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投稿日:2021年02月23日





†第四章†──対偶の召喚師
第二話『慧眼けいがん



 洗い終わった鍋を、暖炉のある居間──ユーリッドたちが寝起きしていた部屋に、戻そうとしたとき。
部屋に入った瞬間、リリアナは、思わず鍋を落としそうになった。

 三日以上、眠り続けていたはずのトワリスが、寝台の上で、上体を起こしていたからだ。

「ト、トワリスっ!」

 鍋を机に置くと、リリアナは、すぐさま寝台の側に寄った。
返事がないのも構わず、涙ぐんで、トワリスの手を強く握りこむ。

「トワリス、トワリス……よかった! わかる? 私、リリアナよ。貴女、無事にサーフェリアに帰って来られたのよ! 大変だったでしょう。もう、大丈夫だからね。痛いところとか、ない? 待ってて、今、ダナ先生を呼んでくるから……」

 そこまで言って、リリアナは、トワリスから全く言葉が返ってこないことに気づいた。
言葉どころか、握った手もぴくりとも動かないし、反応らしい反応が一切ない。

「……トワリス……?」

 不審に思って、ゆっくりとトワリスの顔を見る。
すると、伏せられていたトワリスの目が、ふっとリリアナを映した。

 その、次の瞬間。

「──っ……!」

 がん、と頭に殴られた衝撃が来て、リリアナは、車椅子ごと床に吹っ飛ばされた。

 頭を打ち付ける鈍い音がして、視界が揺れる。
そのぼやけた視界の端で、倒れた車椅子の車輪が、からからと回っていた。

「ちょっと姉さん、何やって……」

 リリアナが倒れる音を聴いて、駆けつけてきたカイルが、扉を開けて部屋に入ってくる。

 カイルは、状況が理解できず、寝台で座ったままのトワリスを見て、硬直していた。
しかし、車椅子から投げ出されたリリアナを見ると、すぐにそちらに駆けていって、リリアナを抱き起こした。

「なに、なにこれ……トワリス、どうしたんだよ……?」

 混乱したまま、リリアナとトワリスを交互に見て、カイルが呟く。
リリアナは、カイルを支えになんとか身を起こすと、寝台の上にいるトワリスを見つめた。

「どうしちゃったの? トワリス、私たちのこと、分からない?」

 震える声で問いかけると、トワリスが、リリアナとカイルのほうを見た。
その瞳を見て、リリアナは、胸が冷たくなるのを感じた。
茶褐色のはずのトワリスの瞳が、橙黄色に光っていたからだ。

 トワリスは、寝台から下りて立ち上がると、周囲を一通り見回してから、ふっと笑みを浮かべた。

「……相変わらず、居心地の悪い国だ。依代よりしろにも、うまく馴染めぬ」

 まじまじと自分の腕や脚を観察しながら、トワリスが言う。
その声を聞きながら、リリアナとカイルは、放心しているしかなかった。

 トワリスは、不気味な橙黄色の目を二人に向けると、ゆったりとした口調で言った。

「人間よ、ミストリアの小娘は、どこへ行った」

「……!」

 その質問を受けて、リリアナの脳裏に、ファフリとユーリッドの姿が浮かぶ。
リリアナは、トワリスから視線を反らすと、未だ呆気に取られているカイルの身体を、力一杯押し飛ばした。

「カイル、逃げなさい! 早く!」

 顔を真っ青にしたカイルが、首を横に振る。
全くもって何が起きているのか分からなかったが、このトワリスと姉を二人にしておくのは、絶対に危険だ。
それだけは、理解できた。

 カイルは、脚に力を込めると、倒れたままのリリアナの腕を、自分の首に回させた。
こうなったら、自分が姉を支えて、走って逃げるしかない。
リリアナは、自力で立つことが出来ないのだ。

 しかし、立ち上がる前に、風圧が二人の間に生じて、カイルは壁際まで吹っ飛ばされた。
どんっと背中を強く打ち付けて、嫌な咳が込み上げてくる。

 トワリスは、床で仰向けに倒れているリリアナを見下ろすと、唇で弧を描いた。

「つまらぬ茶番はよせ。今一度問う。ミストリアの小娘は、どこだ」

 そう尋ねながら、トワリスの手が、リリアナの胸元にのびていく。
すると、その瞬間、目の前で信じられないことが起きた。
トワリスの指先が、リリアナの胸の中に吸い込まれていったのだ。

 衣服や肌、肉さえも貫いて、トワリスの手が、ずぶずぶとリリアナの胸に入っていく。
途端、心臓がぎゅっと鷲掴みにされたかのように痛んで、リリアナは仰け反った。

「……さあ、言え。言わぬと、心臓を握り潰すぞ」

 くつくつと愉快そうに笑いながら、トワリスが言う。
そんな彼女を見ながら、リリアナは、腹の底から凄まじい寒気が這い上がってくるのを感じた。
心臓の痛みは消えたが、今、トワリスの手が自分の心臓に触れている。
不思議と、その感覚があったのだ。

 カイルは、咄嗟に机にあった鍋をとると、それを、思いきりトワリスに向かって投げつけた。

「この化け物! 姉さんから離れろっ!」

 真っ直ぐに、鍋がトワリス目掛けて飛んでいく。
だがそれは、トワリスの頭部に直撃する前に、空中でぴたりと止まった。

「…………」

 一瞬の沈黙の末、トワリスが、リリアナの胸から手を引き抜いて、ゆらりと立ち上がる。
その様子に、なにか嫌な予感がして、カイルに逃げろと叫びたかったが、リリアナには、そんな力はもう残っていなかった。
恐怖のあまり、呼吸するのが精一杯で、声すらあげられなかったのだ。

 トワリスは、しばらく無表情で俯いたまま、じっと黙っていた。
しかし、ふと顔をあげると、視線だけ動かして、ぎょろりとカイルを睨んだ。

「……煩い」

 地を這うような低い声で言われて、身体が凍りついたように動かなくなる。
トワリスのものではない、その爛々と光る瞳に射抜かれるだけで、カイルは、全身を屠(ほふ)られているような感覚に陥った。

 トワリスが、ふぅっとゆっくり息を吸う。
すると、宙に浮かんでいた鍋が、高熱で溶かされたかの如く、液状になって、ぼたぼたっと床に滴った。

「……飽きた。死ね」

 そう言って、トワリスが、すっとカイルに人差し指を向けた、そのとき。

 凄まじい勢いで部屋の扉が開いたかと思うと、大きな影が飛び出して、カイルの前に立ちはだかった。

 一瞬、死を覚悟して固く目を閉じていたカイルは、しかし、一向に痛みが襲ってこないことに気づくと、恐る恐る目を開けた。
そして、自分をかばうように、ハインツが目の前に立っているのを見ると、腰が抜けて、すとんと床に座り込んだ。

「……ハ、ハインツ……」

 息を漏らすように言うと、ハインツが、ちらっとカイルに顔を向ける。
どうやら、トワリスが放った魔術を、そのまま身体で受け止めたらしい。
ハインツの身体からは、しゅうっと煙が上がっていた。

 一方のトワリスは、突如現れたハインツを見て、すっと目を細めた。
確実に、人間ならば吹き飛んでばらばらになるくらいの魔術を使った。
それなのにこの大男は、苦しがる様子もなく、平然と立っている。
何か特別な結界を張ったわけでもない、直接身体に受けたにも拘わらず、だ。

 ハインツは、足元でへたりこんでいるカイルと、トワリスの近くで力なく倒れているリリアナを見ると、最後に、対峙する敵に目を向けた。
それは、確かにトワリスの姿をしているが、絶対に別の何者かだと、すぐに分かった。
本物のトワリスは、高等な魔術は使えないし、瞳の色も違う。
そもそも雰囲気一つを見ても、目の前の相手に、トワリスの面影は全くなかった。

「……お前、誰」

 低い声で言って、ハインツが構える。
すると、ただですら強堅な筋肉で覆われている身体が、ぴきぴきと岩のように硬化し始めた。
この魔術は、ハインツがもつ独特のもので、このように皮膚を岩のように硬化させてしまえば、斬撃や打撃はおろか、魔術でさえ半端なものは効かない。

 攻撃を仕掛けるよりは、守りに徹した方が得策だと思ったのだ。
下手に動けば、近くにいるリリアナを人質にとられる可能性があるし、見たところ、トワリスも怪我をしている。
相手の正体はともかく、乗っ取っているだけで、身体自体は本物のトワリスなのだ。
もしその身体で無茶なことをされたら、トワリスの命にも関わる。

 異様な緊張感の中、ハインツが相手の出方を伺っていると、不意に、トワリスの目が面白そうに光った。

「そうか、その肉体……貴様、巨人族の血族であろう。いや、こちらでは、リオット族(地の祝福を受ける民)と呼ばれているのであったか」

 無表情から、再び可笑しげな笑みに戻って、トワリスが口を開く。

「道理で、あの程度では倒れぬわけか。相分かった。……おぬしがいるということは、サーフェリアの小僧も既に動いておるのだろう。ならば、都合が良い」

 独り言のように言って、天井を仰ぐと、トワリスは静かに目を閉じた。
すると、トワリスの胸から肩口にかけての傷から、黒い煙のようなものが噴き出てきて、空気中に霧散した。

 その瞬間、トワリスの身体が、糸の切れた操り人形のように、重力に従って崩れる。
ハインツは、咄嗟に身体の硬化を解くと、トワリスを受け止めた。

 先程までの緊迫した空気は跡形もなくなり、しん、と部屋の中が静まり返る。
ハインツの腕の中に落ちたトワリスは、ぐったりとして動かず、再び眠りに落ちたようだ。

「……た、助かった、のか……?」

 カイルが、力ない声で言った。
リリアナは、未だ早鐘を打っている胸に手を当てると、はぁっと安堵の息を吐いて、身を起こした。

 ハインツは、ひとまずトワリスを寝台に寝かせ、倒れている車椅子を起こすと、リリアナを抱えてそこに座らせた。
そして、腰が抜けたまま上手く立てないカイルを軽々と持ち上げると、再びリリアナの前にやってきて、見せつけるようにカイルをずいと前に出す。

 一瞬、ハインツが何をしたいのかよく分からず、ぽかんとしていたリリアナだったが、やがて、彼はカイルが無傷だということを自分に示したいのだと気づくと、じわっと涙が出てきた。

「うっ……カイル、ハインツくん……」

 がばっと両腕を広げて、リリアナがハインツの太い腰にしがみつく。
ハインツは、カイルを置いて逃げようとしたが、逃げる前にリリアナに抱きつかれて、動けなくなった。

「うわぁあぁあ、殺されちゃうかと思ったぁああ」

 泣き叫ぶリリアナに、ハインツが硬直する。
おろおろしながら困った様子で、助けてくれと言わんばかりに、ハインツはカイルに視線をやったが、カイルは何も言わずに、その光景を見ていた。

 リリアナの突発的かつ大胆な行動に、ハインツが困惑するのはいつものことだ。
普段なら、カイルがリリアナに制止をかけるのだが、今はそんな気分にはなれない。

 リリアナは、しばらくそうして、わんわん大声で泣いていたが、やがて、しゃくりあげながらカイルを見て、トワリスの方にも目をやった。
そして最後に、微動だにしないハインツを見上げると、ようやく彼を解放した。

「ぅ、うっ……ハインツくん、助けてくれて、ありがと。そういえば、なんでここにいるの?」

 涙を拭いながら尋ねたリリアナに、ハインツが、過剰に反応する。
ハインツは、そのままびくびくしながら後ずさって、部屋の隅に身体を丸めて座り込むと、小動物のように身体を震わせながら答えた。

「……かっ、勝手に、部屋、入ってごめん……」

 その図体の大きさからは想像もつかない、か細い声で言う。
そうして、申し訳なさそうにちらちらとこちらを伺うハインツを見て、カイルはため息をついた。

「……ほら、姉さんが急に抱きついたりするから、ハインツが動転して怯えてるじゃないか」

「えっ!? ち、違うわよ……あれは愛の抱擁よ! 守ってくれてありがとうっていう、お礼の印で……」

「はいはい」

 呆れたように言って、小さく肩をすくめる。

 正直、つい先程まで、カイルの心も動揺と恐怖で一杯だったが、姉とハインツの普段通りのやり取りを見ていたら、なんだか妙な安心感がわいてきて、案外冷静に言葉が出てきた。

 リリアナは、何度も深呼吸してしゃくりあげを止めると、寝台の上で眠るトワリスを見た。

「さっきのあれは、なんだったのかしら。トワリスに、何があったの……?」

 その言葉に、カイルもトワリスを見る。
ハインツは、部屋の隅で座り込んだまま、小さく首を振った。

「……わからない。でも、さっきのは、トワリス、違う」

 リリアナが、そうよね、と答えて、不安げにうつむいた。

「あれがトワリスじゃなくて、誰か別人だって言うのは、分かってるわ。別にトワリスのことを、疑ったりなんてしてないの。だけど、もし次に目覚めたとき、トワリスがまたあんな風になっていたら……」

 先程のことを思い出して、リリアナが身震いする。
カイルも、どこか心細そうに目を伏せて、黙っていた。

 ハインツは、ふと立ち上がると、慎重にトワリスを抱き上げた。

「……大丈夫。中にいた奴、多分、出ていった。あと俺、トワリス、王宮に連れていく。ルーフェンに、言われた」

 その言葉に、カイルは驚いたように顔を上げる。

「なに? ルーフェンのやつ、トワリスが帰ってきてること、知ってるの?」

「……うん」

 ハインツが、こくりと首肯する。

「シュベルテに、獣人の子、来た。今、王宮にいる。ミストリアの話、するから、ルーフェンが……トワリス、連れてこいって」

 その瞬間、疲労が滲んでいたリリアナとカイルの顔つきが、ぱっと明るくなった。

「獣人の子って、ユーリッドくんとファフリちゃんのことよね! 良かった、二人とも、無事にルーフェン様と会えたのね!」

 ほっと胸を撫で下ろして、リリアナが嬉しそうに表情をやわらげる。
詳しい事情を聞いておらず、黙っているハインツに、カイルが付け足して説明した。

「ユーリッドとファフリは、トワリスがミストリアから連れてきたんだ。命を狙われてるらしくて、サーフェリアまで逃げてきたみたいなんだけどさ。俺たちじゃどうしようもできないし、とりあえずルーフェンに訳を話して、どうにかしてもらおうっていうんで、ずっとルーフェンを探してたんだよ」

 リリアナが頷いて、言葉を続けた。

「ファフリちゃんはね、ミストリアの次期召喚師なの。それもあって、ルーフェン様に相談するのが一番かなって思って」

 次いで、今度は真剣な面持ちになると、リリアナはハインツを見つめた。

「あ、でも……王宮にいるって言っていたけれど、ユーリッドくんとファフリちゃん、ひどい目に遭ったりしないわよね? あの二人を、私達みたいな一般人がいつまでも預かっているわけにはいかないし、こんな方法をとってしまったのだけど、獣人を敵視しているこの国の現状を考えると、やっぱり不安で……。ユーリッドくんとファフリちゃんは、あの変な獣人たちとは違うのだし、ちゃんと話せば、陛下やルーフェン様も分かってくださるわよね? 二人とも、とってもいい子達なの。なんとか、一時的にでもいいから、サーフェリアでの滞在をさせてあげたいわ」

 リリアナの言葉を拾う形で、カイルが口を開いた。

「本当は、王宮に見つかる前に、ルーフェンだけに話を持ちかけられれば良かったんだけどな。全く、ルーフェンのやつ、どうでもいいときはうろちょろしてるくせに、どうしてこんな肝心なときにいなかったんだよ……」
 
「…………」

 姉弟の会話を聞きながら、ハインツは、ふと昼間の公開処刑の場で起きたことを、思い出していた。

 教会側の反応を見る限り、彼らがユーリッドやファフリを良く思っていないのは、まず確実だろう。
良く思っていないどころか、正式に処遇が決定されるとなれば、獣人など潰してしまえと主張してくる可能性が高い。

 仮に、教会側のそういった主張が無くても、今のサーフェリアの状況を考えれば、獣人を擁護しようという者は少ないはずだ。
まして相手が、敵国の戦力の中枢ともなり得る、ミストリアの次期召喚師となれば、尚更である。
普通に考えれば、敵の頭を叩かずにみすみす見逃すなんてことは、あり得ない選択だ。

 あとは、ルーフェンがどう判断するか──。

 リリアナは、ルーフェンがファフリたちの擁護に回ってくれるだろうと信じているようだが、それも、実際のところ、どうなるかは分からない。
ひとまず王宮に招いてはいたが、それが一体どのような意図で行われたことなのか。
ルーフェンが考えていることは、ハインツでも推測できないのが常である。

(それに……さっきのは……)

──……おぬしがいるということは、サーフェリアの小僧も既に動いておるのだろう。ならば、都合が良い。

 トワリスの中にいた、何者かの言葉を思い出す。
まるで、起こっていることの全てを把握しているような、そんな口ぶりだった。

 加えて、あの膨大な魔力に、不気味な橙黄色の瞳。

 その正体を考えれば考えるほど、底知れない不安が胸にわき起こってきて、ハインツは、仮面の奥で目を細めたのだった。


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