やさしさに包まれて
「三十八度五分……昨夜より上がってんな」
こりゃ今日の仕事は無理だな、と。体温計とにらめっこをしているヘルメッポさんが言う。
昨日、なんとなく調子が悪いなと思いつつ仕事をこなしていた。少し身体が熱くて頭もボーっとしていて、起きてるのも怠くて食欲も全然なかったけど、一晩ぐっすり寝れば治るだろうから医務室に行くほどでもないと自室に直帰しようとするのをヘルメッポさんに止められ、引きずるように医務室へと連れていかれてしまった。
案の定、医師の診断は風邪と疲れが溜まっているとのことだった。無理はするな二三日は休めと心配するヘルメッポさんに、薬を飲んで寝れば大丈夫だよと内心大袈裟だなぁなんて思っていたのに……。
「ヘルメッポさん、ぼく……」
「お前の”大丈夫”があてにならないのはよぉーくわかった。体調がよくなるまで仕事禁止!飯食って薬飲んであったかくして寝てろ!」
「そ、そんなぁ……!」
普段は立場上ぼくの意見や希望を汲んでくれるヘルメッポさんだったが、今回は取り付く島もないまま「休んでろ」という無言の圧をかけられてしまい、僕はすごすごとシーツの中へと戻るしかなかった。
「……ごめんね、ヘルメッポさんにも隊のみんなにも迷惑かけちゃって……」
まだ出勤するには早い時間なのに、ヘルメッポさんはいそいそと身支度を始める。きっとぼくがいない穴を埋めるためだろう。
ただでさえ上官がぼくのような若輩者なせいで周りの人たちに苦労を掛けているのに。そう思うと情けないやら申し訳ない気持ちでいっぱいになって、鼻の奥がツンと痛んだ。
「お前、俺やあいつらが風邪ひいて寝込んでたら迷惑だって思うのか?」
「え?そんなこと思うわけないじゃないですか……!」
「そうだな、俺も同感。だからそんな顔すんなよ。少なくとも、うちの隊で迷惑かけられたなんて思うやつ
はいねーし、万が一にでもいたら俺がゲンコツ食らわせてやるからよ」
だから余計なことは考えずにゆっくり休め、と、優しく頭を撫でられる。あからさまに子ども扱いされたこ とに少しの悔しさと、胸の奥がソワソワするむずがゆさを隠すように「ヘルメッポさんのゲンコツじゃ怖くないかな」と言ってみたけど、いつもなら「生意気なやつめ」と頬っぺたを引っ張ってきたり鼻を摘まんでくるのにヘルメッポさんはニヤリと声もなく笑っただけで、またポンポンと頭を撫でられた後に甲斐甲斐しく毛布をかけ直してくれた。
「俺はそろそろ出るけどお前はこのまま寝てろよ。ここに水と食欲沸いてきた時用にゼリー置いとくから、起きてるうちはこまめに水分補給な。昼の休憩になったらまた様子見に来るけど、もし何かあったらこいつで俺に連絡しろ。いいか、少しでも体調が悪化したりなんかしたら遠慮してないで絶対にかけてこいよ」
ヘルメッポさんは水の入ったボトル、種類の違うフルーツのゼリーを数個、個人用の子電伝虫等々……ぼくが寝たまま手に取れるように枕元に並べながら「ベッドから出るなよ、仕事関連のものに触るのは禁止だからな」と口をすっぱくして繰り返す。ぼくってそんなに信用ないのかな、と少しショックを受けつつ、ヘルメッポさんが安心して仕事に行けるよう頷くほかなかった。
「じゃあ、いってくるな」と背中を向けるヘルメッポさんに、せめてドアまで見送りたいと申し出てみたが、案の定大きなため息をつかれて断られてしまう。
「そんな捨てられた子犬みてぇな顔すんなって……すぐ帰ってくるから、いい子にして待ってんだな」
聞き分けない子供を宥めるような声音とともに、普段はバンダナで隠れている額に薄くてひんやりとした唇が落とされる。風邪による発熱ではない熱が頬に集中し、上手く言葉を発せられない。
ーーーーヘルメッポさんは、こういうことをさらっとやるからズルい、かっこいい……
「いってらっしゃい」
なんとなく悔しさを覚えながらも、これ以上引き留めてはさすがに悪いと思い、寂しさを心の隅の方へと押しやってヘルメッポさんの広い背中を見送った。
パタン、とドアが閉まり彼の気配がなくなると、途端にさほど広くないはずの部屋がひどく広く寂し気に感じる。
昇格した際、本来なら個室に移るはずのところを無理をいって今まで通りの二人部屋にしてもらった。二年間、ヘルメッポさんとはずっと同じ部屋で生活してきたのだ。もちろん、最近では彼もぼくに付きっきりというわけにもいかなくなり、任務で部屋を空けることが何度もあったから、部屋に一人きりになるのが初めてというわけではない。
ーーーーというか、今まではずっとひとりだったじゃないか。
物心がついた頃から、コビーは一人だった。何故自分には家族がいないのかもわからない。故郷の村で死なない程度には村人たちに一通りの面倒を見てもらっていたが、コビーが成長しなんとか身の回りのことをこなせるようになるとそれも次第になくなっていた。
当時は、それを特別悲しいと思ったことはない。だって自分は最初からひとりだったから。誕生日を誰にも祝ってもらえなくても、今みたいに風邪をひいて身動きがとれずに寝込んでいるのに誰も心配してくれなくても、それが悲しくて寂しいことだなんて知らなかったから。
でも、今のぼくは違う。
朝起きて「おはようございます」と言うと、あくびを噛み殺しながら「おはよう」と返してくれる人がいる。ごはんを隣で一緒に食べて、美味しいねと笑いあえる人がいる。夢を語り合い、足を引っ張ったり引っ張られたりしながらも共に切磋琢磨する人がいる。嫌なことをされたり言われたら怒ってくれる人がいる。ぼくが褒められるとまるで自分のことかのように喜んでくれる人がいる。誕生日を全身全霊で祝ってくれる人がいる。怪我をしたり病気をしたら大袈裟なくらい心配してくれる人がいる。一日の終わりに「おやすみなさい」と言い合ってそばで眠ってくれる人がいる。何もなくてもぼくのことを気にかけてくれる人がいる。
一度そのあたたかさを知ってしまったら、もう元には戻れない。触れてくる自分のものとは違うぬくもりや向けられる眼差しの眩しさ、かけられる言葉に込められた明確な好意、与えられる親愛の情。
たった二年、されど二年。ヘルメッポさんがそばにいてくれるのが当たり前になったせいで、ぼくは昔よりうんと堪え性がなくなってしまったように思う。
――――さむい、さみしい、こわい……ヘルメッポさん……ヘルメッポさん……、
毛布に包まれ熱も上がってきているはずなのに、胸の中が穴が空いたかのようにスースーとして冷たい。つい、枕元の電伝虫に手を伸ばしかけたが、今さっき別れたばかりなのに呼びつけるのは申し訳なさすぎる。
――――だめだ、起きていると不安になってくる……寝よう。眠ってしまえば、きっと元気になる。
ひとりきりの部屋から目を背けるようにぎゅっと強く瞼を閉じる。しかし、身体は怠く睡眠を求めているはずなのに、あのスースーとした嫌な冷たさが邪魔をして一向に眠気はやってこない。熱に浮かされる頭をなんとか動かし、この状況を打開しようと思考を巡らせる。
「……あ、そうだ」
あることを思いつき、もぞもぞとベッドから這いだす。自分で思っていたよりも病状は厄介ならしく、立っているだけで視界が揺れ、足もふらふらと覚束ない。倒れないようにベッドに手をついて、立て掛けられた梯子に慎重に足を乗せる。
この二段ベッドはぼくとヘルメッポさんが曹長と軍曹に昇格した時にガープ中将とボガードさんが買ってくれたものだ。あの時、ヘルメッポさんは「俺のほうが年上だからな」とか言って上の段を譲らなかったっけ。
ゆっくりと時間をかけて一段一段梯子を昇っていく。それだけで疲労感を感じながら、最後はダイブをするようにしてヘルメッポさんのベッドへとたどり着いた。さすがにぬくもりは消えていたが、きちんとベッドメイクされた枕やシーツからはぼくが大好きなヘルメッポさんの匂いが強く残っていて、悪いとは思いながらも枕に顔を埋めてシーツを頭から被って横になる。
有名な美容院のお高いシャンプーの上品な香りと彼が愛煙する煙草の匂い。ククリ刀の手入れに使う油の独特な臭いと、あとは彼自身の微かな体臭に包まれると、まるでヘルメッポさんに抱きしめられているみたいで先ほどまでの不安や寂しさが消え、胸の内に広がっていた冷たさがじんわりと溶かされていくような気がした。
「ヘルメッポさん…………」
安心したせいか徐々に瞼が重くなり、目を開けていられなくなる。早く元気になって本物のヘルメッポさんの隣を歩きたい。目が覚めたら風邪が治っていることを祈り、心地よい眠気とヘルメッポさんの匂いに誘われるままぼくは意識を手離した。
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「ったく、随分と可愛いことしてくれんじゃねぇの」
熱が引いてきたのか、今朝見た時よりも和らいだ表情で何故か俺のベッドで眠るコビーの汗で張り付いた前髪をそっと指先で払う。
部屋に入ってベッドを覗き込んでみたらもぬけの殻だった時は「あいつアレほど言ったのに!」とまた無茶をしたのではないかと肝を冷やしかけたが、すぐに人の気配を感じ梯子に足をかけて自分のベッドを確認すると、なんともしあわせそうな顔で眠るコビーの姿が目に入ってそっと胸を撫で下ろした。
薬を飲むためにも何か腹に入れないとならないのだが、こうも気持ちよさそうに眠っていると起こすのが忍びなくなる。それに、あんなに不安げな顔をして見送っていたコビーが自分のベッドで安眠している姿は、不謹慎は承知だがこのうえなく愛おしかった。
ガープ中将からコビーの看病があるだろうからといつもより長めに休憩時間をもらっている。もう少し寝かせてやろうとシーツをかけ直してやる。元々幼げな顔立ちだが、寝顔はより一層あどけない。可愛らしさを感じる一方で、こんな子供が過労で体調を崩すまで仕事をさせてしまったことを後悔する。
過保護になるほどコビーがやわな人間でないことはわかっているが、自身を顧みずに無茶をする人間であることは理解している。それに関しては本人の自覚が薄いので代わりに俺が目を光らせていなければならないのに、自分もまだまだだとため息をつく。
――――いや、過ぎたことを悔やむより、次に活かしゃいい。
俺まで弱気になっていてはコビーの風邪も治るまいと気を取り直し、そういえばと梯子から降りてテーブルの上に置いた大量のお見舞いの品々を見下ろす。
直属の上司であるガープ中将とボガードさんと、あとはうちの隊の部下たちにはコビーが風邪で寝込んでいることを伝えはしたが、いつの間にか海軍本部中に知れ渡っていたようだ。ただでさえガープ中将とボガードさんからどっさりと経口補水飲料だとかゼリーやプリンといった食べやすいものを持たされたというのに、この部屋に向かう道すがら名も知らぬ屈強な海兵たちから「自分たちからコビー大佐に」とピンク色の小花が可愛らしい花束をもらったり、本部に用があって来ていたスモーカー中将とたしぎ大佐からはクーラーボックスいっぱいのアイスを手渡され、モモンガ中将には「暖かくしなさい」とカイロを渡された、三箱くらい。お次はおそらくガープの伝手で知ったであろうセンゴクさんとおつるさんは「よく効くから」とのど飴をくれた。あと、廊下でたまたま遭遇した黄猿さんに「バナナは万病に効くよ〜。あとこれ冷えピタ、サカズキから」と房丸ごとのバナナと冷えピタの箱を渡されたのには本当にビビった。元帥と大将にまで知れ渡ってるってどういうことなんだよ。
見舞いの品を整理してテーブルの上を片付け、俺は再びベッドに向かってコビーの顔を覗き込む。みんなに迷惑をかけて申し訳ないだなんだと言っていたコビーに、この貢物の山を見せて俺がどれだけ運ぶのが大変だったかと説明してやりたくなる。
「コビー、みんなお前のこと心配してんだからな?頑張るのもいいけど、もっと自分のこと大切にしてくれよ」
――――まぁ、それ以上に俺がお前のことを大事にするつもりけど。
早く元気になりますように、と祈りを込めてコビーの額の傷跡にくちづける。心なしか口元が綻んだように見えたのは些か都合が良すぎるだろうか。