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投稿日:2021年02月24日





 全員、殺してしまえば──。
そんな思いがよぎる度に、それ以上の後悔が押し寄せてきて、もう、殺戮を楽しめるような凶暴な欲は、湧いてこなかったのだ。

(うるさい……! 俺はもう、殺したくない……!)

 まとわりついてくる悪魔の声を振り払うように、大きく手を振り回すと、瞬間、すぐ近くに、ふっと生ぬるい吐息を感じた。
びくりと目を開けると、鼻先が触れるほど近くに、自分の顔がある。
負の感情に満ちて、激しく表情を歪ませた、醜悪な自分の顔だ。

──殺したい──! 殺せ……! 血肉を欲せよ……!

 何度も闇に誘ってきた、聞き慣れた声。
ルーフェンの顔で、そう告げてきたのは、紛れもなくバアルだった。

 バアルだけではない。
ルーフェンを取り囲むように、五体の邪悪な悪魔たちが、その場でこちらを凝視していた。

──力を求めよ……! 殺せ、殺せ、殺せ……!

 バアルが、異様に光る目で、何度も何度も語りかけてくる。
そのあまりの恐怖に、一言も発することができなかったルーフェンだったが、バアルの伸ばした爪が、自分の胸を突いたとき、はっと身を凍らせた。

 このまま、バアルが自分の中に溶け込んでくれば、きっとまた闇に囚われる。
そうなれば、再び殺戮の快感に溺れ、リオット族や魔導師たちを、皆殺しにするかもしれない。
──あの日、サンレードを焼き尽くしたときのように。

 そう思った途端、恐ろしさで強ばっていた身体が、急に軽くなった。

(俺はもう、人殺しにはならない……!)

 バアルの目を睨み返して、歯を食い縛る。
恐怖を通り越して、ルーフェンの中で膨れ上がってきたのは、途方もない怒りだった。

(俺は、お前ら悪魔の道具じゃない──!)

 バアルを押し退けるようにして、ぐっと身を乗り出す。
途端、自分の顔をしていたバアルが、凶悪な異形の姿になって牙を剥いたが、ルーフェンは、それでも怯(ひる)まなかった。

(力が、欲しい……!)

 バアルの牙が、不気味に光って、ルーフェンを噛み裂こうと迫ってくる。

──恐ろしかった。
だが、それ以上の強い力に突き動かされて、ルーフェンは、その牙を掴むと、力一杯押し返した。

(だけどもう、お前たちに利用されたりはしない……!)

 悪魔たちは、未だ口々に、殺せ殺せと告げてくる。
だが、その声には耳を傾けず、ルーフェンは、腹に力を込めると、大声で怒鳴った。

「黙れって言ってるだろ! 勘違いするなよ! お前らの主は、一体誰だと思ってる──!」

 大きく見開いた目で、ルーフェンはバアルを見た。
刹那、脳内に反響していた悪魔たちの声がぴたりと止んで、辺りが静寂に包まれる。

 ルーフェンは、喉が張り裂けそうなほどの声で、身を絞るように絶叫した。

「お前たちの主は、俺だ! 黙って、俺に従え──!」

 暗雲の狭間から、日の光が射し込んだように。
ぱっと目の前の暗闇がかき消えて、悪魔たちの気配が、ルーフェンの中に滑り込んできた。

「────っ!?」

 一瞬、身を食われるような激痛が、全身に走る。
だが、もう悪魔たちの声が聞こえてくることはなく、以前のように、どす黒い闇の塊が、意識を支配するようなこともなかった。

 全身を覆っていた黒い皮膚が、すっと溶け込むようにして、消えていく。
瞠目したまま、ぐっと息を詰めると、ルーフェンは、入り込んできた悪魔の気配を、その身に飲み込んだ。

──瞬間、頭に浮かんだ呪文を、ルーフェンは唱えた。

「汝、獲得と地位を司る地獄の侯爵よ!
従順として求めに応じ、可視の姿となれ……!
フォルネウス──!」

 地面が、まるで液体のように波打ち、飛沫をあげたかと思うと、ルーフェンの足下から、人の五倍はあろうかというほど巨大な銀鮫が、勢いよく飛び上がった。

 亀裂から注いでくる日光を受け、淡く白銀の体表を光らせる銀鮫──悪魔、フォルネウス。
その透き通った胸鰭むなびれを広げ、空中を遊泳する姿に、その場にいた誰もが、息をするのも忘れて見入った。

 ルーフェンは、放心するオーラントの手を振りほどき、立ち上がった。
そして、獲物を捉えた獣のような、煌々と光る目で、争う魔導師とリオット族たちを見つめた。

「……戦いを、やめろ」

 落ち着いた、けれど威圧感のある声で、ルーフェンが口を開く。
同時に、宙を滑ったフォルネウスが、抑揚の強い低音を発すると、それを聞いた途端、全員が、地面に縫い付けられたかのように動けなくなった。

 意識はあるのに、どれほど手足に集中しても、指一本動かすことができない。
ラッセルも、発動させようとしていた魔術を遮られて、立ったまま硬直した。

 リオット族たちは、興奮した様子で、ルーフェンに叫んだ。

「召喚師様! 俺達にかけた術、解け!」

「地上の魔導師、ぶっ殺してやる!」

 目線だけを動かして、戦線に出ていたリオット族たちが、魔導師を睨む。
ルーフェンは、悲しそうに眉をひそめると、首を横に振った。

「駄目だ……こんな殺し合いを続けたって、犠牲が増えるだけだ」

 ルーフェンの言葉に、リオット族たちが、顔を歪める。

「地上の魔導師、リオット族の敵だ! 俺達、同胞の仇、討つ!」

「お前、リオット族助ける、違うのか……!」

 身体さえ動けば、ルーフェンにも掴みかかろうとするような勢いで、リオット族たちが言う。
ルーフェンは、揺らがぬ瞳で彼らを見据え、はっきりと返した。

「助けるよ。俺は、君たちを助けたい。だからこそ、こんな復讐、止めなきゃいけない……」

 驚いた様子で、リオット族たちが言葉を止める。
ルーフェンは、その脇を抜けて、膝をつくイグナーツの元に歩いていった。

「ルンベルト隊長、もう一度言います。今すぐに、魔導師たちを連れて、この奈落から去ると約束してください」

「…………」

 イグナーツは、ルーフェンを睨むと、つかの間沈黙してから、はっと鼻で笑った。

「恐れながら……貴方は一体、どういうおつもりでこのノーラデュースを訪れたのか。リオット族を助ける? 復讐を止める? お戯れを……。二十年前、この蛮族がどれほどの人間を殺したか、ご存知ないわけではないでしょう。俺の妻と娘も、この化物共に殺されたのだ」

 イグナーツが、憎悪に染まった目を、ルーフェンに向ける。
その目を見つめ返して、ルーフェンは、ぐっと拳に力を込めた。

「妻と娘を殺された、その絶望を知っているなら……。逃げ惑うリオット族の女性や子供たちが、魔導師たちに引きずり出されるところを見て、何も思わなかったのですか? 憎悪に駆られて、泣きながら命を捨てるリオット族たちを見て、何も感じませんか……?」

 イグナーツの眉が、ぴくりと動く。
ルーフェンは、静かに続けた。

「二十年前の騒擾で、リオット族は、沢山の王都の人間を殺した。でも貴方たちも、リオット族を奴隷として狩り、このノーラデュースに追い詰め、殺してきた。リオット族は、蛮族なんかじゃない。同胞を失い、憎しみに取り憑かれた、貴方たちと同じ人間だ」

 イグナーツは、強く歯を食い縛ると、一瞬だけ、ノイの方を見た。
ノイは、他のリオット族たちと同じように、悔しげに魔導師たちを睨みながら、硬直している。
そんなノイの、潰れた左目を見てから、イグナーツは、ルーフェンに目線を戻した。

「……だったら、なんだ。我らのリオット族に対する憎悪は、貴方のお綺麗な戯れ言で収まるほど、小さなものではない! この二十年間ずっと、リオット族を皆殺しにすることだけを考えて生きてきた私達に、一体どうしろと言うのだ……!」

「…………」

 ルーフェンは、微かに唇を震わせて、黙りこんだ。
しかし、すぐにイグナーツに向き直ると、答えた。

「分かりません……。だけど、この憎しみの連鎖は、どこかで断ち切らねばならない。募った憎しみを飲み込んで、相手を許すというのは、何より辛く、難しいことなのだと思います……。それでも、仇なんて討っても、亡くなった貴方の妻子は救われない。こんな争い、続けたところで、新たな憎しみを生むだけです。誰かが必ず、止めなきゃいけないんだ」

 ルーフェンがそう告げた、刹那。
不意に、空気が変わったかと思うと、地面から、鋭い岩の槍が突出してきて、ルーフェンの肩口に突き刺さった。
イグナーツの後ろにいた魔導師の一人が、詠唱して魔術を行使したのだ。

「────っ!」

 咄嗟に急所を避けるも、肩口に熱い衝撃が走って、ルーフェンがその場に倒れる。
同時に、頭上を遊泳していたフォルネウスがかき消えて、全員の金縛りが解けた。

「やめろ! ルンベルト──!」

 叫んでから、凄まじい勢いで走り出すと、オーラントは、ルーフェンにとどめを刺そうと立ち上がったイグナーツに、突進した。

 オーラントの投げつけたルマニールを、イグナーツが、反射的に長杖で弾く。
高い金属音を立てて、弾き飛ばされたルマニールは、しかし、そのまま宙を旋回すると、再びオーラントの手中に納まった。


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