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投稿日:2021年02月24日
七日も経つと、子供の体調はほとんど良くなっていた。
幸い傷の化膿は治まり、感染症になることはなかったので、熱もすっかり下がった。
寝ている間、この屋敷ではばたばたと人が出入りしているようだったが、一体何が起きているのは分からなかった。
時折、サミルではなく別の宮廷医師が訪ねてきていたから、出入りしているのは彼らかと思ったが、それにしても随分と騒がしかった。
ただ訪問者がいるという風ではなく、言い争っているような声も聞こえてきていたのだ。
しかし、何もなかったかのように、サミルはいつも優しかった。
それが、暗に首を突っ込まないでほしいと言われているようで、子供は何が起きているのか、尋ねることができなかった。
「ああ、もう立ち上がれるようになったんですね。本当に良かった」
朝食の後、食器を片付けに自ら部屋を出た子供を見て、サミルは嬉しそうに笑った。
「その分なら、今日はもう王宮に戻れそうだ。いかがですか?」
子供は、こくりと頷いた。
傷が治れば、王宮に住むと、これは前々から言われていた。
だから昨日、子供は、明日サミルと王宮に行くと約束したのだ。
正直、王宮などという未知の世界に行くのは不安で、何度もこの屋敷で働かせてほしいとサミルに頼もうと思った。
しかし、働くといっても、何もできるようなことは思い付かなかったし、そもそもそんなことは許されないような雰囲気だったため、言えなかった。
「では、どうぞ。これを着てください」
見たこともないような綺麗な刺繍の服を渡されて、子供はいそいそとそれを着込んだ。
随分と複雑な構造をした服だったため、所々手間取ったが、そこはサミルが手伝ってくれた。
子供は、馬車を手配しているサミルに、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「……なんで、王宮に住まないといけないの?」
すると、サミルは少し考え込むようにして、答えた。
「……貴方の、本当のお母上が、王宮にいるからですよ」
予想もしていなかった答えに、子供は驚いた。
てっきり、ヘンリ村でのことを詳しく聞きたいからとか、そのような理由かと思っていたのだ。
「本当の……お母さん?」
「ええ、そうです」
ヘンリ村に住んでいたときも、自分は拾われた子だと言われていたから、本当の母親がどこかにいるのだろうとは思っていた。
ただ、まさかその母親が王宮にいるとは、考えたこともなかった。
「お母さん、偉い人なの?」
思わずそう尋ねると、サミルは複雑な表情を浮かべて、子供の肩に手を置いた。
「シルヴィア・シェイルハート様。現召喚師様が、貴方のお母上です」
「召喚師……」
「……召喚師のことは、分かりますね?」
子供は、頷いた。
案外心は冷静で、母親が召喚師だと聞いても、今度は驚かなかった。
むしろ、心の穴にすとんと何かが嵌りこんだかのように、納得した。
なんとなく、自分でも分かっていたのだろう。
ただこれまでは、自分が異質であることと、自分が召喚師の息子であることを、結びつけていなかっただけだ。
サミルは、黙りこんでしまった子供の背を軽く押して、馬車に乗るよう誘導した。
子供は、最後に一度、屋敷の方を振り返って、サミルと共に馬車に乗り込んだ。
白亜の屋敷は、改めて全体を見渡してみると、少し寂れた雰囲気を漂わせていた。
屋敷を出た時は、雨が近いかと思われるような曇り空だったが、サミル達の馬車が王都シュベルテに入った頃には、すっかり晴れていた。
強風に煽られて流れていく雲は、日光に縁取られて、白く輝いている。
王宮は、重厚な白壁に囲まれていて、王の住まう場所というよりは、牢のようだった。
思っていたような華やかさはなかったが、想像以上に荘厳で、これからここに閉じ込められるのかと思うと、子供は少し怖かった。
王宮の門前に到着して、馬車から降りると、サミルは門衛に声をかけた。
何を話しているのかはよく分からなかったが、既に話は通っていたようで、門衛はすぐに開門した。
それと同時に、門の更に奥にある大扉が、ぎしぎしと軋みながら開いて、中から細長い人影が現れた。
ひょろりと背の高いその人影は、初老の男だった。
白髪交じりの髪は後ろで一つにまとめてあり、纏っている緑色の衣からは墨なような臭いがした。
「よくぞ参った、レーシアス伯」
男がそう声をかけると、サミルは両の掌をあてて礼をした。
「アシュリー卿、遅くなり大変申し訳ありませんでした」
「いや、構わぬよ」
男は、言いながら、子供の方に視線を移した。
「ほう、これはこれは……確かに、召喚師様によく似ていらっしゃる」
舐めるように子供を見回すと、男はぎらぎらとした目を細めた。
「お初にお目文字つかまつります。私、政務次官のガラド・アシュリーと申します。以後お見知りおきを」
「…………」
聞いたこともないような言葉遣いに戸惑って、子供は助けを求めるようにサミルを見た。
すると、サミルは微笑んで言った。
「ここからは、アシュリー様に案内してもらって下さい。次期召喚師様、私とはここでお別れです」
「えっ……?」
急な別れの言葉に焦って、子供はサミルの袖を掴んだ。
もちろん、サミルは王宮の人間ではないから、いつか別れるだろうとは予想していた。
しかし、こんなにすぐに置いていかれるとは思っていなかったのだ。
まるで牢のような王宮で、こんなぎらぎらした目のガラドという男と残されるのは、不安だった。
「もう、帰るの……?」
「はい。次期召喚師様の命をお救いすることができて、光栄でした。どうか、お元気で」
「…………」
冷たく、突き放されたような気がした。
子供が黙ったまま俯くと、サミルは少し躊躇いがちに、自分の袖から子供の手を外した。
それからゆっくりと踵を返して、馬車の方へ歩き出した。
こんなにも、あっさりと別れがくるとは思わなかった。
自分にとっては、初めて優しくしてくれる人だったというのに。
そう思うと、じわじわと悲しみが心に滲んできて、子供はぐっと歯を食い縛った。
「……参りましょう、次期召喚師様」
「——っ!」
そうして伸びてきたガラドの手を振り払って、子供はだっとサミルの元に駆け出した。
そして、既に馬車の近くまで戻っていた彼の腰辺りに飛び付くと、勢いよく顔を上げた。
「嘘、ついてた……!」
突然のことに驚いたらしく、サミルは目を丸くして子供の方に振り返った。
子供は、続けた。
「本当は、全部知ってた。自分が普通と違うこととか、ヘンリ村がどうしてああなったのかとか」
「…………」
「あの日、ついに食べるものがなくなって、父さんが僕のこと食べようとしたんだ。僕は拾われた子だったから、それも仕方ないと思ったけど……急に死ぬのが怖くなって。そしたら声がしたから——」
「声?」
聞いているだけだったサミルが、口を開いた。
子供は、これまでにないほど真剣な目をして、頷いた。
「声がしたんだ、生きたいか? って。それに、生きたいって答えたら、急に大きな雷が落ちてきて……」
「…………」
「よく分からないけど、多分、僕がやったんだ。ごめんなさい、嘘ついてました」
すがり付くように言ってきた子供を、サミルは強く抱き締めた。
こんな風に抱き締められたのは、初めてで、途端に喉の奥から熱いものが込み上げてきて、子供は泣いた。
「……そうして嘘をついたと言えるのですから、貴方は本当に立派で、心根の良いお方です。大丈夫、貴方は何も悪くないのですから」
そう言いながら、サミルはあやすように子供の背を撫でた。
「これから、大変なこと、辛いことが沢山あるでしょう。でもどうか、道を誤らぬように、真っ直ぐ生きてください。私は、いつでも貴方の味方ですよ」
それだけ言うと、サミルは子供を離した。
そして、すぐ近くに来ていたガラドを一瞥すると、最後に子供の頭をくしゃくしゃと撫でて、馬車に乗り込んだ。
「……ありがとう」
泣いていたせいで、あまり大きな声は出なかった。
しかし、ちゃんと届いていたらしく、サミルは微笑んだ。
馬車が走り出したのと同時に、子供の手をガラドがぐいと引っ張り、歩き出した。
どんどん遠くなる馬車を見つめながら、子供は、ただ小さくなっていく車輪の音を聴いていた。
本殿から続く、長い廊下を歩いている途中。
ガラドから、離宮に向かっていること、離宮には召喚師であるシルヴィアと、その三人の息子たちが住んでいることなどを説明された。
自分はこれから、会ったこともない母親と、兄弟に囲まれて暮らすのだ。
そう考えても、実感など湧かなくて、嬉しいとも嫌だとも思わなかった。
色とりどりの花が咲き乱れる庭園の真ん中に、離宮はぽつんと建っていた。
荘厳な本殿の雰囲気とは一変、離宮は御伽の国から飛び出してきたような、きらびやかな建物だった。
庭園に足を踏み入れると、朝露に濡れた草の匂いと、花の甘い香りがふっと頬をかすった。
離宮の扉の奥からは、微かに物音がしてきて、誰かが庭園に出ようとしているようだった。
おそらく、召喚師とその息子達だろう。
離宮と距離をあけたまま、呆然と立ち竦んでいると、ガラドが声をかけてきた。
「今からいらっしゃるのが、召喚師シルヴィア・シェイルハート様とそのご子息です。ところで、次期召喚師様はおいくつで?」
「……多分、八」
これまで迎えてきた冬の数を数えて答えると、ガラドはふむ、と頷いた。
「では、兄君が二人、弟君が一人ですな。どうぞ、あちらに」
「…………」
ガラドが離宮に向けた視線をたどると、扉から三人の子供が出てきた。
これから、自分の兄弟となる子供たちだ。
「あちらの黒髪のお方が、ご長男のルイス様、金髪のお方が次男のリュート様、年齢的に次期召喚師様を三男として、最後のあの茶髪のお方が四男のアレイド様でございます」
ガラドの言う通り、ルイスとリュートと呼ばれた二人は、自分よりも歳上に見えた。
おそらく、もう十歳は越えているだろう。
最後の、アレイドと呼ばれた子供は、自分より年下ということだったが、ほとんど同い年くらいのようだ。
三人とも、髪色も顔立ちも全然似ていなかったが、それぞれ父親が違うことは聞かされていたから、疑問には思わなかった。
「……あとは、召喚師様との時間をお過ごしください。それでは、私はこれで」
ガラドは、深々と礼をすると、そそくさと庭園を出ていった。
子供は、その後ろ姿を見送って、再び兄弟達の方を見た。
すると、子供の一人——アレイドが、一瞬ちらりとこちらを見て、それから扉に目を向けた。
「母上! もう来ていますよ!」
それが、自分を指した言葉だと分かって、子供は後ずさった。
その時、ひゅうっと、花弁を乗せた風が吹き抜けた。
子供は、目を閉じかけ、そして、再び前を見て、瞠目した。
離宮の扉から出てきたのだろう。
いつの間にか、子供たちの中に銀髪の女が佇んでいる。
(……シルヴィア・シェイルハート……)
全身を、稲妻が突き抜けたような感じがした。
血が通っているとは思えないほど白い、陶器のような肌と、絹糸を思わせる艶やかな白銀の髪。
音もなく現れた彼女は、間違いなく自分の母親——否、同類だと思った。
本当に美しく、綺麗な女だった。
だが、それを見た瞬間、子供は地面に縫い付けられたように動けなくなった。
子供が動かないことを不思議に思ったのか、アレイドがこちらを見て、駆け寄ってこようとした。
すると、シルヴィアが口を開いた。
「アレイド、行っちゃあ、だめ」
鈴のような声だった。
アレイドが、何故か問うように見つめ返すと、シルヴィアは薄い唇をほころばせた。
「あの子は、私の子供ではないの。だから、だめ」
「……でも、今日から一緒に住むのでしょう? 母上」
「あの子供が次期召喚師だと、父上も仰っていました」
続いて口を開いたルイスとリュートを、シルヴィアは包み込むように抱くと、笑みを浮かべた。
「……あの子は次期召喚師よ。でも、私の子供ではないの。ねえ? ルイスも、リュートも、アレイドも、あの子に近づいてはだめ」
三人の子供たちは、少し躊躇ったような表情を浮かべていたが、やがて頷いた。
それに対し、いい子ね、と呟くと、シルヴィアはついにこちらを見た。
まるで、氷のような微笑。
シルヴィアと目があった途端、ぞくぞくとした寒気が身体を巡って、震えが止まらなくなった。
この恐怖は、あの日、闇から声が聞こえてきた時に感じたものと、よく似ていた。
「ねえ、貴方。お名前は?」
尋ねられて、子供は必死に首を振った。
声を出すことは、出来なかった。
「あら……名前がないのねえ。でも、これから一緒に暮らすなら、名前がないと不便だわ」
そう言いながら、シルヴィアは立ち上がった。
そして、ゆったりとした足取りで、浮いているのではないかというほど軽やかに、子供の目の前に来た。
シルヴィアは、青白い指先をこちらに向けた。
「……それなら、貴方の名前はルーフェンにしましょう。古の言葉で、奪う者って意味よ」
銀の髪を揺らして、シルヴィアの唇が会心の笑みを浮かべる。
ここで初めて、自分はひどく拒絶されているのだと気づいた。
だって、こちらをじっと見ているのに、彼女の瞳に自分は映っていない。
シルヴィアは、ルーフェンではなく、どこか遠くを見ているようだった。
さあっと甘ったるい風が吹き抜けて、花園がさわさわと揺れる。
その草花のざわめきに不安を掻き立てられて、ルーフェンはごくりと息を飲んだ。
To be continued....
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