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投稿日:2021年02月23日
†第五章†──回帰せし運命
第一話『 眩惑』
サーフェリアでの暮らしは、ユーリッドとファフリにとって、とにかく目新しい発見に満ちたものであった。
まず、年中温暖な気候のミストリアに対し、サーフェリアには四季があるのだ。
ルーフェンの家で暮らし始めた頃は、青々と繁っていた山の木々も、秋が深まり、冬の足音が近づいてきた今では、すっかり葉を落として、乾いた幹や枝がむき出しになっている。
初めは、慣れない寒さに戸惑っていた二人だったが、季節によって変わる食べ物や、冬特有の澄んだ空気など、未知のものに触れていく内に、ミストリアとは違う生活様式を楽しむようになっていた。
特に、雪がちらついた日には、ユーリッドもファフリも、城下で遊ぶ子供たち以上に興奮していたものである。
ミストリアでは、雪なんて数十年に一度お目にかかれるか、かかれないかの奇跡なんだと、ユーリッドは力説したが、そのあまりのはしゃぎっぷりには、トワリスも苦笑するしかなかった。
トワリスは、時折シュベルテに戻ることがあったが、やはり心配だというので、ユーリッドたちと共にルーフェンの家で暮らしていた。
だが、その心配とは裏腹に、三人は恐ろしいくらいに穏やかな日々を過ごしていた。
もちろん、ユーリッドもファフリも、自分達が置かれている立場や、ミストリアで起きたことを忘れたわけではない。
このままサーフェリアで、ずっと安穏と暮らしているわけにもいかないことだって、十分に分かっている。
しかし、それでも、追っ手に襲われることのないサーフェリアでの生活に慣れていく内に、『自分達の今後についての話』が、自然と口から出なくなってしまっていた。
そんな暮らしの中で、少しずつ変化が起き始めたのは、ルーフェンの家に移り住んで四月が経った頃だった。
ファフリが、体調を崩したのである。
最初は、生まれて初めて冬の寒さを経験し、風邪を引いただけなのかと思っていたが、かれこれ、一月は寝込んでいる。
ユーリッドもトワリスも、流石に不自然だと感じ始めていた。
加えてファフリは、魂が抜けてしまったかのように、ぼんやりとすることが多くなった。
サーフェリアに来てから、一人で物思いに耽っていたり、何かを思い悩んでいるような姿を見せることが多くなっていたが、それとは違う。
本当に、人形のように放心して、一日中座り込んだまま動かないこともあるのだ。
かといって、サーフェリアの医師にファフリを診せるわけにもいかないし、そもそも、熱があるとか、痛む場所があるとか、具体的な症状は出ていないのだ。
ユーリッドもトワリスも、打つ手はなく、ただファフリを見守ることしか出来なかった。
その日も、朝からファフリは、寝台から起きてこなかった。
日によっては、普通に起床して、朝食を食べながら会話する時もあるのだが、徐々にそういった日も減ってきている気がする。
眠り込むファフリの額に手を当てて、ユーリッドは、細くため息をついた。
「熱は、ないな。……これ、やっぱり悪魔とかの影響だと思うか?」
問いかけられて、トワリスは首を振った。
「わからない。でも、そうとしか考えられないよね。ルーフェンさんに、近々相談できればいいんだけど……」
「……ああ」
ユーリッドが頷いて、微かに目を伏せる。
その横顔は、暗く沈んでいて、少しやつれたようにも見えた。
ファフリの様子がおかしくなって以来、ユーリッドも、思い詰めたような顔をすることが増えた。
トワリスが話しかければ、思い出したように笑顔になって答えるが、夜もあまり寝ていないらしく、その空元気も、見ている方が痛々しい。
一時的とはいえ、ミストリアの追っ手から解放され、サーフェリアの生活を楽しそうに送っていたのに。
少し前まで見られた、ユーリッドとファフリの笑顔が、みるみる消えてなくなってしまったのは、トワリスにとっても辛いことだった。
「とにかく、ここで二人してぼんやりしてても仕方ない。私は朝食を作ってくるから、ユーリッドはファフリをみてて」
「……悪い、ありがとう」
ユーリッドが礼を言うと、トワリスは少し寂しそうに笑って、部屋を出ていった。
残されたユーリッドは、隣部屋から聞こえてくる包丁の小気味良い音を聞きながら、ファフリの白い寝顔をじっと見つめていた。
こうして黙っていると、ミストリアでの出来事が、次々と頭に甦ってくる。
ミストリア兵団を脱退し、ファフリを守ろうと決めた時のこと。
刺客に襲われ、目の前でアドラを殺されたこと。
そしてファフリが、召喚術を用いて、狼たちを殲滅させたこと──。
何度も死線をくぐり抜け、トワリスと出会い、ハイドットのことやミストリアの悪政まで目の当たりにしてきた。
全てが悪いことばかりだったわけじゃない。
しかし、そのどれもが、自分の心を深く抉り、鮮烈な痛みとして記憶に止まっている。
(……全部、覚えてる。忘れちゃいけない。……だけど……)
──だけど、思い出して考えたところで、これからどうすれば良いのかが、分からない。
ミストリアに戻れば、また追っ手に襲われ、いずれは捕らえられ、国王リークスに殺されてしまうだろう。
だが、いつまでもこうして、サーフェリアに居座っているわけにもいかない。
そんな、居場所もない自分達に、一体何ができるというのか。
ユーリッドは、不意に熱くなった目を閉じて、ただじっとしていた。
その時、ふと寝台のきしむ音がしたかと思うと、ファフリが唸って、ゆっくりと目を開けた。
「ファフリ!」
慌てて立ち上がって、ファフリの顔を覗き込むと、ファフリは虚ろな目で小さく呟いた。
「ユーリッド……もう、朝?」
ユーリッドは、ほっと胸を撫で下ろすと、肩をすくめた。
「朝どころか、昼近いよ。どうだ、具合が悪いところとか、ないか?」
ファフリは、緩慢な動きで首を横に振ると、寝台から起き上がった。
「……夢を、見てたの」
「夢?」
ユーリッドが首を傾げて、聞き返す。
するとファフリは、ふわりと笑って頷いた。
「……うん。すごく、幸せな夢。……もう少し、見ていたかったな」
ファフリの穏やかな顔に、ほっとしつつも、ユーリッドは困ったように言った。
「これ以上寝ようなんて、やめてくれよ。俺、ファフリがもう目覚めないんじゃないかって、毎回心配してるんだからな」
「…………」
ファフリは、まだどこか意識がはっきりしない様子である。
ユーリッドは、ファフリの手を握ると、隣の部屋を示した。
「とりあえず、朝御飯食べようぜ。今、トワリスが作ってくれてるんだ」
そう言って手を引いても、ファフリは、立ち上がらなかった。
そして、ユーリッドを見上げると、こてんと首を傾げた。
「トワリスって、なに……?」
「え……?」
ユーリッドの胸に、ぞくりとしたものが走る。
この感覚には、覚えがあった。
(そうだ……確か、ミストリアの渓流で襲われた時も……。ファフリは、悪魔に乗っ取られてる時の記憶がなかった)
ユーリッドは、ぱっと手を離すと、ファフリの方を睨んだ。
「お前……カイムか……?」
緊張した声音で、強く問いかける。
しかしファフリは、混乱した様子で、ふるふると首を振った。
「ユーリッド、何言ってるの……? カイムって、なんのこと?」
「なんのこと、って……」
まさか、カイムのことまで忘れているのか。
ファフリは、悪魔に意識を乗っ取られているわけじゃないのだろうか。
様々な疑問が、頭に渦巻いて、ユーリッドの思考を侵食していく。
ユーリッドは、怪訝そうにファフリを見つめながら、戸惑ったように言った。
「お前、悪魔じゃないのか……? 本当に、ファフリなのか? だったら、なんでトワリスやカイムのこと忘れて……」
ファフリは、何も答えず、寝台の上で身を縮めている。
まるで、何かに怯えているように、その身体はかたかたと震えていた。
「やめて……忘れたいの。思い出したく、ないの……」
そううわ言のように呟きながら、ファフリが手で耳をふさぎ、首を振る。
その手──袖口からのぞく皮膚が、黒い鱗のように変色しているのを見て、ユーリッドはぎょっとした。
(あれは、悪魔の……!)
直接説明されたことはないが、前にミストリアで、トワリスとファフリの会話を聞いてしまったとき、確かにファフリが言っていた。
──……日に日に、広がっていってるの……。多分、悪魔の皮膚だと思うわ……。
──これが肌を全て覆ったら、きっと私も死ぬのよ。悪魔に、心も体も喰い尽くされて……。私には、それを抑えられる力も理由も、ないもの。
ユーリッドは思わず、震えているファフリの両肩に、手を置いた。
「ファフリ! おい、ファフリ! しっかりしろ!」
瞬間、ファフリの全身が、どす黒いもやに包まれる。
すると、ファフリに触れていた手に、電撃に貫かれたような痛みが走って、ユーリッドは思わず後ずさった。
「ユーリッド?」
騒ぎに気づいたトワリスが、扉を開けて部屋に入ってくる。
そして、異様な光景──寝台の上で黒いもやに包まれ、震えているファフリを見ると、トワリスは息を飲んだ。
「なにこれ……一体どうしたのさ!」
「わ、わからない! ファフリが起きたと思ったら、急に、こうなって……!」
未だ痺れたように痛む両手をおさえながら、ユーリッドが答える。
同時に、あることに気づいて、ユーリッドの全身にはっと緊張が走った。
よく見れば、縮こまって震えているファフリの身体が、みるみる黒く変色していっているのだ。
いてもたってもいられず、ユーリッドは、再びファフリに手を伸ばした。
「────っ!」
鋭い痺れが、手から全身に広がり、次いで、炙られているような熱さが襲ってくる。
まるで、灼熱の業火に、直接手を突っ込んでしまっているかのようだ。
「……ファフリ……っ!」
それでも手を離さず、歯を食い縛ると、ユーリッドは、ファフリの華奢な身体を無理矢理抱き込んだ。
「ファフリ、落ち着け……!」
もはや、ちゃんと声として出ていたかも分からない。
全身を蝕む黒い炎に焼き尽くされて、息を吸うことすら、ままならなかった。
「ユーリッド! ファフリから離れて!」
黒い炎が危険であると察したのだろう。
トワリスが、鋭く叫ぶ。
しかしユーリッドは、ファフリを抱いたまま、頑なに離れようとしなかった。
咄嗟に、トワリスもユーリッドに手を伸ばしたが、黒い炎から発せられるあまりの熱気に、近づくことができない。
周囲の寝台や壁が燃えていないことから、あの黒い炎は、幻の類いなのかもしれないと思ったが、その解除方法も、二人を助け出す方法も、トワリスには思い付かなかった。
「このままじゃ、あんたまで危ないよ! ユーリッド!」
熱さに目を細めながらも、トワリスが再び叫ぶ。
しかしユーリッドには、もうその声すら聞こえていなかった。
焼かれる内に、全身の感覚もなくなってきて、次第に、視界すら真っ暗になってくる。
もはや、ちゃんとファフリを抱いているのかすら、分からない。
しかし、そうして、ただただ身悶えするほどの苦しさに耐えていると、不意に、どこからか笛のような音が聞こえてきた。
それは、歌うように美しい旋律を奏でながら、恐怖と焦りでささくれていたユーリッドの心の表面を、緩やかに溶かしていく。
同時に、強張っていた全身からも力も抜け、いつの間にか、ユーリッドを蝕む苦しみは、何もなくなっていた。
(……駄目、だ……ファフリを、離しちゃ……)
そう思うのに、全身に力が入らず、だんだんと思考力も奪われていく。
気づけば、周囲の景色も見えなくなって、ユーリッドは、どこか暖かい空間にふわふわと浮いているような感覚に陥った。
(…………)
優しい歌声を聴きながら、まるで真綿に包まれているような心地よさを感じて、ユーリッドは、ゆっくりと意識を手放した。
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