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投稿日:2021年02月23日




  *  *  *


 トワリスは、長い間、ずっと暗闇の中にいた。
自分が今どこにいるのか、何をしていたのかも分からなくて、状況を確かめるべく、身を起こそうとするのだが、全身がひどく痛んで、手足が全く動かない。
なにか叫ぼうにも、喉が焼けつくようにはりついて、声もうまく出せなかった。

 音もない、景色もない。
そんな、恐ろしいほど真っ暗な虚無の空間で、不意に、どこからかじゃらじゃらと鎖の音が聞こえてきた。
同時に、濃い顔料の臭いが鼻をついて、びくりと目を開ける。

 すると、はっきりとしない視界に、蝋燭の光に照らされた銀髪が映った。

「……ルーフェン、さ……」

 掠れた声で呼ぶと、さらりと銀髪が動いた。
不意に、喉の奥から熱いものが込み上げてきて、つっと涙が流れる。

 ルーフェンは、そんなトワリスの様子に、一瞬目を見開いた。
だが、すぐに瞳にやわらかい光を浮かべると、彼女の目にたまった涙を、指で拭った。

「……トワ、おはよう。……怖い夢でも見た?」

 言いながら、ルーフェンは、目にかかりそうな彼女の前髪を丁寧に払いのける。
徐々に、夢うつつから現実の世界に引き戻されて、トワリスは、ルーフェンを見つめた。
ルーフェンは、燭台の炎を強めると、ゆっくりとした口調で言った。

「……君は今、大怪我をして動けないんだ。分かる?」

「怪我……?」

 何故、怪我なんてしてるんだろう。
そう考えた途端、全ての記憶がどっと押し寄せてきた。

「……そう……そうだ。ユーリッドとファフリは……! 私達、ミストリアで──」

「分かってるよ」

 ルーフェンは、無理矢理起き上がろうとしたトワリスを、両手で押さえた。

「……ここは王宮だ。君は、ミストリアからサーフェリアに、帰ってこられたんだよ。ずっとリリアナちゃんの家にいたみたいだけど、ハインツくんに言って、君をここまで連れてきてもらった。ユーリッドくんとファフリちゃんも、今、王宮にいる。明日、君が起き上がれそうなら会わせてあげるから、そこで一度話そう。いいね?」

「王宮に、って……ユーリッドとファフリも? そんな、私、ろくな説明も出来ないまま二人をサーフェリアに連れてきちゃって……。ファフリは、ミストリアの次期召喚師なんです。王宮なんかにいたら、命を狙われるんじゃ……」

「知ってる。大丈夫だから、本当に心配しなくていい」

 未だに混乱した様子のトワリスを、なだめるような口調で言うと、ルーフェンは声を潜めた。

「明後日、陛下の御前で審議会が行われる。そこで正式に、ファフリちゃんたちをどうするか、決定されるだろう。その審議には、当然トワも出席することになるけど、君は、とりあえずミストリアで見たことを、そのまま全て陛下に話せ。それだけでいい。あとはこっちでどうにかする。そうすれば、きっと君が心配しているようなことにはならないから」

「で、でも……」

 不安そうに口ごもって、トワリスが表情を曇らせる。
するとルーフェンは、大袈裟に肩をすくめた。

「この俺が大丈夫って言ってるんだから、何も気にせず、どんと構えてればいーの。それともなに、俺の言ってることは、信用ならないって?」

「……別に、そういう訳じゃないですけど……」

「それならほら、早く寝な。言っておくけど君、かなり重体で、四日近く目を覚まさなかったんだからね? 他人の心配してる場合じゃないっての」

 諭すように言われて、幾分か落ち着きを取り戻すと、トワリスは再び寝台に身体を埋めた。
それを見届けると、ルーフェンは、どこか呆れたように息を吐いて、苦笑した。

「……大体、こんなでっかい傷、どこで作ってきたのさ?」

「傷って……どれのことですか?」

「これ」

 襟元から覗く、トワリスの肩口の傷を、包帯ごしにルーフェンがなぞる。

「ああ……これは、急にやられたから、防げなくて」

「やられたって、誰に?」

「えっと……確か、エイリーンとかなんとかって、呼ばれてたような……」

 そう言った瞬間、ルーフェンが顔をしかめた。

「……誰だって?」

「私も、よく知りませんよ。長い黒髪で、二十歳そこそこくらいの外見でしたけど……。今考えれば、獣人じゃなかったような気がします」

「……ふーん」

 気がなさそうな返事をして、ルーフェンは、寝台脇の机にある蝋燭に視線を移した。
その表情はどこか堅く、鋭いように見える。

 しかし、すぐにいつもの軽薄そうな表情に戻ると、ルーフェンは、トワリスの襟を直した。

「……ま、とにかく今は、治療に専念することだね。……食欲は?」

「……あんまり」

「そ。じゃあ今はいいから、明日の朝、ちゃんと食べなよ」

 それだけ言って、席を立ったルーフェンに、トワリスは、思いがけず言った。

「……どこか、行くんですか?」

 それを聞くと、ルーフェンは、少し驚いたような顔をした。
だが、にやりと笑うと、いたずらっぽく言った。

「なに、もっと一緒にいてほしいの?」

「……うるさい」

「はは、久々の再会だっていうのに、相変わらずつれないなぁ」

 そう言って、苦々しく笑うと、ルーフェンは、上げかけた腰を再び下ろした。

 もっと一緒にいたいのか、などと尋ねてくるルーフェンを、トワリスが帰れと追い出す。
このやりとりは、なんだかしょっちゅうしているような気がした。
今回は、トワリスの返事が、少しだけいつもと違っただけだ。

「……あの、ルーフェンさん」

「ん?」

 結局、もう少しここに留まることにしたらしいルーフェンを、不意に、トワリスが呼んだ。

「あの……耳飾り……。今、ファフリに貸していて」

「……うん」

「ちゃんと後で返すので、もう少し、待っていてください」

 律儀に、そんな申告をしてきたトワリスに、ルーフェンは小さく笑った。

「ああ。いいよ、いつでも」

 そう答えて、ルーフェンはトワリスに背を向けると、寝台に寄りかかった。
しかし、そうして息をつく間もなく、再びトワリスが口を開く。

「私がいない間、サーフェリアで、何もなかったですか?」

「んー?」

 ルーフェンは、考えるように宙を見ると、静かに答えた。

「……何もなかった、とは言えないけど、獣人たちも大方片付けたし。トワも帰ってきたし。まあ、悪い方向には向かってないんじゃない?」

「…………」

 トワリスは、一瞬沈黙してから、薄く笑みをこぼした。

「そう、ですか……それなら良かった」

「……どうしたの」

 背を向けたまま、ルーフェンが尋ねると、トワリスは目を伏せた。

「……いえ、正直、帰れないんじゃないかって、思ってた部分もあったので……なんていうか、まだ実感が湧かなくて……」

 しみじみと言ったトワリスに対し、ルーフェンは、場違いなほど明るい声で言った。

「帰れないって、トワが? そんなまさか。トワなら、どんな相手が襲ってきても、そいつ蹴っ飛ばして、ぶん殴って、ついでにぶつぶつ小言言いながら、ふんぞり返って帰ってくると思ってたよ」

「……あの、私のことを何だと思ってます?」

「えー、言ったら怒られそうだから言わなーい」

「怒られそうなこと考えてるんじゃないですか!」

 掠れた声を荒らげて、トワリスが憤慨する。
ルーフェンは、安心したように笑って、小さく肩をすくめた。

「おー、恐い。それだけ元気なら、明日には立ち上がって、俺に蹴りかかって来そうだね」

「ほんっとうるさいです」

 むすっとした顔つきになると、トワリスはそっぽを向いた。
それにも拘わらず、沈黙が気まずいのか、あるいは他に理由があるのか──トワリスはずっと、何か話題を探しているようだった。

 だが、いい加減、疲労と眠気で、上手く頭が回らないのだろう。
次の言葉が見つからないらしく、トワリスは、しばらくそうして、落ち着かなさそうにして黙っていた。

 しきりに何か言おうとするが、躊躇ったように口を閉じるトワリスを見て、ルーフェンは、ぷっと吹き出した。

「……トワ、寝られない? それとも、寝たくないの?」

「…………」

 トワリスは、返事をしなかった。
しかしルーフェンは、その反応に対しても、どこか可笑しそうに肩をすくめた。

「……早く寝なって。しばらく、ここにいてあげるからさ」

 そう告げて、トワリスがなにも言わないことを確認すると、ルーフェンは再び寝台を背もたれにして、後ろを向いた。

 二人はそのまま、長い間、ずっと黙っていた。
だが、ある時、ふとルーフェンの方を見ると、トワリスが言った。

「ルーフェンさん、私……」

「……うん?」

 ルーフェンが、再度振り返る。
トワリスは、ルーフェンの目を見て、何か言おうと口を開いたが、結局何も言わず、諦めたように寝台に潜り込んだ。

「やっぱり、なんでもないです」

「…………」

 ルーフェンは、微かに笑みをこぼして、穏やかな声で言った。

「……おやすみ、トワリス」

 その声を聞きながら、目を閉じると、不思議と安心感に包まれて、トワリスは、深い眠りに落ちていった。

 トワリスが眠ったのを見届け、部屋の外に出ると、長廊下にハインツが立っていた。
ハインツは、ルーフェンの姿を認めると、小さな声で言った。

「……トワリスは?」

「目を覚ましたよ。……ただ、サーフェリアにきてからの記憶は、一切なさそうだ。つまり、リリアナちゃんたちを襲ったのは、確実に別の誰かってことだね」

 ルーフェンの言葉に、ハインツが眉をひそめる。

「……あいつ、トワリスの、肩の傷から、出ていった。炎みたいな、黄色の瞳で、とても強い」

「…………」

 ルーフェンは、ハインツの声に耳を傾けながら、脱力したように壁に寄りかかると、はぁっとため息をついた。
それから、何か考え込んで目を伏せると、胸の前で腕を組む。
その目が、険しく細められているのを見て、ハインツは訝しげに問うた。

「……ルーフェン、心当たり、ある?」

「いや……」

 ルーフェンは、言葉を濁すと、つかの間黙りこんでから、ハインツに向き直った。

「……とりあえず、今、片付けるべき問題は審議会だ。ハインツくんは、トワについていて。あと念のため、リリアナちゃんたちのところにも様子を見に行って、何かあれば、また俺に言って」

「……わかった」

 返事を聞いて、その場から立ち去ろうとしたルーフェンに、ハインツは声をかけた。

「ルーフェン、トワリスに、ついてなくて、いいの?」

 ルーフェンは、振り返って、少し困ったように笑った。

「……あの子、意地っ張りだから、今は俺より、ハインツくんに側にいてほしいんじゃないかな」

 その返答に、ハインツが不思議そうに首をかしげる。
しかしルーフェンは、それだけ告げると、踵を返して歩いていってしまった。

 廊下を進みながら、ルーフェンはずっと、“トワリスの中にいたという誰か”のことを考えていた。
ハインツには、言わずにごまかしたが、その正体に、ルーフェンは心当たりがあるのだ。

(……冗談じゃない。もし、司祭共の言うイシュカル様ってのが、本当にいるのだとしたら、是非もう一度、お出まし頂きたいもんだね)

 珍しく厳しい表情を浮かべて、ルーフェンは心の中で独りごちる。

 ずっと心の奥底にあった嫌な予感を、見て見ぬふりすることが出来なくなっていることに、ルーフェンは気づいていた。


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