伏黒恵の場合
こういうの、しばらくやんない。禁欲して。
ナマエの言う「こういうの」が、身体を重ねていた今の行為を指すことくらいは、俺にも分かった。分かったが、どうして突然そんなことを言われたのかは分からない。
「……気持ちよくなかったか」
一番考えられるそれを問いかけてみたものの、素直にそうだと肯定されたら少しショックを受ける。何せ自分は、童貞をナマエで卒業した身だ。男同士な上に経験なんて無い状態で抱いたのだから、最初はさぞ負担をかけたと思う。
だけどそれも回を重ねるごとに、ナマエが気持ちよさそうな顔をしてくれていると思っていたのに、もしかして惚れた欲目が働いていたのか。自分は、目の前でシャツに腕を通すその背中にある鬱血痕をみて、昨夜の恋人の痴態を思い起こすような単純な人間なので、あり得なくはない。
「そういうわけじゃ、ないけど」
目を逸らしてそう言うナマエの顔は少し赤い。下唇を少し噛むのは照れている時の癖なのだと、俺だけが知るそれが愛おしい。触れたくなって手を伸ばすと、何の抵抗もなく俺の腕に収まるナマエは、あろうことか、碌に服も着ていないままで俺に擦り寄ってきた。こいつのこういうところが本当にやばいと常々思う。
(俺にだけは言われたくないだろうが)普段はどちらかというとツンケンしてるくせに、よく分からないタイミングで急にパーソナルスペースがゼロになる。気まぐれな猫が俺にだけ懐いたみたいな優越感に、また欲が顔を出しかける。
そこまで考えて、ばっと身体を離した。危なかった。ひとまずは心を落ち着けようと少しだけ距離を取ってみると、ナマエは目を丸くして俺をみた。今の表情は、けっこうレアかもしれない。
「……悪い」
「…………べつに」
少し間を置いて返事をしたその声がどこか頼りないことにさえ加虐心を煽られるなんて、俺はいよいよ末期なのかもしれない。早く訓練か何かをしてこの煩悩を一掃しないとまずい気がするが、今日は日曜だ。外へ買い物にでも行けばいいかもしれないけど、どうせ出かけるならナマエと行きたい。が、そうすると結局また触りたくなる。
なにせ、理由は分からないが、禁欲しろと言われたばかりだ。ここで何かを強いるわけにいかない。
「恵は、」
ベッドの端に腰掛けて、こちらに背を向けたまま、ぽつりと俺の名前を呟いたナマエは、そこから少し沈黙を作った。俺より少し色素の薄いその髪を、朝日が透き通らせるようで、俺は俺で暫し見惚れた。
「夜以外で、俺に触んのは、嫌なわけ」
「……は?」
「…………ごめん、忘れて」
「っ、待て」
そのまま部屋を出ようとするナマエを引き止め、顔を覗き込もうとするが、俺に背を向けようと抵抗するその力はなかなかに強く、表情を伺うことは叶わない。
数分の攻防ののち、ナマエは諦めたのか、力を緩めた。さっきまではやや力任せだった俺も、少し優しくその肩に手を添えて向かいあわせる。
一瞬合った目線は、すぐに逸らされた。それだけなら少し不安になるが、ナマエの顔は真っ赤なことに加えて、下唇を噛む仕草。照れているだけと分かれば、そっぽを向いた猫みたいなものと思える。猫より俄然かわいいが。
「なぁ、」
「………」
「……さっきの、どういう意味だ?」
「………」
何か言いたげなような、言いたくないような。どちらとも取れる複雑な表情だったので、俺もあまり追求せず、ナマエの言葉の意味を考える。「俺に触んのは、嫌なわけ」と、そう言った。これは疑問形だ。問いかけられている。確かめられていると言った方がいいかもしれない。
「……俺は、ナマエに触りたくないと思ったことはない」
「………」
「見られたら恥ずいから、外では堪えてるけど」
「……本当に?」
「ああ」
「………」
「……なんでそんなこと思ったのか、聞いていいか?」
本当に? なんていじらしい問いかけに、心臓のあたりがぎゅっとなったのをどうにか誤魔化して、努めて優しく尋ねる。それにしてもこいつは俺をどうしたいんだ。試されているのだろうか。だとしたらどんな言葉を求められているのか正解が知りたいが、恋愛経験の乏しい俺には分からない。五条先生とかなら、うまくこいつを甘やかせるのかもしれない。そんなこと絶対にさせないけど。
兎にも角にも、こんなに不安にさせる心当たりが本当になくて、その時点で俺は駄目なのかもしれない。もう少し感情の機微に聡い人間なら、例えばやっぱり五条先生とかなら、笑顔で目を見て話して、誤解なんかさせないんだろうな。絶対に渡さないけど。
「恵、朝起きたらいつも隣いないし、いてもいつも反対側向いて寝てるから、ヤるとき以外は、俺に興味ないのかと、思って」
「………」
前言撤回する。心当たりしかなかった。確かに自分は事後、たとえばピロートークとかいうものが苦手だ。というより、抱いたあとは大抵恥ずかしさでうまく顔が見られないのと、あまり近くにいるとまたすぐ求めてしまいそうな自分に気付かれたくなくて、そうならないように少し距離を取っている。
「本当はあんまりしたくないのかもとか、逆にそういう事する相手としてしか興味ないのかもしれないと思った。そしたら、暫くしないって言ってみたらどうかって、五条先生が」
「……は? 五条先生?」
「お、俺からは相談してないけど、悩みあるでしょって……。言うまで離さないって言うから、話しただけで……」
「……あの野郎……」
あの人のことだ。興味本位と面白がってるだけだろうってことは、たぶんナマエも分かってる。ただ、分かっててもつい相談するぐらい悩ませたのは俺が悪い。とりあえずその耳元に触れてこちらを向かせて、目を合わせる。さっき心の中でしていた言い訳を、ナマエにゆっくりと話す。死ぬほど情けないが、そしてナマエが俺の態度に不安になってんのは死ぬほどかわいいが、他の男にちょっかいかけられるんなら話が変わってくる。
「──っていうだけだ。お前が思ってるようなことはないし、その、これからは善処する」
「……ん」
俺の言葉に安心したのか、ほんの少し口角を上げてふわりと微笑んだ恋人に、思わず触れるだけのキスをした。俺から急にすることは珍しいから、ナマエは惚けた顔で俺を見た。これから、恥ずかしさとかそういうのを呑み込んでこうやって態度で示せば、このレアなかわいい表情を何度でも見られると思えば、行動するのも悪くないと思った。
ただ、それはそれとして。
「なあ、ナマエ」
「ん?」
「五条先生に、言うまで離さないって言われたんだよな?」
「ああ……、うん」
「どこ、触られた?」
俺の抑えに抑えた感情には気付かず、目線を斜め上に向けて思い出す仕草をするナマエを見ながら、俺の恋人がかわいいという気持ちと、あのクソ教師が自分のものに触れたという気持ちが綯い交ぜになる。
「どこ、っていうか……。引っ張られて、膝の上に乗せられただけ」
「…………そうか」
言いたいことは色々ある。が、これも全部自分が蒔いた種だ。だからそこを自覚した上で、譲れないものがあるので、とりあえず自分の膝を叩いた。意味を理解したナマエが顔を真っ赤にして断ってきたが、俺もここは折れる気がないので、早く捕まえられてくれないだろうか。
膝に乗せられて後ろから抱きしめられると、身動きが取れない。別にそれだけなら良いけど、恵が俺のうなじに顔を埋めて深呼吸するものだから、嗅がれてるみたいで普通に恥ずかしい。
あと、これだけ密着していると、嫌でも思い出す。向かい合わせで膝に乗せられて、俺が腰を落として挿れたことだってあるのだ。夜のことが頭を巡ってしまって、かっと顔が熱くなった。
禁欲するとなって我慢ができなくなるのは俺の方だったのかもしれないと、背中の温もりから意識を逸らしながら思った。
今日は休日で、さして予定もない。長い朝になりそうだ。