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投稿日:2021年02月23日
自宅に戻ってから、しばらくして。
夜もどっぷりと更けた頃に、マリオスは帰ってきた。
剣の鉄臭さと、汗や土埃の臭いを纏って、疲れた様子で部屋に入ってきたマリオスは、それでも、ユーリッドを見ると、にっと笑顔になった。
「ただいま、ユーリッド」
「…………」
ユーリッドは、何も言わず、マリオスを見つめたまま、その場に立ち尽くした。
しかし、もう驚きはしなかった。
なんとなく、マリオスは帰ってくる気がしていたからだ。
この世界では、とにかく過去の事実とは違うことが起こる。
ユーリッドの記憶では、城に泊まり込んでばかりだったマリオスも、現に今、家に帰ってきているのだ。
呆然としているユーリッドの顔を、マリオスは、心配そうに覗きこんだ。
「なんだ、飯も食わないで。俺は帰りが遅いから、先に寝ていいっていつも言ってるだろう。どこか具合でも悪いか? そういやお前、今朝も様子が変だったしなぁ」
居間の中央にある食卓の椅子に座ると、マリオスが尋ねてくる。
それに、何かを答えようとしたが、言葉が浮かばず、ユーリッドは口を閉じた。
思えば、こんな風にマリオスと話したことは、なかったかもしれない。
小さな頃から、団長として兵団をまとめあげるマリオスを、誇りに思っていたし、自分もそんな父に憧れて、兵団に入団した。
しかし、常に仕事でミストリア中を駆けずり回っていた父と、会って話す機会などほとんどなかったから、ユーリッドはマリオスのことを、どこか他人のように感じてきたのだ。
ユーリッドが黙ったままでいると、マリオスは、困ったように笑った。
「別に、何も言いたくないならそれでいいさ。お前にだって、色々あるんだろうしな。だが、俺の聞ける話があるなら、聞くぞ」
「…………」
そう穏やかな口調で言われて、ユーリッドの胸に、じんわりと暖かいものが広がった。
幼い頃、街中を楽しげに歩く親子を見ては、少し羨ましく思っていた時の記憶が、ふと甦る。
ミストリア兵団長の息子、という理由で、羨望の眼差しを向けられることも嫌ではなかったが、こうして父と話せる普通の幸せが、本当はずっと欲しかったのかもしれない。
ユーリッドは、辿々しく、今起きている不可解な状況を、マリオスに説明した。
どうして、今まで自分がしてきたことを思い出せないのか。
何故自分は、十歳の頃に戻ってしまったのか。
分からないが、今起きていることは、何かおかしい気がするのだと。
そんな漠然とした戸惑いを、ぽつぽつとユーリッドが話すのを、マリオスは神妙な面持ちで聞いていた。
しかし、やがて、ユーリッドが言葉を終えると、ふむ、と唸った。
「気がついたら、急に昔の姿に戻っていた、と……。随分ぶっ飛んだ話だなあ。お前、やっぱり疲れて、変な夢でも見たんじゃないのか?」
「……そんなこと……」
話を軽んじられているのではと思ったユーリッドだったが、マリオスは、真剣な顔をしていた。
「本当言うとさ、少し心配だったんだ。お前、最近疲れてるみたいだったし、兵団で無理してるんじゃないかってな」
「兵団で……?」
驚いて、ユーリッドは瞠目した。
そんな心配をされているなんて、知らなかったからだ。
マリオスは、深く頷いた。
「母さんが、お前を産んだのと同時に死んで、ずっと俺達二人で暮らしてきただろ。極力寂しい思いをさせないように、なんて俺なりに考えもしてたけど、俺ぁ、仮にもミストリア兵団を背負って立つ身だ。家に戻れない日だってあるし、帰れたって、こうして話せるのは夜中の短い間くらいだ。だからさ、お前が兵団に入団したいって言い出した時、思ったんだ。俺は、お前に兵士になることを強要したつもりはないけど、俺と二人だけのこんな環境で育ったから、お前は、兵士になる以外考えられなかったんじゃないかって。結果的に、兵士になることを強要してたんじゃないか、ってな」
ゆっくりと語りながら、マリオスは続けた。
「兵士になるってのは、大変なことだ。訓練が辛いとか、まあ、それももちろんだが……。兵士になって、戦場に立つって言うのは、本当に苦しいことなんだ。自分の命が危険なだけじゃない。仲間を目の前で殺されることもあるだろうし、逆に、自分が誰かを殺さなければならないこともある。その誰かが、たとえ善人だったとしても、敵という立場なら斬り捨てなきゃならないんだ。俺は、もう二十年以上兵士をやっているが、初めて獣人を刺した時の感触は、未だに忘れられない。仲間を失う辛さにだって、全く慣れない。いや、慣れちゃいけないと思ってる。何人も斬り殺した夜は、うまく寝付けず、魘されることだってある。兵士を目指すってことは、そういう厳しい道を歩むってことなんだ」
自分をまっすぐに見つめてくるマリオスに、ユーリッドは尋ねた。
「……そんなにつらいなら、どうして父さんは、兵士を続けてるんだ?」
マリオスは、少し困ったように笑った。
「……そうだなぁ。なんでだろうな。でもやっぱり、この国を守りたいんだろう。俺は、大切な奴等やお前との、平穏な暮らしを壊されたくないんだ。それに、ミストリアの民を守護する役目を、召喚師様だけが背負うなんて、おかしいだろ?」
ユーリッドは、こくりと頷いた。
「……うん。俺も、そう思う」
マリオスは、表情を明るくした。
「そうか……お前も、そう思うか。だったら俺は、それで十分だよ」
嬉しそうに笑って、マリオスは言った。
「お前が、そう思える奴に育ってくれたなら、それで十分なんだ。別に、俺と同じ道を歩んでくれなくたって、いい。つらいなら、兵団をやめたっていいんだ。お前はまだ子供なんだから、これから色んなものを見て、考えて、それから将来どうするか、決めていけばいい。お前の人生だ。お前の夢なら、俺は全力で応援するんだからな」
その言葉に、思いがけず目頭が熱くなって、ユーリッドは慌てて息を吸い込んだ。
しかし、止める間もなく、涙が次々溢れてくる。
マリオスは、驚いたように目を見開いた。
「おいおい、なんだよ。泣くなよ、ユーリッド」
そう言いながらも、無骨な手で、くしゃくしゃと頭を撫でてくれる。
ユーリッドはうつむいて、首を左右に振った。
「違う、違うよ……父さん。俺は……」
震える声を絞り出して、なんとか言葉を紡ぐ。
「俺は……ちゃんと、自分の意思で、兵士になりたいと思ったんだ。ずっと、父さんに憧れてて、誇りに思ってて……だから、兵士を目指したんだ。ミストリアは、召喚師だけの国じゃない。だから、俺も召喚師の助けになりたい……。守りたいんだ、ファフリのこと……」
マリオスは、一瞬だけユーリッドの頭から手を離したが、すぐにまた手を置いた。
涙で霞んだ視界では、その表情ははっきりとは分からなかったが、マリオスは、笑っているようだった。
「そうか、ユーリッド。お前は、俺の自慢の息子だよ」
止めようと思うのに、涙が止まらなかった。
ユーリッドは、しゃくりあげながら、何度も何度も頷いた。
「……ありがとう、父さん」
父の本音を聞いたのは、初めてだった。
自分の記憶の中にある、十歳の頃の思い出に、父としてのマリオスはほとんどいない。
マリオスが、自分のことをどんな風に思っていたのか、知ることができて、ユーリッドの心は、これまでにないくらい満たされていた。
(……きっと、俺は悪い夢を見てたんだ)
今思えば、この瞬間を疑っていた自分の方が、おかしかったのだ。
目の前にいるのに、父が死んだはずだなんてあり得ない話だし、自分は今年で十七歳だなんていうのも、きっと夢だったのだ。
何かを思い出そうとすれば、頭が痛くなる。
思い出したくない。
怖い、嫌だと、心が叫んでいる。
だから、やっぱり自分は、夢を見ていたに違いない。
恐ろしいものに追われているような、そんなつらくて苦しい、悪夢を。
今が幸せなのに、どうしてわざわざ、そんな悪夢を思い出そうとしていたのだろう。
自分はユーリッドという名の、今年十歳を迎えた見習い兵で、父と二人暮らしをしている。
それが、現実のユーリッドなのだ。
ユーリッドは、目を拭って顔をあげた。
「……ありがとう」
それしか言う言葉は浮かばなかったが、一番マリオスに伝えたかった言葉は、やはり感謝だった。
マリオスは、屈託なく笑うと、大きく頷いたのだった。
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