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投稿日:2021年02月23日







 夜明け少し前にユーリッドが目覚めたとき、ファフリはまだ起きていなかった。
呼吸は正常で脈もしっかりとあったが、声をかけても揺らしてみても、全く起きなかった。
ただ眠っているだけではないのかもしれない。
そう思ったが、ユーリッドには何もできなかった。

 ファフリはミストリア城にいた頃から、一気に魔術を使うと、こうして何日も眠り込んでしまうことがあった。
しかし、今回は状況が違う。
初めて悪魔を召喚したのだ。

 召喚師としては当然のことであり、また喜ぶべきことなのかもしれない。
だが、ユーリッドの心には恐れしかなかった。

(……狼の群れを蹴散らしたときの、ファフリの顔……。多分、あれはファフリじゃない)

 ほとんど確信に近く、そう思っていた。
あれは、ファフリではない別の何かだと。

 もし、このままファフリが目覚めなかったら。
あるいは、目覚めたとしてもそれがファフリではなかったら——。

 そんな漠然とした不安を抱えながら、ユーリッドはファフリの寝顔を見つめた。
頬には汚れと涙の流れた跡があり、わずかに開いた口からは規則正しく寝息が聞こえてくる。
いつも通りの、純粋であどけないファフリの顔だ。

 ユーリッドは、喉から熱くしみるものが込み上げてきて、強く歯を食い縛った。



 出てすぐにある通りの市場で、軽い買い物を済ませ部屋に戻ると、部屋の中から微かに話し声が聞こえてきた。
ぼそぼそと囁くような声だったが、ユーリッドは腰の剣に手を添えて、慌てて扉を開けた。

 中に入ると、ファフリが目を覚ましていた。
上半身を起こした状態で、ベッドに座っている。

 ユーリッドは、周囲を見回してから、先程の声は気のせいだったかと思い直した。
そして自分のベッドに荷物を置くと、ファフリに駆け寄った。

「良かった、おはよう! 大丈夫か? 痛いところとかないか?」

 なるべく明るい声で言うと、ファフリはまだ眠たそうな顔で、微笑んだ。

「うん、大丈夫よ」

 快活さはなかったが、いつものファフリらしい柔らかな声だった。
ユーリッドは、ほっと安堵のため息をついた。

「ずっと何も食べてなかったから、お腹空いてるだろう? さっき、買い物してきたんだ。ちょっとだけど果物もあるから、一緒に食べようぜ」

 荷物から取り出したコルの実をベッドに並べて、ユーリッドはファフリに笑いかけた。
ファフリは、それに笑顔を返すと、そのまま口を開いた。

「……ねえ、あの狼たちは、どうなったのかしら? 皆死んでしまった?」

 突然の問いに、ユーリッドは動きを止めた。

「……ああ、うん。おかげで、俺も大した怪我はしなかったよ……」

「そう、良かった。私はあまり覚えていないけれど、やっぱり召喚師の力ってすごいのね」

 どこかぎこちなく答えたユーリッドに対して、ファフリはちらりと笑った。
ユーリッドは、笑みを返せなかった。

 誰よりも優しく、呆れてしまうくらいお人好しなはずなのに、ファフリが狼たちを殲滅したことを何とも思っていないのが、不思議でならなかった。
生き残るためとはいえ、大勢の生物の命を奪ったのだ。
普段のファフリなら、悲しむはずだった。

 しかし、今ファフリは微笑んでいる。
いつものように、柔らかく安心したような笑顔で。

 なんとか生き永らえたことに、安堵しているのかもしれない。
そう思ったが、ユーリッドは腹の底から寒気が沸き上がってくるのを感じていた。
それは、悪魔を召喚し狼たちを殺した後、ファフリが微笑んだときに感じたのと同じ寒気だった。

(……やっぱり、ファフリにはあんなことさせちゃいけなかったんだ。助かったのは事実だけど、もう召喚はさせちゃいけない)

 ユーリッドは、ぎりりと奥歯を噛み締めた。

「……ファフリ、確かに召喚師の力ってすごいんだって思った。助けられたのも、事実だよ。でも、もうあまり使わないでほしい」

 ファフリが、驚いたようにユーリッドを見た。
ユーリッド自身、何故こんなことを言ったのか、明確な理由を問われたら答えられないだろうと思った。
ただ、次にまた召喚術を行使したら、以前のファフリは二度と戻ってこないかもしれない。
そんな不安に襲われたのだ。

「……どうして? そんなこと言うの」

 ファフリは、静かな口調で聞いた。

「……なんで、急に力を使わないでなんて言うのよ。そりゃあ、まだ完全には使えるわけじゃないし、今更使えるようになったって遅いのは分かってるわ。私に才能がないのは明らかだし……。でも、でも……やっと使えたのに……」

「うん……ごめん。急に変なこと言って。だけど、召喚術を使ったときのファフリは……なんだか普通じゃなかった気がするんだ」

 不明瞭なユーリッドの答えが、ファフリの気持ちを逆撫でした。

(なんで、ユーリッドまで……! 私の気持ちなんて分からないくせに……!)

 その瞬間、異常なまでの怒りが噴き上がってきた。
その怒りは、まるでファフリの全身を包み込むかのようにむくむくと膨れて、喉元から吐き出そうになった。

 ファフリは、ユーリッドをきつく睨むと怒鳴った。

「どうして、そんなこと言うのよ! これまでずっと、召喚できるようになれ、召喚できるようになれって皆で私のこと責めて……! 挙げ句、才能がないからって命まで狙われて……。それなのに、やっと成功したら、今度は召喚するなって言うの!?」

 ユーリッドが、はっと顔を上げた。
ファフリは、大きく音を立ててベッドから立ち上がった。

「私だって、好きで召喚師に生まれたんじゃない……! なんで、なんでこんな目にばっかり遭わなきゃいけないのよ! もう嫌……なにもかも、皆いなくなっちゃえばいいのに……!」

 ファフリの目から、ぼろぼろと涙が溢れ出た。
ユーリッドが、蒼白になって口を開いた。

「ごめん、ファフリ。俺、そんなつもりで言ったんじゃ——」

「うるさい、うるさいうるさい!」

 ユーリッドの言葉を遮って、ファフリはベッドに置かれたコルの実を彼に投げつけた。
実は、ユーリッドの肩に勢いよくぶつかり、僅かな凹みを残してそのまま床に落ちた。

 掠れた声で叫ぶファフリは、まるで獣のような凶暴な眼差しをしていた。

「召喚術を使われるのが嫌なら、ユーリッドだってどこか行っちゃえばいいのよ! 私がちゃんと、悪魔を使役できるようになったら、ユーリッドなんていらないんだから……! やろうと思えば、この国の獣人たち全員を殺すことだってできるのよ!」

 ユーリッドの顔が、さっと強張った。
同時に、ファフリも我に返ったように口を閉ざした。

 ファフリは、血の気の失せた顔でその場にへたり込んだ。

「ご、ごめんなさい……」

 震える声で、謝罪の言葉を絞り出す。

「わ、私、なんであんなこと……ごめんなさい。ユーリッドをいらないだなんて、本当に思ってないの」

 ユーリッドは、一つ息を飲んでから気持ちを落ち着かせると、首を横に振った。

「俺の方こそ……ファフリの気持ち、分かってなかった。ごめん」

 ファフリは、俯いたまま泣いていた。
床には、ぱたぱたと涙が落ちている。

 ユーリッドは屈み込むと、氷のように冷たいファフリの手を握った。

「ごめん。俺じゃあまり頼りにならないかもしれないけど、ファフリのことは全力で守るよ。だから、もう少し頑張ろう。……つらいけど、今はとにかく行かないと」

 ファフリの鳶色の瞳から、ぽろぽろと滴が落ちた。

 前向きな言葉はどうしても出なかったが、それでもファフリはこくりと頷いた。

 ユーリッドは、床に落ちていたコルの実を拾ってかぶりつくと、ベッドにあったもう一つをファフリに手渡した。

「それ食べ終わったら、動けそうか? 大丈夫だったら、市場に行きたいんだけど……」

 ファフリは、一瞬大丈夫だと言おうとして、すぐに首を横に振った。
獣人の目の多い場所へと出るのはまずいと思ったのだろう。

「平気かな。もしまた見つかったりしたら……」

「ああ、多分今は平気だと思う。そこら辺の奴等は次期召喚師の顔なんて分からないし、兵団からの追手は流石にまだ追い付いていないはずだ」

 ファフリが、ユーリッドを見上げた。

「でも、ここは間宿でしょう? 沢山の商人が集まってるし、もしかしたら私のことを知っている獣人もいるかも……」

「それも、多分大丈夫だ。万が一商人に見つかっても、兵団が近くにいない限りはすぐ捕まるようなことはないと思う。国民は、ファフリが行方不明だと知らされてるだけで、陛下に命を狙われてることは知らないからな。いざというときは、兵団に引き渡される前に、力ずくで逃げられるよ」

 召喚師が次期召喚師の暗殺を謀っていたなどと公表されるはずもなく、世間にはファフリが失踪したとだけ伝えられていた。
すなわち、実質ファフリの命を狙っているのはミストリア兵団やリークス王からの刺客のみということになる。

 これは、先程買い出しに行った際、市場でユーリッドが耳にしたことであった。

 それを聞くと、ファフリは僅かに安心の色を見せた。

「何より、今は時間がない。もう少し休憩しても大丈夫だとは思うけど、夕刻以降闇市に行くのはちょっと心配だから、出来れば早めに動きたいんだ」

「闇市? 闇市に行くの?」

 単に買い出しに行くだけだと思っていたのか、ファフリが首を傾げた。

「うん。南大陸に渡るなら、許可証を偽造しないといけないから」

 ユーリッドの言葉に、ファフリは緊張した面持ちで頷いた。
城での生活しか知らないファフリにとって、闇市など別世界のものだろう。

 とは言えユーリッド自身も、闇市に行くのは初めてだった。
正直、世間的に言えばまだ子供であるユーリッドとファフリ、二人でそんなところへ行くのには不安があった。
しかし、今はこうするしかないのである。

 もし再び、刺客に追い付かれるようなことがあれば、次こそは死を覚悟せねばならないのだ。


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