ海に波紋を揺らす小石にすらなれない。
きっと決闘に勝ってここにやって来たのがクザンであってもボルサリーノはサカズキにしたように「おかえり」とあたたかく迎え入れ、求められるがままに抱きしめただろう。そして「お前ならやれる」と甘やかに囁き、去っていく敗者のことは過去の思い出として心の端の端へと追いやってしまうのだ。
ボルサリーノにとって勝者として自身のそばにいるのはサカズキとクザンどちらでもいい、のではない。どちらでも同じなのだ。道端に落ちている二つの小石に大した違いなど感じないように、ボルサリーノは自分たちのどちらかを愛しているわけでも疎んでいるわけでもなく彼は本当にサカズキのこともクザンのことも特別に思っていないだけのことだった。
ずっと昔、まだ自分たちが若造だった頃。ボルサリーノに思いの丈を打ち明けた際、本人からそう言われたことがある。自分は誰かを特別に愛せる人間ではないから、サカズキの望むような関係にはなれないだろう、と。当時は遠回しに断られただけだと思い、しかしどうしてもボルサリーノを諦められずに、それでも構わないからと半ば強引に関係を持ったのがそもそもの始まり。
まさか同時期にクザンも同じようにボルサリーノに思いを伝え、同じように拒まれて同じように関係を迫っていたのは完全に予想外のことだったが、この時はサカズキもクザンもいつか自分こそがボルサリーノの特別になるのだと息巻いていたと記憶している。
しかし、あれから三十年以上経っているというのに、サカズキたちはボルサリーノの肉体を貪るだけの獣以上の何者にもなれないでいた。どれほど焦がれ愛を注ごうとも、地を溶かす灼熱の岩漿も海をも凍らす絶対零度の冷気も、天上で輝く光輪には届かない。
「ボルサリーノ……、」
「こらこらァ、わっしは死人に片足突っ込んでるやつとヤる趣味はねぇよォ〜……手当してやるから大人しくしときなよォ」
まわした腕にきつく力を込め、ボタンが外され無防備に晒されている首筋に唇を寄せる。永遠に縮まることのない二人の隙間を埋めたくてあたたかな肌に噛み付くと、咎めるように緩く肩を押される。それだけでよろめいてしまうほどに傷を負っていることを自覚しつつも、今だけはボルサリーノが自分だけのものであると錯覚していたかった。
「まったくゥ〜、サカズキは言い出したら聞かねぇんだから……」
しょうがない子だねェ、と。出来の悪い子供を相手にするような微かな棘とたっぷりの甘さの乗った声音で囁くと、ボルサリーノはサカズキの手を引いて小屋の中へと誘う。
掃除はされているのにどこか埃っぽさを感じる剥き出しのフローリングに使い古された暖炉と素っ気ない簡易テーブルとイスが申し訳程度に置かれた色褪せた部屋の中で、奥の方に鎮座しているベッドの真白のシーツだけがひどく浮いていた。
堪らず力任せにボルサリーノを押し倒す。彼が愛用しているような大層なマットレスなど敷かれていないそこは倒れ込んだらさぞかし痛かろう。だが、ボルサリーノは文句を言うどころか楽し気に口元を歪めてサカズキの一挙手一投足を見物していた。ボルサリーノにとって、サカズキの暴挙など取るに足らない些事なのだろう。
どこまでも一方的な恋情に、虚しさを覚えないといえば嘘になる。しかし、ボルサリーノがこの先誰のものにもならないのだとしたら、クザンでも他の人間でもなくせめて自分の一番そばに置いておきたかった。それはきっと、クザンも同じだったはずだ。だからこそ負けられなかった。
────わしのモノにならんなら、このままマグマになって覆い被さってやろうか。
そうしたら彼の一欠片くらいサカズキの手に入るかもしれない。血液と酸素を欠いた脳がそれこそが正しいと叫ぶ。逃げられないように自身の身体で押しつぶすようにボルサリーノを抱きしめる。あとは気力を振り絞って覇気を込め、肉体をマグマへと変えるだけだったが────……
「サカズキ、おいでェ〜」
とろりと、婀娜っぽい眼差しで、声色で、手つきで、ボルサリーノが頬を撫でる。
それだけで、サカズキはすべてを許してしまうのだ。恋とは、愛とは、どこまで人を惨めで愚かしく堕落させるのだろう。
だが、たとえ傍から見て色狂いだと誹られても構わない。サカズキの思い描く未来に、掲げる正義に、ボルサリーノはなくてはならない存在なのだ。
光は正義と共にある、そうあるべきなのだから。
────馬鹿だな、俺も、お前も。
そう囁いたのは、クザンなのか、ボルサリーノなのか、それとも自分自身だったのか。無我夢中で慕人の肌に溺れるサカズキには解らなかった────……。