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投稿日:2021年02月23日
長いこと歩き続けて、西日が傾き始めた頃。
みるみる薄暗くなり、淡い夕暮れの光が木々の葉を照らし始めた辺りで、不意に、さわさわと川の流れる音が聞こえてきた。
そこから更に歩き、少し開けた場所に出ると、やはり、そこには川があった。
「ずっと歩いてきたし、ここでちょっと休憩するか」
ユーリッドがそう言って、どさりと荷物を下ろす。
ファフリも、嬉しそうに息をはくと、いつものごとく棒のようになった脚を擦りながら、ぺたりと地面に座り込んだ。
「やっぱり、心なしか南大陸は暑いね」
ぱたぱたと手で顔を扇ぎながら、ファフリが言う。
ユーリッドも、煩わしそうに前髪をかきあげながら、頷いた。
「ここはまだ森だからいいけど、木がなくなったら、もっと暑くなるんだろうな……今日一日で、飲み水も大分減っちまった」
苦笑して、残り少ない革の水筒をぽちゃぽちゃと揺らす。
それからユーリッドは、ちょうど川が見つかって良かったよ、と言いながら、水筒に川の水を入れようとした。
その時だった。
「──駄目っ!」
ファフリが、突如立ち上がり、大声で叫んだ。
ユーリッドとトワリスは、びっくりして、ファフリの方に振り向いた。
「ど、どうしたんだ、ファフリ」
「え……?」
川の方に身を傾けていたユーリッドが、体制を戻して問いかける。
しかしファフリは、きょとんとした様子で、不思議そうに首を傾けた。
「私……今、なんで……」
目を瞬かせながら、ぽつんと呟く。
自分でも、何故駄目だなんて叫んだのか、よく分からなかった。
ただ、ユーリッドが川の水に近づいた瞬間、急にどうしようもないくらい焦って、駄目だと口が動いたのだ。
(今の、なに……?)
そう考えながら、じっと川の流れを見つめる。
すると突然、夢の中にいるような気持ちになってきた。
──あの夢だ。
カイムがこちらに何かを語りかけてきて、そのあと、恐ろしい真っ黒な濁流が自分を飲み込む夢。
ただ、少し違うのは、自分は今、森の中にいるということだった。
足元ではさらさらと草が揺れて、頭上では木々の細長い葉がざわめいている。
なんとなく、目を閉じてみると、川の流れる音が、どんどん耳元に近づいてきて。
さらさら、さわさわと、ファフリの心も揺さぶってくるようだった。
それらの音が、何かを自分に訴えかけてきているような気がする。
しかし、その内容を聞き取ることはできない。
「なに……? 何を言っているのか、分からないよ……」
ファフリは、うわ言のようにそう言った。
ユーリッドは、何か悪い予感がして、ファフリの肩をがしりと掴むと、軽く揺さぶった。
「おい! ファフリ!」
何度か前後に揺すると、ファフリは、ゆっくりと目を開いた。
しかし、その目は虚ろで、ユーリッドを見ていない。
(悪魔に乗っ取られた時と同じだ……!)
ユーリッドは動揺した様子で息を飲むと、必死にファフリに呼び掛けた。
「ファフリ! ファフリ!」
トワリスも、心配になってこちらに駆け寄ってくる。
しかし、ファフリは未だ虚ろな目のままで、そして、ゆっくりと唇を動かした。
「水が……」
渓流で、兵団に襲われたときと、同じ台詞。
ユーリッドは、手を止めて川に視線を移した。
だが、ファフリの言葉に何の意味があるのかは、相変わらず全く分からない。
その時、不意に、何かが後ろから駆けてくるような音がした。
軽い足音で、ふっとそちらに振り返ると、二頭の鹿が、川の側まで来ていた。
鹿は、ユーリッドたちの方を警戒した様子で見たまま、じっとしていた。
だが、一度ぴくんと耳を動かすと、川の水に口をつけようとした。
すると、ファフリが言った。
「──やめなさい」
鹿が、ばっと顔をあげて、ファフリを見る。
ファフリは、彼女らしからぬ低い声音で、続けた。
「飲んでは駄目……」
そうしてしばらく、ファフリと二頭の鹿は見つめあっていたが、ふとユーリッドが身じろぎをすると、鹿はそろって、水を飲まずに走り去っていった。
ユーリッドとトワリスは、お互いに顔を見合わせると、一体何が起こったんだ、という風に眉をひそめた。
「……さっきの鹿、怪我もなかったし、奇病にはかかっていないように見えたけど……。今の、ファフリの言葉を、理解したってことなの?」
「さあ、俺には何がなんだか、さっぱり……」
ユーリッドは、ファフリから一旦離れると、もう一度じっくりと川を覗きこんだ。
やはり自分には、何の変哲もないただの川に見える。
しかし、身を乗り出して、更に川に近づこうと、川縁(かわべり)の石に手をつくと、何かぬめりとしたものが指に付着した。
「うわ、なんだこれ」
思わず声をあげて、自分の指を見る。
すると、黒いねっとりとした何かが、指先にべったりと付いていた。
「油……?」
脇から覗きこんだトワリスが、怪訝そうに尋ねる。
ユーリッドは、分からないと答えて、先程の石をよく見た。
そうすると、ちょうど水かさの高さに沿って、黒い何かが少量、石の表面にこびりついていることに気づいた。
「……なんだろう、上流で誰かが何か流したのかな」
そんなトワリスの呟きを聞きながら、試しに、臭いを嗅いでみる。
すると、ユーリッドは目を見開いて、勢いよく身を起こした。
「これ、シュテンさんの身体からした臭いと同じだ……!」
トワリスが反応して、瞠目する。
「どういうこと?」
「分かんない、けど……このつん、とする臭い、絶対そうだよ」
トワリスは、鼓動が速くなるのを感じながら、再度川に視線をやった。
この黒い物質の正体は分からないが、同じ臭いがしたというなら、これと奇病に何らかの関係がある可能性は大いにある。
ユーリッドは、ひとまず足元の草に黒い物質を擦り付けた。
黒い物質は、案外簡単に取れて、液体のように土と草に染み込んでいく。
「でも、川が使えないってなると、厳しいぞ。飲み水が大分少なくなってきたし……」
ユーリッドがそう言って、革の水筒を持ち直すと、ファフリがふと顔をあげた。
ファフリは、そっと手を伸ばして、ユーリッドから水筒を取ると、川を離れて、今度は森の奥の方に歩き始めた。
その足取りは、ゆったりとしているのに速く、先程まで、疲れて座り込んでいた少女のものとは思えない。
ユーリッドとトワリスは、急いで荷物を持ち、ファフリを追いかけた。
そして、追い付いてから、ぐっと腕を掴んで振り向かせると、途端に、はっとファフリの目に光が戻った。
「ユーリッド……?」
ぱちくりと瞬いて、ファフリが首を傾ける。
ユーリッドは、はあっと脱力したように息をはくと、安心したように表情を和らげた。
「……よかった、元に戻った。大丈夫か?」
「うん……でも、お水を調達しないと……」
ファフリの言葉に、トワリスは驚いたように眉をあげた。
「ファフリ、今回のことは記憶にあるの?」
「え……?」
そう言われてから、ファフリは色々なことに気づいた。
まず、自分は、水筒に川の水を汲むのは駄目だと叫んだあの時から、ユーリッドに腕を掴まれるまで、すっぽりと意識がなかった。
自分が今までなにを考え、見ていたのか、全然分からないのだ。
それなのに、不思議なことに、記憶はあった。
川縁の石に黒い油のようなものが付着しているのを見つけ、どこかで水を手に入れなければと思ったところまで、はっきりと覚えている。
まるで、意識がない間、自分はその場にいなかったけれど、誰かがその時のことを見聞きしていて、その誰かの記憶がそのまま自分の頭に後々はまりこんだような、そんななんとも言えない感覚であった。
これらをどう言葉に表現してよいのか分からず、ファフリは、困ったようにトワリスを見ると、たどたどしく口を開いた。
「えっと、何て言ったらいいのか分からないの……でも、覚えてるわ。ただ、あの時の私は、私じゃなかったっていうか……」
なんとか必死に伝えようとするも、ユーリッドとトワリスは表情を曇らせたままだ。
しかし、ファフリには、これ以上どう言えば良いのか、分からなかった。
その時、不意に、耳元でクィックィッと声がした。
カイムの声だ。
ファフリが顔をあげると、立ち並ぶ木々の一本に、カイムが止まっている。
こちらに来い、と言っているようだった。
ファフリは、ぎゅっと水筒を抱えると、ユーリッドとファフリに視線を戻した。
「とにかく、飲み水を確保するなら、あっちに行けばいいの。あそこ、あの鳥がいるほうよ」
カイムを指さして、再びファフリは歩き出す。
ユーリッドとトワリスは、困惑した様子でファフリの指した方向に目を向けた。
そこには、鳥の姿なんてなかった。
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