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投稿日:2021年02月24日





 どうしても一人になりたくて、動けなくなったアレイドを放って部屋を出たのはいいものの、行く宛などあるはずもなく、ルーフェンは長い本殿の廊下を歩き続けていた。

 久々に外に出たせいか、頂点に程近い太陽の光が、異様にまぶしく感じる。
乾いた生温い大気が吹き付けて、強い悪寒を感じ、身体の芯がぞくりとした。

 廊下の一角を曲がり、ガラドの執務室の前を通り過ぎようとしたとき。
ルーフェンは、ふと、不思議な感覚に襲われた。
執務室の中から、聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ。

 足を止めて、執務室の扉に耳を近づけてみると、その奥からはやはり、何か言い争っているような声が響いてきた。
しかし、その声の主が誰なのか、一体何を言い争っているのかまでは分からない。

 しばらく、そうして声を聞くことに集中していたルーフェンだったが、神経を使いすぎたのか、ふいに目眩がして、耐えきれず床に腰を下ろした。
がんがんと叩かれているような、ひどい頭痛がして、おまけに生温いはずの空気がとても冷たく感じる。

 朦朧とし始めた意識のまま、床にそのまま倒れこむと、幾分か身体が楽になった。
もうアレイドもいなくなっただろうし、部屋に戻ろうとも思ったが、一度床に体重を預けてしまうと、もうその場から動く気力など失せてしまった。

 半月分の疲労と眠気が、全身を包み込む。
未だ聞こえてくる声を聴きながら、ルーフェンはその微睡みに意識を奪われつつあった。

 どれくらい、そうしていただろう。
いよいよルーフェンの意識がうつらうつらとしてきた時、耳元で、甲高い声が響いた。

「……ちゃ……ぶ? だい……ぶ?」

 ひんやりとした手が、ぺちぺちと頬を叩く。
僅かに浮上した意識を動員して、うっすらと目を開けると、見知らぬ子供が目に映った。

(誰……?)

 はっきりとしない視界のまま、目を細める。
子供は、その顔を覗きこんで、少し驚いたような顔をしたが、そのままルーフェンの額に掌を当てた。

「あついね。だいじょうぶ? おにいちゃん、だいじょうぶ?」

 舌ったらずな子供の声は、ルーフェンの身を案ずるものだった。
そういえば、自分は今、床の上に倒れこんでいるのだ。
何故こんなところに子供がいるのかは分からなかったが、声をかけられて当然の状況である。

「もうすぐ、おいしゃさん、くるからね。だから、なかないで。だいじょうぶだよ」

 医者がくるとは、この子供が宮廷医師を呼んだということなのだろうか。
泣かないで、とは、自分に対して言っているのだろうか。
何か言わなければ、そう思って口を開こうとしたが、襲いくるあまりの気だるさに、ルーフェンの意識はそこで途切れた。



 ルーフェンは、夢を見ていた。
サンレードの人々を殺して以来、眠る度に見る恐ろしい夢だ。

 闇に引きずり込もうと伸びてくる無数の手と、自分を責め立てる声。
そして、怨みと絶望を孕んだ、多くの目。

「許して……! もう、絶対にしない! 絶対にしないから……!」

 声が枯れるまで許しを乞うても、それでも己に向けられた怨恨の嘆きは、鳴り止まない。

「もう、やめて……お願いだから、やめてくれ……!」

 耳をふさいで、うずくまる。
すると、どこからか別の声が聞こえてきた。

──もう、絶対にしない?

──あんなにも愉しかったのに……?

 脳裏に、人の死を笑っていた自分の姿が、鮮明に蘇った。
甘美な血の臭い、心地よい人々の断末魔。
嗚呼、なんて、なんて素晴らしい──。

「違うっ! あれは俺じゃない──!」

 叫んで飛び起きると、ルーフェンは呼吸を乱して、しばらく寝台の上で震えていた。
全身から冷や汗が噴き出して、顔もぐっしょりと濡れている。

 何度か苦しげに深呼吸を繰り返して、辺りを見回すと、そこはルーフェンの自室ではなく、王宮の客室であった。

「だいじょうぶ?」

 視界の下で声がして、小さい手がルーフェンの袖をぎゅっと握る。
先程、倒れたルーフェンに話しかけてきていた、小さな四、五歳ほどの少年だった。

「君は……?」

「…………」

 ルーフェンが問いかけても、少年は反応しない。
おかしく思ってよく見れば、少年は、耳に包帯を巻いており、聴力を失っているようだった。

 この少年から、状況を聞き出すのは、難しそうである。

 さて、どうしたものかと思案していると、もう一人別の気配を感じて、ルーフェンは顔を上げた。

「……お久しぶりです、次期召喚師様」

 目の前に立っていたのは、白髪混じりの髪を後ろで一つに結い、毛織りの衣を纏った、中年の男。
その優しげな目元を見た瞬間、ルーフェンは、鼓動が速くなるのを感じた。

「お加減はいかがですか?」

 それは、執務室から聞こえていた声であり、六年前にも聞いたことのある声であった。

「なんで……」

 ルーフェンの瞳が、微かに揺れる。

「サミルさん、どうして……」

 これまで、式典にも花祭りにも、晩餐会にも顔を出さなかったのに、何故。
かつて、自分の命を救ってくれたその人、サミル・レーシアスには、もう二度と会えないと思っていたのに。

 その瞬間、一気に色々な思いが込み上げてきて、ルーフェンは一度うつむいた。
小刻みに震える唇を、ぎゅっと結んで、そして、再びサミルの顔を見つめる。

 何と話しかけたら良いか、迷っていると、サミルが先に口を開いた。

「私のこと、覚えていてくださったのですね。それにしても、驚きましたよ。イオが、急に人が倒れているなんて言い出すものですから……」

 イオ、というのは、少年の名前だろう。
イオは、ルーフェンから離れ、サミルの元に駆け寄ると、にこりと笑った。
どうやら、彼が来ると言った『医者』とは、サミルのことだったらしい。

 サミルは、ぽん、とイオの頭に手をおいて、それからルーフェンの額に触れた。

「少し、熱があります。軽い栄養失調も起こしているようだ。どうしたというのです、あんなところに倒れて。それに、この包帯は一体……」

 ルーフェンの全身に巻かれた包帯を訝しげに見つめながら、サミルは問うた。
いつも穏やかだったサミルにしては珍しく、その眉間には、皺が寄っている。

「迷惑をかけてしまって、すみません……」

 ルーフェンがそう呟くと、サミルは、悲しそうに眉を下げた。

「誰が迷惑だなどと言ったのです。私は、貴方様を心配しているのですよ。王宮に入って、まともな生活が出来ているのかと思えば、随分とお痩せになられて……」

 サミルは、辛そうな表情を浮かべて、ルーフェンの頬を慈しむように撫でた。
温かくて、優しい手だった。

 ルーフェンは、思わず目頭が熱くなるのを感じて、声が出なくなった。

 本当は、王宮に入ってから、各街の領主たちが集まる行事が開かれる度に、ずっとサミルを探していたのだ。
けれど、一度だってその姿を見かけたことはなかったから、もう会えないものなのだと思い込んでいた。

 それなのに、まさか、こんな形で再会できるなんて。

「おいしゃさん、きてくれたね。よかったね」

 サミルの脇で、イオが言う。
ルーフェンは、それに対してぎこちない笑顔を返すと、イオも嬉しそうに笑った。

 サミルは、そんなルーフェンを眺めて、一旦その場から離れると、机においてあった壺から椀に牛乳を注ぎ、ルーフェンにそれを勧めた。

 微かに果物の香りがするそれは、六年前に飲んだものと同じもので、勧められるままに飲んでみると、あまりの懐かしさに、鼻の奥がつんとした。
口にしたものを美味しいと感じたのは、久しぶりだった。

「貴方様がこの客室にいることは、誰にも伝えていません。少し、落ち着いて話しましょうか」

 ルーフェンは、こくりと頷いた。

「俺も、ずっと話したかったんです。でも、この前の式典ですら見かけなかったし、貴方とは、もう二度と会えないと思っていたから……」

 サミルは、すっと息を吸った。

「申し訳ありません。レーシアス家の者が式典等に参加するのは、あまり良く思われないのです」

 ルーフェンは、ゆっくりと首を振って、じっとサミルを見つめた。

「じゃあ、何故ここに? 執務室で、何を話していたんですか?」

「それは……」

 サミルは、言うか言うまいか、少し迷った様子で黙りこんだ。
しかし、ルーフェンがじっとこちらを見据えてくるのを見て、何か決心したように、口を開いた。

「……アーベリトが、難民の受け入れを行っているのは、ご存知ですね」

「はい」

 ルーフェンは、寝台の上に座り直して、頷いた。

「……しかし、最近は特に戦が多く、天候のせいか、貧しい村も増えている。難民は日に日に増して、もはやアーベリトでは、これ以上受け入れられません……施療院も、養護施設も、資金も、何もかもが足りないのです。ですから、陛下にそのことをお伝えしに参った次第です」

 サミルは、大きなため息をついた。
対してルーフェンは、怪訝そうに首をかしげた。

「でも、アーベリトの慈善事業は、シュベルテからも公認されていることでしょう? 援助がされるはずではないのですか?」

 ルーフェンの言葉に、サミルは首を振った。

「援助は、確かにされてますよ。ですが、この子達に関しては別です……」

 サミルは、イオを見ながら言った。
この子達、という言葉が、イオを指しているのは明らかである。

「イオのような子供たちは、急増しています。ですから、今日も含め、私はこれまで何度も王宮に訪れて、この子達でも援助してもらえるようにと頼んできたのです。しかし、それは叶わない」

「……何故ですか」

 眉を寄せて尋ねたルーフェンに、サミルは強い視線を向けた。
そして、まるで探るような目付きになると、はっきりと言った。

「この子達は……イシュカル教徒の子。イオは、半月前に焼かれた、サンレードの生き残りなのです」

 途端、胸の奥まで亀裂が入ったような、強烈な痛みが走る。
ルーフェンは、目を見開いたまま、言葉を失った。

「イシュカル教徒は、召喚師一族に対して否定的です。王宮にとって……シュベルテにとっては、言わば反乱分子のようなもの。援助される対象ではないのです」

「…………」

「サンレードだけではありません。暴挙に出たイシュカル教徒たちは、これまで何人も召喚師様の手により葬られ、その度に子供たちは帰る家を失っています」

 サミルは、ルーフェンの動揺した様子を見ながらも、あえて続けて言った。
ルーフェンの心中を、確かめたかったのである。

「サンレード、の……生き残りって……」

 ルーフェンは、全身が震えるのを抑えられなかった。
皮膚を突き破るような痛みが身体中を這い回って、黒い痣が、また広がったようだった。

「じゃあ……この子の、頭の包帯は……」

 弱々しい声を聞いて、サミルは頷いた。

「イオの場合は、首から頭にかけて、酷い火傷を負いました。聴力は、その時に失ってしまったようです」

 ルーフェンは、両手で顔を覆った。

 再び耳の奥から、自分を責め立てるサンレードの者達の声が、割れ鐘のように響いてくるような気がした。

 イオの顔も、サミルの顔も、見られない。
どんな表情なのだろうと想像することすら、恐ろしくて出来なかった。

「……俺が……」

 ルーフェンは、乱れた呼吸で呟いた。

「俺が……サンレードを、焼き払いました……。召喚術を使って、逃げ惑う人々を……俺は、殺した」

 ルーフェンは、顔を手で覆ったまま、絞り出すような声で言った。

「本当は俺だって、あんなこと、やりたくなかった……。だけど、もう、どうしようもなくて……! 悪魔の声がして、頭の中が、真っ暗になるんだ……自分の意思を乗っ取られたみたいに、思考を奪われて、何も考えられなくなって……!」

 ルーフェンは手を下ろすと、強ばった表情で、恐る恐るサミルを見た。

「皆が、俺に、人を殺せって言うんです。国を守るために、力を使って、人を殺せと。そうしないことは、罪だって……。もう、頭の中がぐちゃぐちゃで……っ、何が正しいのか、分からなくなる……!」

 サミルは、寝台に腰を下ろすと、ルーフェンの頭をそっと抱き寄せた。
優しいようで力強いそれに、ルーフェンはサミルの胸にしがみつくと、何かに耐えるように歯をぎりっと食いしばった。

「……貴方様のしたことが正しいのか、正しくないのか、それは私にも分かりません」

 サミルは、ルーフェンの体の震えが止まるように、頭を撫でながら言った。

「殺すことと守ることは、表裏一体なのです。貴方様がもし、サンレードを焼いていなければ、今度はサンレードの暴徒たちによって、新たに別の被害が生み出されていたことでしょう」

 きつくしがみついてくる手を、優しく握りこんで、サミルは、ルーフェンから身体を離す。

「けれど、殺しを良しと思うことだけは、あってはならない……」

 赤くなった目で、ルーフェンは、サミルの瞳に宿る儚い光を見た。

「誰が何を言おうと、そのままの心でいて下さい。六年前にも、言いましたね。次期召喚師様、人の死を悼む気持ちは、絶対に忘れてはなりません」

 サミルは、かすれた声で言った。

「……貴方様のように、どうしようもない状況に追い込まれて、結局そのまま壊れてしまった人を私は知っています。己の居場所を作ろうと、必死にもがいて……最終的に彼女は、自身の強さに陶酔し、おぞましい闇に取り込まれてしまった。……次期召喚師様には、彼女のようになって欲しくはないのです」

 サミルは、まだ微かに震えているルーフェンの手の上に、自分の手を重ねた。

「ご自分の立場ではどうにもならないことがあるでしょう。それでも、蔓延(はびこ)る闇に、耳を傾けてはいけません。心だけは、強く持って」

 サミルの目には、悲しさや苦しさ、それらが混ざり合ったような、複雑な色が浮かんでいた。
しかし、ルーフェンを責めるような色は一切ない。

 ルーフェンは、唇を噛んで頷くと、イオに視線を移した。
イオには、サミルたちの会話を理解できるはずもなかったが、それでも彼は、ルーフェンを真っ直ぐに見つめている。

「ごめん……」

 ルーフェンは、顔を歪めた。

「……本当に、ごめん」

 喉の奥からこみ上げてきた熱を堪えて、消えそうな声で告げる。

「君の人生を、奪ってしまって……」

 サミルは、イオを引き寄せて、低い声で言った。

「……サンレードの、イシュカル教徒の行いが正しいとも、言い難い。ですが、子供に罪はありません。凝り固まった思想は、傲慢な我々のものであって、子供達のものではないのですから」

 ルーフェンは、サミルの言葉を聞きながら、目を伏せた。

「この子達から全てを奪ったのは、紛れもなく王国の大人たちです。だからこそ私達には、この子達を守る義務がある。奪ったからには、新たな居場所を与えねばなりません」


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