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投稿日:2021年02月24日






  *  *  *


 サミルは、子供の顔に浮いた汗を布で拭ってやりながら、静かに溜め息をついた。
子供の熱が、一向に下がらないのだ。

 刃物で切り裂かれたと思われる腹の傷が、化膿して地腫れしている。
おそらく、高熱はこの傷のせいだろう。

 痩せ細ったこの身体は、これほどの高熱に耐えられるだろうか。
少しでも体力を付けさせるため、果汁や薬湯を飲ませようとしたが、子供は全て吐いてしまった。
長い間なにも口にしていなかったせいで、身体が受け付けなくなっているのかもしれない。

(さて、どうしたものか……)

 ヘンリ村で見つかったという、銀の髪と瞳を持つこの子供。
医師として、命を救いたいという気持ちはあったが、とんだ重荷を背負ってしまったと思った。

 先程までなら、ちょうど王宮から派遣された他の医師たちもいたのだが、事態が落ち着いた今、無責任にも引き上げてしまったから、この子供の命をどうにかできるのは自分一人である。

 サミルは、顎に手を当てて考え込んだ。

(とは言っても、もうこれ以上できることといったら、祈るくらいだろうか……)

 どうか、この子供が助かるように。楽になれるようにと。

 しかし、助かったところで、この子の未来に待つものが希望でないことなど分かっていた。
可哀想に、まだこんなにも幼いのにと、サミルは眉をひそめる。

 国の守護を宿命付けられた、召喚師。
ただですら縛り付けられたような人生を強いられるというのに、イシュカル教徒の増加で今後はどんどんと召喚師の居場所はなくなっていくだろう。

 イシュカル教は、絶対の守護者——召喚師ではなく、全知全能の女神イシュカルを信仰するものだ。
ついこの前までは少数派の宗教団体だったが、近年このシュベルテで、急速にその勢力を拡大させてきた。

 召喚師の力ではなく、女神イシュカルの加護の下、自分達の手で国を護る。
正しいことのようにも思えるが、他国が召喚師の力を保持している以上、これは理想論でしかない。

 人間とは、本当に不思議な生き物だと思う。
強い力をもつ者を前にしたとき、守ってほしいと懇願するのと同時に、自分とは違うその力を拒絶し、また、その力が敵対した仮定を考えて恐怖するのだ。
現に、世間は次期召喚師が見つかったことを喜びつつ、この子供を慈しもうとはしない。

 イシュカル教の拡大は、まさにその表れと言えよう。

 子供の銀髪を撫でながら、サミルは目を閉じた。

 この子供は、唯一同じ苦しみを分かつことになる母——シルヴィアにすら拒絶されている。
今、命が助かったとして、一体この子供は何を支えに生きていくのか。

 頑なに次期召喚師の存在を認めようとしないシルヴィアに、サミルは苛立ちのようなものを感じていた。

(そんなはずないでしょう、召喚師様……。この子は、間違えなく、あの時死産だと貴女が決めつけたときの御子だ)

 はあ、はあ、と忙しなく息をする子供の手を握って、サミルはただ祈った。

 今ここで助かるか、あるいは死ぬか——。
どちらにしても、この子供にとって良い方に繋がる選択が、成されるように。



 鳥のさえずる声で、子供は目を覚ました。
部屋の窓から、爽やかで清々しい風が入ってきて、さらりと頬を撫でる。

 悪夢の名残も消えて、子供は深呼吸した。
そして、痛む腹を庇いながらゆっくりと寝返りをうったとき、自分の手が誰かに握られていることに気づいた。

 その腕を視線でたどっていくと、寝台の脇の床に、見知らぬ中年の男が座っていた。
よほど疲れているのか、子供の手を握ったまま寝台の端に寄りかかって熟睡している。

 子供は、ぼんやりとその様子を眺めて、それから辺りを見回した。
柔らかい寝台に、白亜の綺麗な天井——どれも、初めて見るものばかりだ。

 一体ここはどこなのだろう。
そんなことを考えていると、ふと、男が呻き声を上げて目を覚ました。
そして、こちらをしげしげと見つめると、ぱぁっと笑顔になった。

「おお、良かった良かった! どうです、お体の調子は?」

 突然のことに対応できず黙っていると、男は子供にかけてある毛布をめくった。

「少し、傷を見ますからね」

 男は、そう言うと腹に巻かれた包帯を見て、ほっとした顔になった。

「出血も少なくなりましたし、腫れも昨日より引いているようです。これでひと安心ですよ」

 男は、うんうんと頷いて、子供に笑いかけた。

「いやはや、流石は運がお強い。昨日は死の淵まで行きかけたというのに……」

 死——。
それを聞いた途端、どっとヘンリ村での光景が甦ってきた。
全身にぴりぴりとした痛みが駆け巡って、ぶわっと寒気が押し寄せてくる。

 真っ青な顔になって、突然がたがたと震え始めた子供の頭を、男が優しく撫でた。
夢の中で、撫でてくれていた手だった。

 男は、しばらくそうして眉の辺りを曇らせていたが、やがて子供の震えがおさまると、静かに立ち上がった。
そして、一度寝室を出ていくと、すぐに椀を一つ持って戻ってきた。

「食べたい気分ではないかもしれませんが、とにかく栄養をつけないといけませんから。どうぞ、朝食です」

 子供の頭の下に手を差し入れて起こすと、男は手に椀を持たせてくれた。

 手渡された椀の中には、卵粥が入っていて、子供は驚いた。
米や卵なんて口にできるのは、一体いつぶりだろう。

 匂いを嗅いだ瞬間、猛烈にお腹が空いてきて、子供はがっつくように粥を口に流し込んだ。
しかし、すぐにぎゅっと腹が痛くなって、思わず吐き出しそうになると、男が慌てて桶を口元に持ってきた。

 しかし、子供は吐かずに、無理矢理喉の奥に粥を送り込んだ。
これは、こんなに美味しいものを吐き出したくないという思いからくるものと、本能で行ったものだった。

 つい最近まで、ヘンリ村にいたときは、土や虫を食べることもあったのだ。
慣れるまでは、口にいれた瞬間吐き出しそうになったものだが、吐いていては生き延びられない。
意地でも腹に収める方法を、その時に覚えたのだった。

「ゆっくり、ゆっくりお食べなさい。一気にかきこむと、胃もびっくりしてしまいますから」

 言いながら、男は温めた牛の乳を飲ませてくれた。
微かに果物の風味がするそれを、今度はゆっくりと飲むと、じんわりと身体が温かくなった。

「……美味しい」

 呟くと、男は嬉しそうな顔になった。

「それは良かった。私のお屋敷の料理人が、心をこめて作ったんですよ」

 子供は、何度も何度も咀嚼しながら、夢中になって食べた。
そうしてる内に、考える余裕が出てきたのか、自分はどうしてこんなものを食べられるようになったのだろうと、不思議に思い始めた。

 そもそも、こんなに綺麗な部屋で、身分の高そうな男に敬語まで使われるなんて。
こうなった経緯が全く分からない。

「……あの、これ、全部食べてもいいの?」

 急に不安になって尋ねると、男はもちろんだと言った。

「好きなだけお食べなさい。この粥も、美味しいでしょう?」

 子供が頷くのを見ながら、男は穏やかに問うた。

「最後に食べたのは、いつなんですか?」

 男が心配そうに表情を歪めたのを見て、子供は小声で答えた。

「……覚えてない」

「そうですか……。ヘンリ村は、いつからそんなに貧しくなったんです?」

 子供は、少し考え込むようにして黙った。

「……ひどくなったのは、冬が、終わった辺り。急に税の取り立てが厳しくなって、お役人が家畜を全部連れていっちゃったから」

 今年の冬は、確かに実りが少なかった。
農業をして暮らす土地は、全体的に飢餓に苦しんだはずだ。
ヘンリ村は、その中でも特に貧しい村だったから、空腹で苛立った役人たちの八つ当たりの対象にでもなったのだろう。
元々ヘンリ村は、悪意の捌け口として利用されるような人々が意図的に集められたような村なのだ。

「……ヘンリ村が貧しいことは知っていましたが、まさかシュベルテがなんの援助もしていなかったとは……」

 まるで他人事のように呟かれた言葉に、子供は俯いていた顔を上げた。

「ここ、シュベルテではないの?」

 ヘンリ村に最も近いのは、王都シュベルテである。
どんな経緯があったのかは分からないが、自分はてっきりシュベルテの貴族か何かの家に連れてこられたのだと思っていた。

 男は、子供に微笑みかけた。

「ここは、アーベリトという街ですよ。シュベルテから南東にある街です」

「……アーベリト?」

「はい。どうしてここまで来たか、覚えていますか?」

 子供が首を横に振ると、男は視線が合うようにしゃがみこんだ。

「……貴方は、焼け野になったヘンリ村で、倒れていたのですよ。生きていたのは、一人だけでした。それを騎士団が見つけて、一度は王宮で治療を受けていたのですが……その、召喚師様の意向で、アーベリトの医師である私の元に貴方を預けられたのです」

 最初、この子供の治療には、シュベルテの宮廷医師達が当たるはずだった。
しかし、その時シルヴィアが、この子供を自分の子ではないと拒否していたため、子供はひとまず医療の街とも呼ばれるアーベリトに預けられたのである。

「……ただの子供だったならば、こうして貴方が私の元に来ることはありませんでした。ご自分の立場を、知っておいでですか?」

 男は、問うた後、後悔したように子供の顔色を伺った。
酷な質問をしてしまっただろうかと思ったからだ。

 案の定、子供は顔をこわばらせていた。
もし自分が何者なのか知らなければ、こうした表情は浮かべないだろう。

 ヘンリ村の村人が、お前はきっと次期召喚師だ、などとこの子供に言ったのかは分からない。
だが、自分の瞳の色や力が、異質であることはなんとなく理解していたのかもしれない。

 男は、顔を曇らせて、更に尋ねた。

「……ヘンリ村に、なにがあったんです?」

 瞬間、子供は唇を噛み締めて、息を飲んだ。
その反応を見て、男は確信した。

(……この子は、全て分かっている。村を焼け野にしたことも、自分の立場も)

 子供は、うつむいたままなにも答えなかった。
父に食べられそうになったことも、闇の中から聞こえた声のことも、何故か口に出すのが怖かった。
心のどこかで、ヘンリ村が焼けたのは自分のせいな気がしていたのだ。

 ただ黙ったままの子供を見て、男は目を細めた。
そしてぽんぽんと頭を撫でた。

「嫌なことを聞きましたね。ご自身で分かっているのなら、答えなくて良いのですよ」

 そう言って立ち上がろうとした男の腕を、子供は慌てて掴んだ。
男の一線引いたような言葉が、ひどく恐ろしかった。

「知らない、何も……!」

 咄嗟に出た言葉は、嘘だった。
本当のことを言えば、自分はこの男に見捨てられてしまうような気がしたからだ。

「……無理に話すことはありません。言ってもいいと思えるようになったとき、教えてくれればそれで十分です」

 男は、そう言うと少し悲しそうに微笑んだ。

「……そうだ、自己紹介が遅れてしまいましたね。私は、サミル・レーシアスと申します。貴方は?」

 少し間をあけてから、子供は首を左右に振った。
ヘンリ村での呼び名はあったが、もうその名前を使うのは、嫌だった。

 サミルは、一瞬戸惑ったように眉をさげ、子供の手を握った。

「……では、王宮に戻ったときに、つけてもらうといいでしょう」

「王宮?」

 訝しげに聞き返すと、サミルは口を固く閉ざした。

「いいえ、こちらの話です。……さあ、お食事中にすみませんでした。早く傷を治すためにも、どうぞ食べてください」

 子供は、ちらりとサミルを見てから、再び持っていた椀から粥を食べだした。
サミルの言う通り、ゆっくりと咀嚼して飲み込めば、吐き気を催すほどの腹痛をもう感じなかった。

 辺りは、とても静かだった。
時折、この屋敷の中で人の立ち働く物音がしたが、それ以外は子供が口を動かす音しかしなかった。

 やがて、子供が食べ終わると、サミルは食器を片付けに部屋を出ていった。
そして戻ってくると、子供の寝台の横に毛布をひいた。

「昨晩はほとんど寝ていなかったので、少し私は休ませてもらいます。でもここにいますので、何かあったらすぐに起こしてくださいね」

 それだけ言うと、サミルは毛布にくるまった。
やはり疲れていたのだろう、ほどなくしてサミルの胸が上下し始めたので、彼はもう寝てしまったのだと分かった。

 子供も、しばらくすると寝台に横たわった。

 耳をすませても、本当に微かな物音しか聞こえない。
それは、きっとこの屋敷の壁が厚くて頑丈だからだ。
ヘンリ村の、あってないような、薄くてぼろぼろの石壁とは違う。

 きっとここにいれば、厳しい寒さに震えたり、血眼になって虫を探して食べたり、死にゆく家族を見たりすることはない。
そんな日々とは、無縁になれる。

 今、自分は、温かくて美味しい食事が出てくる、そして優しく頭を撫でてくれる人がいる、そんな場所にいる。
自分を殺して食べようとした父の手から、こうして逃れ、生きているのだ。

——ヘンリ村を、犠牲にして?

 ふと、声がした気がして、子供はぎゅっと目をつぶった。

(違う……そんなんじゃない。僕は、ただ、生きたいと思っただけ……)

——そう、生きるために、自分を殺そうとした奴等を消したんだ。

 そんな自分が、一人生き残り、平穏に身を置いている。
そう考えると、息苦しいほどの恐怖が襲ってきた。

 自分を憎み、責め立てるヘンリ村の人々の声が聞こえる。
今もぐっている寝台の中からも、彼らの手が伸びてきて、自分を闇の世界に引きずり込むかもしれない。

 子供は顔を歪めた。

(……違う、知らない。僕は、あの声に頷いただけ。村があんなことになるなんて、知らなかった……)

——知らなかった……? 本当に?

 脳内に、あの時の声が響いてきた。

——お前が我に命令した。己を生かせ、と。お前がやったのだ、主よ。

(違う……!)

 子供は、枕にぐっと顔を押し付けた。


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