それまで厄介になっていた人物から灰色のガンダルフと落ち合う場所の説明と地図を頂戴して、中つ国をひとり旅する女がいた。年の頃は二十前後くらいだろうか。しかし、様々な種族が存在する中つ国において外見と実年齢が合わぬことはままある。そして精神年齢はやはり外見と一致することが多かった。 一見して彼女は人間に見えた。だが人間にしては背丈は小さく、無論、成人していようと低身長の女もいるにはいるが、それにしては縮尺がおかしい。 だからとてドワーフのようではないし、小さい人と呼ばれるホビットのようでもない。二種族の特徴が、彼女には見られないのだ。 「参ったなぁ…、もう少し地理だけでも勉強しておくんだった」 失敗したといった風情で彼女は顔をしかめる。世話になった人物が変わり者であることは重々承知していながらも、興味深い分野だっただけに思わず、自分自身ものめり込んでしまっていた。気付けば幾つもの月日が流れ、当初の目的であった『世界を見て回る旅に出る』という機会が巡ってきたのに、必要な最低限の知識がお粗末なままだ。 もらった地図もやけに古臭くてところどころかすれているし、大まかすぎて分かりにくい。教えられた道順も、今にして思えば随分とざっくりしたものだったと痛感する。 いや、本当ならばその時点で気付いていなければならなかった問題だなと、彼女は少しだけ表情を厳しくした。旅の知識がどれほどの価値があり、それによって生死が左右されてしまうこともあることを、彼女は知っている。 もっとも逃げ足には自信があるし、現状ではなるようにしかならないとあっさり割り切ってしまう部分も持ち合わせていた。 持ち前の方向感覚を頼りに、随分と長い距離を一人旅で切り抜けながらエリアドールと呼ばれる地域の西、辺境にあるホビット庄に辿り着いたとき、彼女は自分で自分を褒めた。 地図と照らし合わせると旅立った地点から横断するような形となり、世界を見て回る目的を少なからず果たしたと言えなくもない。無論、道中出会うのは敵か言葉を喋れぬ動物たちだけで、結局のところ増えた知識量は望むものより遥かに下回っている。 (それにしても、ホビットという種族の里は緑がいっぱいで落ち着くな…) どこかしら自分の故郷と似通うところがある景色に顔を綻ばせつつ、『いや、たしかにあそこも緑はいっぱいだったけど』と内心で突っ込みを入れた。思い馳せる彼の場所とここでは整然さが大いに異なる。 それからとりとめもない思考を巡らせながら彼女はホビット村までやってきた。その中でも一番立派な、小高い丘に設けられた家、その可愛らしい緑色の丸扉に付いた呼び鈴を鳴らす。扉には、青白く光る、印があった。これが目印であると、彼女は聞いていた。 故に、程なくして扉を開けた人物が驚いたような困惑したような表情を浮かべて立ち尽くしたことに、彼女もまた戸惑う。 「あー……ええっと、集合場所はここでいいのかな?ガンダルフはいる?」 「え……?あ…!えっと、いますよ」 やんわりと尋ねれば、ハッと我に返ったように相手は慌てて答え、中を示した。そうして少しのやりとりのあと家にお邪魔し、更に状況をある程度把握したところで人の好さそうな家の主が、ビルボ・バギンズという名であることを知る。 「私はイツハ。よろしく、ビルボ。詳しい話はガンダルフの言うようにあとでまとめてするよ。ちょっとばかり面倒な事情を抱えているんだ」 面倒な事情という割にはひょいと肩をすくめて言う動作も声の調子も深刻さは皆無であったが、小さく口元に浮かぶ苦笑と下がった眉尻に何となく感じるものがあり、ホビットーービルボは自然と眉根を寄せてオウム返ししていた。すると彼女ーーイツハはぱっと表情を変えると、それもあとでと笑い、果敢にもドワーフの群れの中に飛び込んで皿に盛ってきた食べ物を口へと運ぶ。 仕方なしにビルボも頷き、迷惑な馬鹿騒ぎに落ち着きなく、しかし彼女が確保してくれた食事をありがたく食べ始める。その体の小ささからは目を見張るほど、ホビットとは食べることが好きだった。 ガンダルフを除いて誰もが気になっている、イツハ、という彼らにとってみれば種族不明の彼女の詳細が語られるのは、ようやく全員が揃って少し経った頃。 最後の来訪者は厳しい顔つきの、どこか他の者たちとは違う風格を漂わせた長身のドワーフで、その鋭い目に見据えられた者は自然と背筋を伸ばしてしまうような威圧感がある。ビルボなどはまさしくその口で、ごくりと生唾を呑み込んだ。 一方、ビルボの隣で来訪者、トーリン・オーケンシールドと言うらしいドワーフを覗き込むイツハは、至って飄々とそれを受け止めている。彼女の脳裏では、彼がここのドワーフたちをまとめる族長かと納得するような考えが展開されていた。 「ーー女を、旅の仲間に加えると……?」 あれほど陽気だった馬鹿騒ぎも鳴りを潜め、すっかり片付けられた宴会場にて酒の入ったジョッキだけを前にドワーフたちがずらりと長テーブルに座す。彼らが見つめるのは自分たちの主たるトーリンで、彼が持ち帰った報告を神妙に聞いていたかと思えば熱く声を荒らげて繰り広げられるやりとりを、イツハとビルボは輪から外れて見守っていた。予備知識の全くない部外者である二人には、交わされる会話もちんぷんかんぷんだ。 ただ今回の旅は彼らにとってかなり重要であり、そのためドワーフの部族会議にて協力を仰いだが誰も首を縦に振らなかったらしい、ことは理解する。 そんな中、話は色々と移っていくがドワーフの問題に対して灰色の魔法使いが推挙した種族外の者のうち、一人を見咎めてトーリンは険しい表情と声音で聞き返した。 そこには避難が含まれていた。忍びの者として同行させるつもりだとホビットのことは聞いていたが、なりはドワーフの服装に近いとはいえ華奢な体つきの、トーリンにしてみれば子供のように若い種族不明の女が同行するなど、初めて聞かされる。 それもそのはず予め伝えていれば必ず難色を示し、頑迷に同行を拒んだであろうからわざとガンダルフは黙っていたのである。無論、彼がそのことをトーリンに告げることはこの先、来ないだろう。 戦闘経験もないホビットを連れて行くことすら、こうして本人を目の前にし役に立つどころか足手まといにしかならないと確信を得たというのに。大きさはたしかにドワーフと似通っているが当然そうではないし、ホビットとも異なる得体の知れない存在など、さらさら許容できるはずがないというものだ。 トーリン・オーケンシールドは当然、認めぬと吐き捨てるように言った。この旅は自分たちの悲願を達成するための、重要、かつ非常に危険な旅である。不安要素を増やすわけにはいかない。 「さて、約束通り全員が揃った。彼女が何者で、どういう理由でここにやってきたのか、まずはそれを聞いてからじゃ」 ぬけぬけと魔法使いが言って、問題となっている当人へ目配せすれば彼女もまたしたりと頷き、トーリンの言葉も、発する気も、鋭い視線も、まるでないもののように話し出した。もともとそれには興味津々だったドワーフたちは彼女へ視線を送り、トーリンもまた内心で舌を打ちながら憮然とした面持ちで耳を傾ける。 ビルボは言わずもがな、ようやく疑問に答えが返されると語られる話を注意深く聞いた。しかしその内容たるや、にわかには信じがたい話であった。ドワーフたちの来訪やその旅の目的などもビルボの日常からは大きく離れていたが、彼女の話は軽くその上をぶっ飛んでいたのである。 「私は緑の民、イツハ=グリンバーナ。種族は人間。もっとも『この世界』の人間とは少々規格が違うらしいけど。ーー端的に言う。私はこの世界の住人ではない。こことは異なる、別の世界の人間だ」 緑の民とは何だ、やら、人間だって冗談だろう、やら、この世界とか規格が違うってなに言い出して、などなど。次第にざわめきが大きくなっていた部屋に最後、投下された言葉でしんと沈黙が満ちた。 構わず、イツハ=グリンバーナは続ける。 「私が異世界人だという保証はそこにいる魔法使い、灰色のガンダルフがしてくれるよ」 「うむ。わしも信じられぬことじゃったがな。様々な検証の末、彼女がこの世界の者ではないと明白になった。どういう絡繰か、非常に稀なる偶然が重なった結果の事象じゃて」 「つまり、私は自分の世界に帰る方法を探したいけど、こちらについては右も左も分からない。そこに、ガンダルフから旅の誘いがあった。それが、ここにいる理由」 そうイツハが締め括っても内容が内容だけに未だドワーフとホビットは唖然としていて、しかし、彼女らの言葉が染み渡るにつれ我に返るや、次々と声を上げた。それは概ね似通っていたものの、銘々に喋るものだから騒々しいことこの上なく、一つ一つを拾うのを億劫と感じた自称異世界人と魔法使いは聞こえぬ振りを貫く。 騒ぎを収めたのはトーリンの一喝だった。彼は怒気を纏い、自分たちをたばかるつもりかと憤りをあらわにする。 イツハは首を振った。トーリンの視線を真正面から受け止め、怯むことなく、ただただ静かに言葉を返す。 「嘘じゃない」 短い言葉だった。しかし、それは真摯で繕った色も偽りの色も見出すことの出来ぬものだった。もしかしたらその言葉に、ドワーフの王は自分たちと同じ故郷を失くした者の想いを感じ取ったのかもしれない。 トーリンはゆるやかに冷静さを取り戻す己を自覚しながら、眉間に皺を刻んだまま嘆息して口を噤んだ。それはひとまず、彼女の言い分を受け入れたことを示すものであり、ドワーフたちは詰めていた息を吐く。ビルボもまた、荒事にならなくてよかったと胸を撫で下ろした。 もっともトーリンが一応の理解を示したのは異世界人だというところまで。旅に同行する件に関しては、ホビットともども相応しくないと彼は考えた。 「我らの目的はエレボールに巣食う竜、スマウグを倒し都を復興させることだ」 「ドラゴンだって……!?」 おとぎ話においてよくよくその存在を知られている生き物の名前に、驚愕の声を上げたのはビルボ・バギンズだ。そこからドワーフらによる如何に自分たちが倒そうとしているドラゴンが恐ろしいかの説明が行われ、さらにはその旅に自分が忍びの者として同行するしないの話が出ていることを青年ホビットは遅ればせながら理解する。 もちろん慌てて無理だと断るがありがたくないことにガンダルフの中では決定事項らしく、ビルボ本人も自覚していない力を秘めていると彼は渋面のドワーフ王を説得にかかっていた。最終的にはトーリンがガンダルフを信じる、ということでいつの間にか話が落ち着いたために再び焦りながら『冒険なんて…!』と抗議するも、渡されたのは契約書。 ちょっとした好奇心に負けてビルボはそれを受け取った。そうして、連々と綴られている文面に登場する物騒な単語を口にしたらば、間髪をいれずに返ってくるやはり物騒な説明に彼の顔色はどんどん青褪めていく。 対照的だったのはイツハだ。ホビットの件は一応の決着は見たと残る問題の種に顰め面を崩さぬまま、トーリンは彼女へ鋭い視線を投げて思わず、瞠目する。 恐怖に顔を引き攣らせるかそれに準じた反応を見せているだろうと思いきや、彼女はみるみる顔を輝かせるではないか。どんな屈強な戦士であろうと種族であろうと、ドラゴンの力は圧倒的なものであり、好んで戦いを選ぶ者などいはしないというのに。 あれほどドラゴンが凶暴で凄まじい破壊力を有し、この旅の危険性を説明したというのによもや聞いていなかったのであはあるまいな。そう思ってしまうほど、彼女の瞳はきらきらと好奇心が煌めき、頬は興奮によるためか薄く上気、口元には弾ける笑みが浮かんだ。まさしく喜色満面とはこのことだろう。 (((何故だ…))) まったくもって意味が分からないと、十三名のドワーフは切実に心の声を揃えた。
18.01.22
OP病弱主をのんびり修正中。