慕
自身に向けられた視線に含まれる畏れ、侮蔑、憎しみ、忌避……その全てを意に介することなく、ドフラミンゴは悠然と正義のお膝元である海軍本部の敷地を歩む。
すれ違う海兵たちは、まるで王のように振る舞うドフラミンゴを憎々しそうに睨みつけたり、反対に少しも目に入れたくないとでも言わんばかりに顔を背けたりと反応は様々だ。
世界の秩序の維持を担う海軍の総本山において自分の存在は異質でしかないが、七武海たるドフラミンゴにはその資格があり、海賊であるドフラミンゴにそれを与えたのは他ならぬ海軍、ひいては世界政府なのだ。
一応、七武海には定期報告が義務付けられているが、それを律儀にやっているのは政府に忠実なバーソロミュー・くま、真面目な気質のジンベエと、そしてドフラミンゴくらいのもので、他の四人は余程のことがない限り自身の縄張りから出ることはない。
ドフラミンゴも部下たちからはこちらから律儀に出向く必要はないのではと言われるが、ドフラミンゴとしては海軍が悪と槍玉に挙げる海賊が堂々とそのお膝元を闊歩するなど、面白くて仕方がない。
海兵をおちょくるのも愉しいが、ドフラミンゴにはもう一つ楽しみがある。そのもう一つの楽しみのために、こうしてお目付け役の海兵を撒いて一人で出歩いているのだ。
ドフラミンゴは目的の部屋がある建物へと近寄ると、イトイトの実の能力を使い、まるで浮いているかのようにゆっくりと上昇していく。
最上階の部屋────海軍本部中将、大参謀であるつるの執務室────の部屋の窓はいつも不用心に開け放たれている。
つるやその部下の海兵たちに気取られぬように気配を殺して中の様子を伺うと、一つに束ねられた白髪とほっそりとした肩にかかる正義の二文字がサングラス越しのドフラミンゴの瞳に映る。
どうやら中にいるのはつる一人だけのようだ。背を向けたつるはこちらの存在には気づいていないようだった。
これは都合がいい、少し驚かせてやろうと、口の端を歪めながら窓枠に足を掛けた瞬間、つるの肩が激しく跳ねた。
「ぅ、ごほっ……げほっ、」
蹲って激しく咳き込むつるの後ろ姿に、ドフラミンゴの心臓は氷の杭を打ち込まれたかのように凍りついた。苦しそうに息を吐くつるの背中が、病に侵され苦しみと迫害の末に死んだ母親に重なり、気づいた時にはドフラミンゴは衝動のまま部屋に飛び込んでいた。
「おつる!!」
つるの痩せた肩を掴んで己の方へと振り向かせる。すると、つるはなんでお前がここにいると言いたげに目を丸くしてドフラミンゴを見上げている。
「あんた……具合が悪いのか?こんなところにいる場合じゃないだろう、早く医者にかかれ」
「はぁ?」
「海軍の福利厚生はどうなってやがる。うちだって体調の悪いファミリーを働かせたりしないぞ」
「いや……」
「もういい、俺がとびきりの医者を見つけてきて……」
「……ちょいとお待ちよ、ドフラミンゴ」
矢継ぎ早に捲し立てるドフラミンゴの頬に骨ばった白い手のひらが子供を宥めるように添えられる。突然そんなふうに触れられたことと、見た目とは裏腹にあたたかなつるのぬくもりに、ドフラミンゴは動揺で言葉が出なかった。
「何か勘違いしているようだけど、別に体を壊してるわけじゃないよ」
「だったら、あんなに咳き込んでいたのはなんなんだ」
「……この歳になると気を抜いて飲み物を飲んでると噎せやすいんだよ……はぁ、まったくなに言わせるんだいこの子は」
つるは珍しく恥ずかしそうな顔をしていた。言われてみると、テーブルの上には飲みかけコーヒーカップが置かれていて、どうやら本当に噎せていただけのようだった。
ドフラミンゴともあろう者が、勘違いで先走った挙句、協力関係とはいえ因縁のあるつるの身を案じるなどとんだ笑い話だと、密かに心の中で恥じていると、不意につるの目元がやわらかく緩んだ。
「心配してくれたのかい、ドフラミンゴ。ふふ、いい子だね」
裏社会の帝王であるドフラミンゴをこんなふうに子供扱いできる人間は、きっとこの広い海を探してもきっとつるだけだろう。その事実にドフラミンゴの心は妙な心地良さを覚える。
ドフラミンゴは、まるで母に褒められたい子供のようだと自嘲ながらも、それが決して嫌ではない自分がいることを自覚していた。
しかし、それは悪の帝王たるドフラミンゴには必要のない感情だ。自分を崇め慕う部下たちにも、盲信するドレスローザの国民にも、敵対する海賊にも、そしてつる本人にも。決して知られてはならない感情だ。
「フッフッフ、嚥下訓練なら顔や首の体操をオススメするぞ、おつるさん」
「年寄り扱いするんじゃないよ」
自分の中に芽生えた気持ちを誤魔化すように軽口を叩くと、つるは長い指でドフラミンゴの頬を軽く抓った。
「元気そうだな。じゃあ俺はそろそろお暇させてもらおうか」
「まったく、あんたは毎度毎度なにしに来るんだか……あんまりセンゴクや他の海兵を困らすんじゃないよ」
つるの言葉に曖昧に頷いてみせると、ドフラミンゴは来た時と同じように窓から飛び去った。敷地内では相変わらずお目付け役をしていた海兵がドフラミンゴを探していたが、報告は既に済ませている。右往左往する海兵を尻目にドフラミンゴは雲にかけた糸で宙を舞う。
雲の隙間から太陽の光が降り注ぐ。それは先程触れたつるの手のぬくもりに似ている気がした。