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投稿日:2021年08月03日





 青白い指先が、そっとトワリスの首筋に触れる。
そのあまりの冷たさに、トワリスが後ずさろうとした、その時──。

「トワ!」

 鋭いルーフェンの声が、トワリスを縫い止めていた糸を絶ち切った。
背後からトワリスの腕を引くと、ルーフェンが二人の間に割って入る。
そうして、トワリスをかばうように立つと、ルーフェンは、シルヴィアをきつく睨みつけた。

「……お前、どうしてここにいるんだ」

 唸るような低い声に、思わずトワリスまで身をすくめる。
咄嗟に見上げたルーフェンの横顔には、見たこともない、獰猛な色が浮かんでいた。

 シルヴィアは、夢から覚めたように目を見開くと、ルーフェンの顔を凝視した。
その瞳に、先程までの影はない。
むしろ、日が差したような明るい光を目に宿すと、シルヴィアは、穏和な微笑を浮かべた。

「まあ……ルーフェン、大きくなって。七年ぶりかしら」

 言いながら、シルヴィアが、ゆっくりと近づいてくる。
対してルーフェンは、瞋恚(しんい)のこもった眼差しを向けて、忌々しそうに告げた。

「アーベリトまで来て、今度は何をするつもりだ。今すぐ出ていけ」

 無感情なルーフェンの声が、葉擦れの音と共に響く。
しかし、シルヴィアは怯むことなく手を伸ばすと、ルーフェンの頬にそっと触れた。

「そんなこと言わないで。……ねえ、もっとよく顔を見せて」

「──触るな……!」

 瞬間、ルーフェンが、勢いよくシルヴィアの手を払いのけた。
衝撃で突き飛ばされたシルヴィアの肢体が、地に打ち付けられて、華奢な腰から後方に崩れる。
手をついた際に、地面で擦ったのだろう。
シルヴィアの掌からは、うっすらと血が滲んでいた。

「な、なにしてるんですか!」

 流石に黙っていられないと、ルーフェンを押し退けて飛び出すと、トワリスは、シルヴィアの元へと駆け寄った。
いつになく動揺しているルーフェンの様子も気になるが、どんな理由があろうと、息子が母親に暴力を振るって良いわけがない。
ルーフェンは、シルヴィアよりも背丈があるし、力だってあるのだ。
一方のシルヴィアは、まだ病み上がりの身だし、そうでなくても、打ち所が悪ければ大怪我に繋がっていたかもしれない。

 トワリスは、シルヴィアを抱き起こすと、ルーフェンを見た。

「シルヴィア様は、シュベルテでの襲撃に巻き込まれて、アーベリトまで治療のために運ばれてきたんですよ」

 非難の意味も込めて言ったが、ルーフェンの態度は変わらなかった。
顔を一層強張らせ、殺気立った視線をシルヴィアに向けている。
ややあって、トワリスの方を見ると、ルーフェンは口を開いた。

「……トワ、こっちに来て」

 鋭さの中に、哀願の響きが混じったような声で言われて、トワリスは戸惑った。
再会を喜ぶ母を突き飛ばすなんて、どんな理由があったって、許されることではない。
しかし、今のルーフェンには、支えてやらねば崩れてしまいそうな、不安定な表情が見え隠れしていた。

 どうすべきか迷っていると、不意に、シルヴィアの薄い唇が、にんまりと弧を描いた。
今までの、淡白で穏やかな笑みとは違う。
不気味で、冷ややかな微笑であった。

 トワリスの耳元に唇を近づけると、シルヴィアは、そっと囁いた。

「……私たちの邪魔、しないで」

 先程、一瞬だけ感じた寒気がぶり返して、トワリスは、咄嗟にシルヴィアから距離をとった。
心臓が、激しく脈打ち出す。
シルヴィアは、トワリスの手を借りることなく、緩やかな所作で立ち上がった。

「……お部屋に戻るわ。数日間、相手をしてくれてありがとう」

 銀の髪を揺らして笑みを深めると、シルヴィアは、トワリスを見た。
擦ったはずの彼女の手に、もう血は滲んでいない。
次いで、シルヴィアはルーフェンを見た。

「もう二度と会えないと思っていたから、久々に顔が見られて、嬉しかったわ。私の処遇は、陛下とご相談して、どうぞご自由に」

「…………」

 ルーフェンは答えなかったが、シルヴィアは、それだけ言って満足したのか、ふわりと髪を翻して踵を返した。
遠ざかっていく背中をきつく睨みながら、ルーフェンは、じっと押し黙っている。
トワリスが傍らに立つと、ようやく我に返ったのか、ルーフェンは、シルヴィアから視線を外した。

「……大丈夫? 何かされてない?」

 心なしか、語尾を震わせて、ルーフェンが問いかけてくる。
トワリスは、ふるふると首を振った。

「別に、なにも。……気分転換になるかと思って、中庭にご案内してただけですよ」

 努めて平然と答えると、強張っていたルーフェンの顔に、微かに安堵の色が浮かんだ。
本当は、まだ心臓が激しく脈打っていたが、シルヴィアに対して感じた恐怖を、今のルーフェンに打ち明ける気にはならなかった。
邪魔をしないで、と囁かれたあの時、シルヴィアは、確かに笑っていた。
口調も表情も穏やかで、何かをされたわけでもないのに、どうしてあの時、背筋に震えが走ったのか──。
寒気の理由が、トワリスには分からなかった。

 トワリスは、上目にルーフェンを見上げた。

「あの……何か、あったんですか?」

「…………」

 ルーフェンが、視線だけを投げ掛けてくる。
聞くべきではないのかもしれないと思いながら、トワリスは、躊躇いがちに唇を開いた。

「いや……その、シルヴィア様と。あんまり、仲が良くないのかなと……」

 尻すぼみになっていく自分の声を聞きながら、トワリスはうつむいた。
なんとなく、ルーフェンの顔を見てはいけないような気がしたのだ。

 お互いに黙っていると、不意に、ルーフェンがトワリスの腕を掴んだ。
驚いて顔をあげれば、ルーフェンが、こちらを見つめている。
こんなにも沈痛な面持ちをしたルーフェンを、トワリスは、一度も見たことがなかった。

「あの人には……絶対に関わらないで」

 腕を掴む手に、わずかに力がこもる。

「え……でも、サミルさんが」

「いいから、俺の言うことを聞いて」

 いつにない真剣な口調で言われて、トワリスは、頷くしかなかった。
こちらを見つめる銀色の双眸が、色を変えて、ゆらゆらと揺蕩っている。
近くで見ると、改めて、シルヴィアとルーフェンは似ていなかった。

 トワリスは、こくっと息を飲んだ。

「わ、わかりました。……でも、本当に、何もなかったんですよ。むしろ、その……シルヴィア様は、優しかったです。ちょっと不思議な方だなとは思うことはありましたけど、綺麗で、いつも笑ってて……見てると、こっちまで穏やかな気持ちになれると言いますか……」

 必死に言葉を探して言い募ると、ルーフェンは、ふと表情を消した。
見えなくなったシルヴィアの背を一瞥してから、ルーフェンは、睫毛を伏せた。

「……そうかな、気色悪いだろう。いつも薄ら笑ってて……」

 冷たく放たれたその言葉に、トワリスの胸が、ずきりと痛む。
シルヴィアの笑みを、温度のない無機質なものだと感じる気持ちは、先程までのやりとりで、トワリスにも少し分かった。
しかし、彼女はルーフェンの母親だ。
理由あって不仲なのかもしれないが、仮にも母親を、悪く言われたくはないだろう。
そう思って、トワリスは、シルヴィアの擁護をしたつもりであったが、どうやらそれは、不要だったらしい。
ルーフェンがシルヴィアに向けたのは、軽蔑──それだけであった。

 シルヴィアは、ルーフェンと会うのは七年ぶりだと言っていた。
つまり、遷都をしてルーフェンがアーベリトに移ってからは、一度も顔を合わせていなかったのだろう。
二人の間にある溝を、トワリスは知らない。
だから、口出しなどできるはずもなかったが、折角母親が生きていて、足を伸ばせば会える距離に存在しているのに、あえて遠ざけるなんて、トワリスには勿体ないことのように思えた。

 ルーフェンはしばらく、冷ややかな眼差しで、去っていったシルヴィアの面影を追っていた。
だが、不意に、自分が今、どんな顔をしているのか思い至ったのだろう。
はっとトワリスの方を見ると、慌てて手の力を緩めた。

「ごめん……なんでもないんだ。ありがとう、母を気に掛けてくれて」

 柔らかい声で言われて、トワリスは、ほっとしたように肩の力を抜いた。
やっと、いつものルーフェンが戻ってきてくれた気がしたのだ。
一方で、申し訳なさも感じていた。
ルーフェンが“あの人”ではなく“母”と言い換えたのは、おそらくトワリスを気遣ってのことだろうと分かっていたからだ。

 トワリスは、まごついた。

「い、いえ……私こそ、よく知りもしないのに、余計なことを言ってすみません。お、親子と言っても……いろいろ、あるんですよね、きっと」

「……やっぱり、何か言われた?」

 ルーフェンに鋭く切り込まれて、咄嗟にぶんぶんと首を振る。
今の自分の発言こそ、余計だったかもしれない。
ルーフェンはつかの間、探るような目でトワリスを見ていたが、ややあって、小さく息を吐くと、肩をすくめた。

「本当に、なんでもないんだよ。……ただ、母と俺はやっぱり似ているから、もう関わりたくないだけ」

 似ている、という言葉と、関わりたくない、という言葉が結び付かず、トワリスは首を傾げた。
皆が言うほど、シルヴィアとルーフェンが似ているとは思わなかったが、やはり血は繋がっているので、ふと目を伏せた時の顔立ちなんかは確かに面影がある。
しかし、それがなぜ関わりたくないことに繋がるのか、トワリスには理解できなかった。

 意味を問うように見上げると、ルーフェンは、一拍おいてから眉を下げた。

「……俺、子供の頃は、死んでも召喚師にはなりたくないと思ってたんだよね」

 突然切り出されて、トワリスが目を丸くする。
ルーフェンは、冗談っぽく続けた。

「でも、なりたくないって言ったところで、そんなの認められるわけないだろう? シュベルテから逃げ出して、どこか遠くに行こうか、とか……色々考えたけど、召喚師一族として生まれた時点で、もう避けられないことだったんだ」

 トワリスは、神妙な面持ちでうつむいた。

「そ、それは……確かに、難しいですね。シュベルテから出るだけじゃ見つかるでしょうから、本気で逃げるなら、少なくとも、魔導師団の管轄外の地域には出ないといけません。というか、まずはその目立つ髪と目をどうにかしないと」

 ぶつぶつと呟きながら、トワリスは眉間に皺を寄せる。
思いの外──否、期待通りでもあったが、想像以上に真剣に悩み始めたトワリスに、ルーフェンは苦笑を浮かべた。

「そこは肯定的なんだ? トワのことだから、文句垂れてないで覚悟を決めろとか、男なら腰を据えて働け、とか言ってくるかと思った」

「なんですか、その勝手なイメージは……」

 トワリスは、不満げに口をとがらせた。

「自分で志望したならともかく、生まれは選べないでしょう。召喚師をやめるって言われたら、国としては困りますけど、本気で嫌だったんなら仕方ありません。とりあえず、相談には乗ってたと思いますよ、私も、ハインツも。……あ、でもルーフェンさんが召喚師になってなかったら、私とハインツはここにいなかったか……」

 どちらにせよ、子供の頃の話なら、まだ私達は会ってすらいなかったですよね。
そう付け加えて、トワリスは、再び眉を寄せる。

 召喚師以外の道など、選べるわけがなかった。
それは、ルーフェンが一番よく分かっていたし、トワリスも、過ぎた仮定の話だからこそ、こんな風に気軽に答えているのだろう。
それでも、当たり前のように拒絶を受け入れ、共に考えてくれているトワリスに、ルーフェンは微笑んだ。

「そうやって、一緒に悩んでくれる人が、母にはいなかったんだろうね。いたのかもしれないけど、気づかなかった。……そういう、可哀想な人なんだよ」

 トワリスの目が、ゆっくりと見開かれる。
ルーフェンは、少し困ったように笑みを深めた。

 風に揺れる銀髪が、日の下できらきらと輝いている。
目を伏せ、花を哀れんでいたシルヴィアの姿が、トワリスの脳裏にはくっきりと焼き付いていた。


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