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投稿日:2021年02月24日






  *  *  *


 鼻にこびりつくような、濃い顔料の臭いで、トワリスはぼんやりと覚醒した。
鉛のように重い頭を持ち上げ、立とうとするも、両手両足には枷が嵌められていて、うまく身動きがとれない。
動く度、じゃらじゃらと鳴る枷の鎖は、石床に穿たれた、頑強な金具に繋がれていた。

 蝋燭一本の明かりもない、真っ暗な地下の独房の中。
ここが、本来のトワリスの居場所だった。
耳が痛くなるほどの静寂と、肌を這うような黴臭い空気。
力任せに腕を動かせば、無機質な鉄枷が食い込んで、じくじくと手首が痛んだ。

(暗い……)

 手枷を無意識にかじりながら、足枷を石床に叩きつける。
舌に広がった血の味は、鉄のものだったのか、それとも、己の歯茎から滲んだものだったのか。

 自らこの場所に戻ってきたのに、再びこの暗闇に放られると、怖くて、悲しくて、目から涙がこぼれた。

「……そ、そは、くうきょに、あらず……」

 震える声で、教わった呪文を唱えてみるも、ここには手燭の炎がないし、魔法陣だって描けない。
涙声で咳き込みながら、それでも何度も呪文を詠唱してみたが、やはり、あの炎の鳥は現れてはくれなかった。

 耳を澄ましても、目を凝らしても、この地下の独房からは、外の様子など伺えない。
ルーフェンのいた屋敷から抜け出してきて、もう一日以上経っただろうか。
この家──オルタ・クレバスの仕事場に戻ってきてからは、すぐに気絶させられてしまったため、時間の経過が分からなかった。

 ただ一つ、分かることといえば、今は夜ではない、ということだ。
オルタが、絵を描きに現れるのは、必ず日が暮れてからなのである。

(また、夜がきたら……)

 今度は、何をされるのだろう。
切られるのも、絞められるのも、焼かれるのも、嫌で嫌で仕方がない。
いっそ慣れて、痛みなんて感じなくなってしまえばいいのに、いつまでたっても、その苦しみからは解放されなかった。

 ふいに、重々しい足音が響いてきて、トワリスははっと息を飲んだ。
身を潜め、暗闇を凝視していると、やがて、独房の前に体躯の大きな男がやってくる。
この男もまた、オルタに買われた奴隷の一人だ。

 彼は、傴僂で貧弱なオルタに代わり、トワリスをこの独房に閉じ込め、その世話をするのが仕事のようだった。
オルタの命令一つで、トワリスに直接暴力も振るってくることもあれば、一方で、死にはしないように最低限の食事を与えてくることもある。
暗がりでしか会ったことがないから、顔もはっきり見えないし、名前も知らなかったが、トワリスは、この男がオルタの次に恐ろしかった。

 牢の扉を開いて、男がトワリスに近づいてくる。
その手に棍棒が握られているのを見て、トワリスは硬直した。

(……に、逃げないと)

 頭ではそう思うのに、身体が凍りついたかのように、動かない。
いつもそうだ。
オルタやこの男が出てくると、恐怖で身体が言うことを聞かなかった。
仮に逃げられても、見つかったときのことを考えると、恐ろしくて、脚がすくんでしまうのだ。

 ただ黙って男を凝視していると、ふいに、その右腕が振り上がる。
瞬間、棍棒が無造作に皮膚を打つ音が響いて、左の足首に衝撃が走った。

「────っ!」

 声にならない呻きを漏らして、身を守るように背を丸める。
叩かれた足首の激痛に身悶えしていると、男は苛立たしげに目元を歪めて、問いかけてきた。

「……お前、なぜ逃げた」

 ぐっと乱暴にトワリスの前髪を掴み、男が無理矢理顔を覗きこんでくる。
その腕には、 刃物で刻まれたであろう痛々しい傷が、無数についていた。
この男の仕事は、トワリスの管理だ。
そのトワリスの逃亡を許してしまったが故に、罰を与えられたのかもしれない。

 今度は右脚に棍棒を押し当てられて、頭が真っ白になる。
戦(おのの)いて、無意識に後退しようとすれば、足枷の鎖を引っ張られて、トワリスは勢いよく仰向けに転んだ。

「……二度と逃げられないように、脚を折れとのご命令だ」

 太い声で言って、男が、再び棍棒を振り上げる。
反射的に目を閉じた、その次の瞬間──。

 空気の唸り声が聞こえたかと思うと、同時に、何かを殴り付けるような鈍い音が響いた。
しかし、トワリスには、覚悟していた痛みは一向にやってこない。

 階上から、複数人の足音が聞こえてきたかと思うと、それとは別に、自分のすぐ近くで、何者かの気配を感じる。
恐る恐る顔を上げたトワリスは、刹那。
目の前でどさりと倒れた男の背後に、人影があることに気づくと、大きく目を見開いた。

「ル──」

 名前を呼ぼうとして、口を閉じる。
喉の奥に熱いものが込み上げてきて、うまく言葉が出なくなった。

 走ってきたのか、微かに息を乱して、ルーフェンもトワリスを凝視している。
しばらくそうして、二人は互いを見つめ合っていたが、やがてルーフェンは、周囲が暗いことに気づくと、宙で指を動かし、石壁にかかった燭台の燃えさしに、穏やかな炎が灯らせた。

「よかった、見つかった……」

 ふうっと安堵の息を漏らして、ルーフェンがその場にしゃがみこむ。
すると、突然騒がしくなった階上から、ロンダートの声が聞こえてきた。

「召喚師様ぁー! 奴隷を三名、保護しましたー!」

 その声を受けると、ルーフェンは立ち上がった。
そして、倒れた男の背中に、焼鏝(やきごて)で付けられたであろう奴隷印が刻まれているのを確認する。
ルーフェンは、トワリスを再度見ると、一階へ繋がる階段の方に向けて、返事をした。

「こっちも二人、見つけた。引き続き、他に捕らえられている奴隷がいないか探して、全員保護したら、屋敷に戻って!」

「わかりましたー!」

 ばたばたと慌ただしい足音や、声が響いてくる。
おそらく階上には、ロンダート以外にも、何人か自警団の者が来ているのだろう。
はっきりと状況を飲み込むことは出来なかったが、ただ、ルーフェンたちが助けに来てくれたのだと。
それだけは理解できた。

 ぼんやりと燭台の明かりに包まれる、独房の中。
ルーフェンは、額の汗を拭うと、ゆっくりとした動きで、トワリスの手枷に触れた。

 指先を動かして、ルーフェンが鍵穴部分をなぞると、かしゃり、と解錠の音がして、手枷が地面に落ちる。
同じように足枷も外すと、ルーフェンは、トワリスの様子を伺いながら、彼女の手をそっと握った。

「戻ろう、トワリスちゃん。こんなところにいちゃ駄目だ」

「い、いや……っ」

 しかし、その手を振りほどいて、トワリスが後ずさる。
トワリスは、動かない左足を引きずって、どうにかルーフェンと距離を取ると、首を振った。

「逃げようとしたら……脚、折るって言われた」

 一瞬、表情を曇らせると、ルーフェンは倒れている男の方を睨んだ。
だが、すぐに表情を緩めると、ルーフェンはその場に屈みこんだ。

「……心配しなくてもいいよ。君をここに閉じ込めていた奴は、アーベリトから追放して、シュベルテの魔導師団に引き渡す。だから、おいで。君はもう奴隷じゃない」

「…………」

 優しい声で言って、手を差し出す。
戸惑った様子のトワリスに、ルーフェンは、笑みを向けた。

「助けてあげるって、言ったでしょ。もしまた悪い奴が来ても、俺がやっつけてあげるから」

 こちらを見上げてきたトワリスに、ルーフェンが頷いて見せる。
ゆらゆらと揺れるトワリスの瞳には、まだ不安と困惑の色が、はっきりと見てとれた。

 やがて、躊躇いがちに伸びてきたトワリスの手を取ると、ルーフェンは、その手を握りこんだ。

「……大丈夫。安心して」

 握った手に、更に力を込める。
少し間を置いてから、強気な表情を浮かべると、ルーフェンは言った。

「俺はこの国の、召喚師様だからね」

 ルーフェンに背負われて、サミルの屋敷まで戻ると、トワリスは再びダナの治療を受けることになった。
ルーフェンの自室に通され、折られた左脚を固定してもらうと、ダナは眠るようにと言ったが、徐々に自分の置かれている状況を飲み込み始めると、それまで堪えてきた恐怖と興奮が一気に噴き出してきて、うまく寝付くことができなかった。

 薄暗かった空が闇色に染まると、しばらくして、サミルとルーフェンが部屋を訪ねてきた。
二人は、何やら深刻そうに話をしながら、部屋に入ってきたが、トワリスが起きていることに気づくと、すぐに穏やかな表情になった。

「傷の具合は、どうですか? 痛いところはありますか?」

 寝台脇にゆっくりとしゃがみこむと、サミルが問いかけてくる。
トワリスは返事をしなかったが、サミルはそれを咎めることもなく、ただ、折れた左脚を一瞥しただけであった。

 手近な椅子に座ると、ルーフェンが言った。

「トワリスちゃん、君を監禁していた男……オルタ・クレバスは、言った通り、アーベリトから追放した。他の奴隷たちの身柄も、シュベルテに引き渡したよ。オルタ・クレバスは、元々シュベルテの人間だから、処遇はあちらに委託する。でも、シュベルテも奴隷制を廃止にしている街だから、奴隷たちがまた不当な扱いを受けることはないはずだよ」

「…………」

 トワリスは、緩慢な動きで寝台から起き上がると、つかの間、不安げにルーフェンを見つめていた。
それから、微かにうつ向くと、呟くように言った。

「……私も、シュベルテに、送られるんですか」

 一瞬、ルーフェンとサミルが顔を見合わせる。
口を開こうとしたルーフェンを制して、サミルが、静かにトワリスの手に己の手を重ねた。

「ルーフェンと話して、貴女のことは、アーベリトが引き受けることにしました。……ただ、貴女という存在を、シュベルテに明かすことはします」

「…………」

 ぴくりと、トワリスの手が震える。
自分の存在が広く知れ渡るというのは、ひどく恐ろしいことのように感じた。

 人間しかいないこのサーフェリアという国で、獣人混じりの自分がいかに異質で、奇怪な存在なのか。
それは、これまでの奴隷生活の中で、散々思い知ってきたことだ。
奴隷から解放されるにしても、この先、生きていくのならば、誰の目にも触れられず、知られずにいたいというのが本音だった。

 そんなトワリスの心中を察したのだろう。
サミルは、安心させるように微笑んだ。

「トワリスさん、どうか誤解をしないでください。確かに、獣人奴隷の件については、元々シュベルテの管轄でしたから、報告という意味合いはあります。でもね、別に私達は、貴女のことを無闇に見せびらかしたいわけじゃありません。ただ、貴女のことを、隠すような後ろめたい存在だとは認識させたくないから、シュベルテに伝えるのです」

 顔をあげたトワリスの目を、サミルは、まっすぐに見つめた。

「獣人は、私達人間にとって、未知の存在です。その血を引く貴女は、どうしても、サーフェリアにおいて目を引いてしまう。……でも私は、それが何だと言いたい。だって貴女には、何の罪もないのですから」

 柔らかい、けれどはっきりとした口調で、サミルは続けた。

「これまで、沢山辛い思いをしてきたでしょう。今後も、獣人の血を引いていることを理由に、後ろ指を指されることがあるかもしれません。ですが、それを恐れて、隠れるように暮らすのは、とても悲しいことだと思うのです。自由の身になったからこそ、私は、貴女に堂々と生きていってほしい。そうなるために、このアーベリトが、トワリスさんの新しい居場所になればとも思っています」

「…………」

 自然と、涙が出てきた。
胸からあふれでてくる、この温かい感覚がなんなのか、よく分からなくて。
トワリスは、嗚咽を漏らしながら、震える声で呟いた。

「……最初は、ずっと、ハーフェルンにいたんです」

 目を拭って、辿々しく口を開く。

「ハーフェルンの、奴隷市場に、いて……そこには、私以外にも、いっぱい奴隷がいて、売られる前は、叩かれたり、殴られたりすることもなかった……。お母さんとは、もう、離れ離れになってたけど、お母さんのこと、知ってるっていうおばさんが、色々、教えてくれて……。もし、お母さんに会えたら、きっと、助けてくれるって、そう、思って、ずっと会いたかったの……」

「…………」

 黙って聞いているサミルの手を、すがるように握り返して、トワリスは言った。

「でも、その後、私も、あのオルタって人間に買われて、シュベルテに、連れていかれたし……。お母さん、死んじゃってるかもって、本当は、思ってたから……。もう、どうすればよいのか、どこ、逃げれば良いのか、全然、分からなくて……ずっと、怖かった……」

 サミルは、トワリスの手を握ったまま、柔らかく微笑んだ。

「サーフェリアに、たった一人。なぜミストリアから渡ってきたのか、その経緯は分かりませんが、おそらくお母様も、凄まじい不安や恐怖、孤独と戦っておられたはずです。……それでも、貴女を産んだ」

 懐から書類を取り出すと、サミルは、それをトワリスに差し出した。

「強いお母様だったのでしょうね。きっと、空から、貴女の幸せを祈っていますよ」

 差し出されたのは、件の獣人奴隷の違法取引について、詳細が書かれた書類だった。
トワリスの母親の、脚に彫られていた木の葉の刺青の模様まで、細かく記載されている。
サミルとルーフェンが、改めて調べ直してくれたものなのだろう。

 文字は読めなかったけれど、大事そうに書類を抱くと、トワリスはむせび泣いた。
涙をためた目を上げれば、サミルの後ろから、ルーフェンもこちらを見ている。

 目が合うと、ルーフェンは、持ってきた手燭を宮棚に置いてから、トワリスに向き直った。
そして、声に出さずに、「良かったね」とだけ唇を動かすと、目を細めて笑んだ。

 泣きつかれて、眠りに落ちるまで。
サミルは、ずっと背中を擦っていてくれたのだった。


To be continued....



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