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投稿日:2021年02月23日





「……ごめんね」

 そう口の中で小さく呟いて、トワリスは柄を逆手に持った。
そして、ファフリの喉元にゆっくりと切っ先を近付ける。

 優しく閉ざされた瞼や、規則正しく上下する胸元。
一度も傷ついたことなどないような、綺麗で白い肌。
まるで汚れを知らない風に見える彼女は、それこそこんな逃亡の旅に出る前は、本当に穏やかに暮らしていたのだろう。

 召喚師とはいえ、彼女はまだ幼さを残す少女なのだ。
悪魔に巣食われることさえなければ、ユーリッド同様、ただの純粋無垢な一人の子供にすぎない。

 そんな子供を、自分は殺そうとしているのだと思うと、ひどく悲しくなった。

——だったら、殺さなければいい。

 そんな考えが浮かんで、トワリスの腕はぴたりと動かなくなった。

 まだいくらでも殺せる機会はあるとか、もう少し様子を見てからでも良いだろうとか、様々な言い訳が頭を駆け巡って、トワリスは顔を歪めた。

 こんなことを思い始めたら、きっと自分は永遠にファフリを殺せない。
命を奪うとき、情にほだされたらもう出来ないということくらい、よく分かっている。

(……駄目だ、やれ)

 そう言い聞かせて、再び柄を握る手に力を込めた。

 そもそも、会って数日も経たない子供たちに、どうして情がわくというのか。
おそらく自分は、ファフリの召喚師という肩書きから、この子供達に昔の自分達を重ねてしまっているだけだ。
必要以上に気にしてしまうのも、原因はそこにあるのだろう。

 私情でこの機会を逃すなど許されない。
自分がここで彼女を殺し、それをサーフェリアに伝えれば、ミストリアという脅威が取り除かれることになる。

 今ここで、剣を下ろす。
たったそれだけだ。

「ん……」

 瞬間、ファフリが小さく声を漏らして身じろいだ。
喉元に迫っていた刃が、僅かに肌に食い込んだ気がして、トワリスは咄嗟に剣を後ろに落とした。
剣は、かしゃんと音を立てて、地面に落ちた。

 焦りなのか、恐れなのか、剣を握っていた手が震えて、全身から嫌な汗が噴き出した。
どくどくと脈打つ心臓の音を聞きながら、トワリスは恐る恐るファフリの喉元を見つめるが、相変わらずその肌は白いままだ。

 それに安堵すると共に、情けない気分になって、トワリスは額を押さえた。
先程まで、なんだってしてやるつもりだったのに、早速その決意が揺らいでしまった。

 その時、ふと視界の端に、ファフリのはだけた胸元が見えた。
わずかに覗く肌が、黒く変色している。

(あざ……?)

 不思議に思って少し近づいてみると、そのあざのような黒ずみは、蛇の鱗のように皮膚に貼り付いていた。
打撲傷や火傷の一種なのかとも思ったが、どうやら違うらしい。

 思いがけずその黒ずみに目を奪われていると、ファフリの瞼がゆっくりと持ち上がった。

「トワリス……?」

「…………」

 ファフリは、気だるそうに上半身を起こすと、辺りを見回しながら言った。

「……私、また寝ちゃったのね。ここは、どこ? ユーリッドは……?」

 トワリスは、後ろめたい気持ちを表情に出さないように目をそらすと、先程落とした剣をこっそり拾い上げて、鞘に納めた。

「……流された渓流の近くの森だよ。今日はひとまず、野宿することにしたんだ。ユーリッドは、今薪を取りに行ってる」

「渓流……? 流されたって、何が?」

 きょとんとした様子で聞き返してきたファフリに、トワリスは目を見開いた。

「何が、って……流されたじゃないか。吊り橋の上で兵団に襲われて、私達崖の下に落ちただろう? 覚えてないの?」

「兵団……」

 ファフリは、さっと顔を強張らせると、首を左右に振った。

「私、トワリスと会った日の夜から、記憶がないわ。間宿を出発したなんて、知らなかった」

「え……?」

 トワリスは、驚きのあまり絶句した。
戦いの最中は気絶していたとしても、襲われるまではファフリは一緒に歩いていたのだ。
記憶がないなんて、有り得ないことだった。

 ファフリはトワリスを見つめて、それから俯いた。

「……大丈夫よ、心配しないで。実は、ここ数日、こういうことがよくあるの。記憶が、断片的っていうか……」

「よくあるって、なんでそんなことが……。じゃあ、今日あったこと何も覚えてないってこと?」

「ええ……」

 弱々しい声で答えたファフリを見て、トワリスは眉を寄せた。
確かに、今日のファフリは明らかに様子がおかしかった。
ユーリッドにも言ったように、おそらく意識を悪魔に支配されていたのだろう。

 しかし、その間の記憶がごっそりないだなんて、少なくともトワリスは聞いたことがなかった。
トワリスが知っているのは、召喚師一族は時折悪魔の邪気に影響されて、人格が本人のものでないようになることがある、というだけだ。

(……ならファフリは、意識も身体も全て乗っ取られていたってこと……?)

 そんなこと、あるのだろうか。
信じられないという思いで頭がいっぱいになって、トワリスは息をのんだ。

 だが、自分が考え込んだところで答えが出るはずもないので、トワリスは、ひとまず今日あったことをファフリに説明した。
兵団に襲われたことはもちろん、ユーリッドから旅の事情を聞いたことも、全て。

 ファフリは、相槌を打ちながら静かに耳を傾けていたが、その瞳にはまるで生気が感じられなかった。

「……そっか、そんなことがあったのね。私のことに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい。……トワリスは、怪我とかしてない?」

「……してないよ」

「そう……良かった」

 言いながら、力なく微笑んだファフリを見て、トワリスは強い罪悪感に襲われた。

 ユーリッドにしても、ファフリにしても、この余裕がない状況下でどうして他人の心配ばかりしているのか。
しかも、ただの他人ではない。
ファフリを殺そうとしているトワリスに、だ。

 つい先程まで、実際にファフリの喉を掻き切ろうとしていたのだ。
本来畏怖(いふ)や軽蔑の眼差しを向けられるべきなのに、それでも優しい言葉をかけられていることが、むしろトワリスにとってはつらかった。

 トワリスは、一度何を言うべきか悩んで、それから口を開いた。

「……私の心配なんて、しなくていいよ。貴方たちは、それどころじゃないだろう。怖くないの? 悪魔のことも、命を狙われていることも……」

 私には、自分のことを考えることしかできないのに。
他人を気遣ってやれる余裕なんてないのに。
そういった申し訳なさと皮肉の意味も込めてトワリスが言うと、ファフリは悲しそうに眉を下げた。

「……怖いよ、ものすごく。色々なことが、怖くてしょうがないの」

 そう言うと、ファフリは胸元に手をかけて、衣を脱ぎ始めた。
トワリスが見た、あのあざのような黒ずみが露になっていく。
素肌にこびりつく鱗のようなそれは、胸から腹部にかけて、思ったより広範囲に広がっていた。

「それ、は……?」

 躊躇いがちに問いかけると、ファフリは泣きそうな顔でこちらを見た。

「……日に日に、広がっていってるの……。多分、悪魔の皮膚だと思うわ……」

 それだけ言うと、ファフリはすぐに胸元を閉じた。

「これが肌を全て覆ったら、きっと私も死ぬのよ。悪魔に、心も体も喰い尽くされて……。私には、それを抑えられる力も理由も、ないもの」

「……ファフリ……」

「こんなの、気持ち悪いよね……? 自分でも思うの、化け物みたいって。……だからお願い、ユーリッドには、絶対に言わないで……」

 ファフリは、自分を抱くように身体を縮めた。

「ユーリッドに、気持ち悪いって思われたくないの……」

 その言葉に、ずきんとトワリスの胸が痛んだ。

 ユーリッドなら、気持ち悪いだなんて思わないし、言わないだろう。
そんなことは、ファフリが一番よく分かっているはずだ。
それでも知られたくないと思う彼女の気持ちを、トワリスは否定することができなかった。


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