森の奥には吸血鬼がいるらしい。これは、言ってしまえばただの都市伝説に近いが、この村の人間たちはそれを昔から信じている。だから、わざわざ森の奥に近付こうなんていう物好きな奴はいない。

その吸血鬼にはいくつかの噂がある。ひとつ、人間よりも遥かに寿命が長いこと。ふたつ、炎と氷を作り出す不思議な力を持つこと。みっつ、とても美しい容姿をしていること。

普通の人間より長く生き、普通の人間より素の力が強く、普通の人間は必要でない他の生物の血を啜る。そりゃあ、そんなのがいる可能性がある森になんて、わざわざ近づかないだろう。今まさにそこを目指す、俺以外は。







俺の家は、何の変哲も無い、普通の片親の家だ。ただ、一般的にはあまり宿っていない、特殊な力が使えた。母親は水を、俺は植物を操れた。別に、それを使ってどうこうという訳じゃない。だけど村の人間たちにはとんでもなく不気味に映るようで、周りの人間は寄り付かなくなった。まあ、無理はない。外では使うなと散々言われていたのに、母親との約束を破って使った挙句、見つかった俺の落ち度だ。あの頃の俺は幼くて、これが異常な力だと知らなかったなんてことは、ただの言い訳だ。

そして昨年、母が死んだ。もともと病気がちだった母を、満足に医者に診せることもできないまま、静かに息を引き取った。
俺への当たりはより一層きつくなったが、俺は気にしなかった。植物を育てれば、食べることにはあまり困らなかったし、何より、どうでもよかった。母親だけが心の拠り所だったから、生きることすらどうでもよかった。



そんな折、やたら物騒な武器を携えた大人たちが、俺を脅すような口調で言い放った。

『ここのところ続く天災は、森の奥の吸血鬼が死にかけているせいだ。お前がそこへ行き、必要ならば血を差し出して、我らの暮らしを救ってこい。これを呑まなければ、おまえを村から追放する』

馬鹿馬鹿しい、と思った。いくら俺のことを気持ち悪がっていたって、もっとマシなやり方があるだろう。そんなことをしてまでこの村にいたいと、俺が思うと思っているのだろうか。
こんな村に別に用はないから、そんな言い分は放っておいて出て行っても構わないが、そうしたらきっとこいつらは、家に火をつけるなり何なりするだろう。そうしたら、近くに住んでいる数少ない友人──今はもう敢えて距離を置いてはいるが──にまで被害が及ぶかもしれない。

別に、生にそこまでの執着はない。なら最期に、伝説とやらのご尊顔でも拝みに行くのもいいかもしれない。いるかどうか知らないが、天国で母親に会ったときの、土産話のひとつにでもしてやろう。そんな気持ちで、村の外れの森へと足を進めた。






森の奥へは数日かかるとふんでいた。そしてその通り、道中で何度も野宿をして過ごした。木々を小さな家のようにして寝れば凍えることもなかったし、もともと植物に詳しかった俺は、木の実なんかを探して食べられるものを腹に入れた。飲み水は、村でも水源として水を汲んでいた川のより上流だから、困ることはなかった。

そうやって数日進んで、森の際奥にあるという洞窟らしきものを見つけた。正直、ただの言い伝えだったから、本当にあるとは思わず驚いた。



「……誰だ?」

気配がなかった。だけど声が聞こえて、咄嗟に後ろを振り向いたが誰もいない。「こっちだ」と言う声にもう一度洞窟に視線を戻せば、さっきまで洞窟の入り口だけだった筈のその場所にいたのは、見るからに普通ではない生き物。

いや、見かけは人間の男に見えるかもしれないが、燃えるようなと赤透き通る白の髪をもち、ちらりと覗く牙は鋭い。身につけている服はおとぎ話にでも出てきそうな西洋のもので、そして何より───今までに見たことがないほど、美しい顔をしていた。


「おまえ、人間か?森で遭難でもしたのか」
「……いや、貴方に、会いにきた」
「俺に?」
「ああ」

不思議と、怖くはなかった。例えこれから血を貪られるとしても、どんなに哀れで凄惨な死に方をするとしても。目の前の吸血鬼は、俺自身の生きるための感覚すべてを狂わせるような、それほどの美しさだった。

「俺の血を、飲んでくれないか」
「…………は?」
「森の麓の、川のそばにある村が、天災や雨不足で苦しんでる。もしも貴方に、それを操る力があるなら、俺の血を全て捧げるから、力を貸してほしい」

本当は、村なんかどうでもいい。心を許した友人たちのことは少し気にかかるけれど、きっとあいつらならあんな辛気臭い村なんか出ていって生活できるに違いないから。地震だの台風だの日照り続きだので困るのは結局、頭の固いジジイやババアどもだ。だから。でも。

「……おまえの言い分は分かった」
「……………」
「その上で言わせてもらうが、俺はおまえを取って食ったりしねえ」
「え……」
「人間が俺をどう思ってるか知らねえが、おまえは要は、生贄になるつもりで来たってことだろ。俺は吸血鬼の中でも最上位種だから、そもそもそんなに大量の血は必要ない。だからおまえのことを襲ったりもしない。……それと、天災をどうこうすることも、俺にはできない。わりぃ」
「そっか……でも、分かった。ありがとう」


村のことは、ジジイやババアことは本当にどうでもいいけど、でもやっぱり、俺なんかと仲良くしてくれた友人のために、少しは何かが返せたら良かったな。また森を抜けるのは疲れるな。けど、戻って、報告をしなきゃな。おまえらが神の如く信じてた生き物はいなくて、だから村のことはどうしようもなくて、ただ、美しい男にはちがいなかったって。

驚くほど穏やかな吸血鬼に背を向けて、歩き出す。すると、左腕を掴まれた。強い力で、掴まれた部分が少し軋んだ。

「なぁ、おまえ、俺が怖くないのか」
「……まあ、あんまり」
「! だったら、」
「?」
「全部は無理だけど、たとえば、台風なんかが寄って来ないように、風を操れる種族の奴に頼めるかもしれねぇ。あとは、雨は少しなら俺が降らせられる」
「え………」
「けどその代わり、交換条件として、やっぱりおまえを俺にくれ」

俺の血を、という意味だろうか。別に構わない。まあ、あまり要らないと自分で言っていたけど。

「俺が怖くないんだろ?人間と話してみたかったし、おまえ、きれいな顔してるから、もっと近くでみてたいんだ」
「……綺麗なのは、あんただろ」
「そうなのか?」
「綺麗だから、あんたに食われて死ぬんなら、それでも良いかと思っただけで」

馬鹿正直に話すものでもない気はしたが、相手はどうせ人間じゃない。吸血鬼の男は少し目を丸くして、俺の言葉を咀嚼しているようだった。

「死んでもいいなら、一緒にいるぐらい良いだろ。名前、教えてくれねぇか?」
「……なまえ、だ」
「そうか。俺は、焦凍だ」

しょうと、と心の中で反復する。吸血鬼に飼われるという意味合いで合ってるだろうか。人間と話してみたかった、と言ってたし、ただの暇つぶしかもしれない。

「少し苦しいかもしれねぇけど、我慢してくれ」
「え、」

焦凍は、俺の後頭部と腰を抱き寄せると、ちゅ、と俺の唇に触れた。突然のことに驚いて胸を押すが、びくともしない。そしてそのまま、ぬるりと舌が入ってきた。歯をなぞられる度にぞくぞくと背中を何かが這い上がって、上顎を擦られると身体の力が抜けて、舌を吸われると、自分のものとは思えない、変な声が出た。

最後にちゅ、と音を立てて、吸血鬼は離れた。離れ際に唇をぺろりと舐められ、肩が跳ねた。

「ここに普通の人間がいたら、狙われるかもしれねぇからな。俺と契約してるって周りの奴らに分からせねぇと」
「っは、っ、けいやく……?」
「いくつか方法はあるけど、一番やりやすいのが、唾液の交換だから」

「だ、唾液だけ必要なら、俺の、舌吸ったり、とか、いらなかったんじゃ……?」
「ああ、わりぃ。あれは下心だ」
「は」
「おまえがかわいいから、口説きたいと思って」

「唾液の交換は、一回したら永遠に効くもんじゃねぇんだ。だから定期的にする必要があるけど、気持ち良かったら、またしたいと思ってくれるだろ?」

かなり書いてるけど供養。たぶん、したたかな吸血鬼轟くんが書きたかったんだろうな