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投稿日:2021年02月24日




†第三章†──人と獣の少女
第二話『憧憬どうけい


「こらぁーっ! いい加減になさい!」

 高らかなミュゼの怒鳴り声が聞こえたかと思うと、ふいに、何かがルーフェンの腰に突撃してきた。
思わずよろけて、その場に踏みとどまる。
ルーフェンは、腰にすがり付いてきたトワリスを認めると、後から険しい形相で長廊下を走ってきたミュゼを見て、事態を察したように苦笑いした。

「召喚師様! ちょっと、そこのお転婆をどうにかしてくださいな! 全く、風呂に入るだけで、どうしてこんなに時間がかかるんだか!」

 はあはあと息を切らせながら、ふくよかな身体を揺らして、ミュゼが追い付いてくる。
トワリスは、ルーフェンの背後に回って身を隠すと、顔だけ出して、ミュゼを睨みつけた。

「トワリスちゃん、お風呂には入らないと」

 湿った赤褐色の髪を見て、ルーフェンが告げる。
するとトワリスは、不満げな表情を浮かべて、ふるふると首を振った。

「違う! お風呂入ったのに、おばさんが、変な臭い油つけてきたから……!」

「臭い油……?」

 トワリスの言っている意味が分からず、ルーフェンが首をかしげる。
ミュゼは、深々とため息をつくと、ルーフェンに説明をした。

「臭い油だなんて、人聞きの悪い! 女性用の髪油ですよ。さあトワリスちゃん、さっさとこっちにいらっしゃい! そのみっともないぼさぼさの髪、私が綺麗に整えてあげるから」

「いらないっ!」

 ルーフェンの腰に一層しがみついて、トワリスが鼻に皺を寄せる。
唸り声を大きくして、ミュゼを威嚇するトワリスに、ルーフェンは苦笑を深めた。

 トワリスが、サミルの屋敷で暮らすようになって、約一月。
根気強く接し続けたおかげで、ようやく人を噛んだり、威嚇したりすることは少なくなったトワリスであったが、サミルとルーフェン以外の人間には、まだ慣れない様子であった。

 屋敷の家政婦であるミュゼに対しても、その反抗ぶりは顕著で、こうして身辺の世話をミュゼに頼む度に、トワリスは逃走してくる。
ミュゼも、普段は孤児院に勤めているだけあって、子供の扱いには長けているのだが、足の速いトワリスを捕まえるのは、流石に難しいようだった。

 ルーフェンは、トワリスの目線に合わせて屈みこむと、おかしそうに言った。

「ほら、牙剥いちゃ駄目だってば。唸るのも禁止」

 トワリスの唇に人差し指をあてて、落ち着くようになだめる。
トワリスは、ひとまず唸るのをやめたが、それでも警戒した様子で狼の耳を立て、ミュゼを睨んでいた。

 くすくすと笑いながら立ち上がると、ルーフェンは肩をすくめた。

「ミュゼさん、この子、鼻が利くから、香料が入ってるものは嫌みたい。とりあえず、丸洗いするだけにしてあげて」

「そ、そうは言いますけどねえ……」

 訝しげに口ごもって、ミュゼがトワリスを見る。
だが、頑なにルーフェンから離れようとしないトワリスを見て、これ以上問答を続けても埒が明かないと思ったのだろう。
やれやれと首を振ると、ミュゼは嘆息した。

「……分かりました、もう結構です。それなら、明日からは洗うだけにすると約束しますから、もう一度来なさい。まだお薬塗ってないでしょう」

「…………」

 厳しい口調で言われて、トワリスの耳がぴくりと揺れる。
露骨に嫌そうな表情になって、トワリスは、ルーフェンの服をぎゅっと握った。

 お薬、というのは、トワリスの全身に塗布している軟膏のことだ。
獣人の血が入っている故か、驚くほどの速さで回復しているトワリスであったが、画家、オルタ・クレバスに負わされた深い切り傷や火傷跡は、まだまだ癒えていない。
その治療の一つとして、毎日、軟膏を患部に塗っているのだ。

 最初の内は、ダナが治療を行っていたのだが、トワリスは、生まれた年から計算する限り、今年で十二歳である。
獣人は人間より成長が遅いのか、それとも、小柄で痩せているため、そう見えるだけなのか。
トワリスは、八、九歳くらいの少女のような姿をしていたが、それでも、一応は十二歳の娘なのだから、身辺の世話に関しては、女性がやった方が良いだろうという話になり、最近は、治療もミュゼに頼んでいるのだった。

 ルーフェンが軽く背を押すと、トワリスは、渋々といった様子でミュゼの元に行った。

「トワリスちゃん、ミュゼさんのこと、噛んじゃ駄目だよ」

「……噛まないもん」

 ぶすっとした顔つきで答えると、ルーフェンが、面白そうに笑みをこぼす。
それから、最後にミュゼの方を見やると、ルーフェンは手を振って、去っていったのだった。

 ルーフェンの後ろ姿をぼんやりと眺めていると、ミュゼが、肉厚な手でトワリスの手を握り、くいと引っ張ってきた。

「ほら、行くよ」

「…………」

 手を引かれて、来た長廊下を戻っていく。
二人は、一度屋敷の本邸から出ると、裏手にある使用人たちの宿舎へと向かった。



 中庭の小道を、引かれるままに歩きながら、すんすんと初夏の風を嗅ぐ。
レーシアス家の中庭は、あまり手入れされていないのか、伸びきった雑草が小道の所々に飛び出していた。
だが、そこから香る青臭さや、湿った土の匂いが、トワリスは嫌いではなかった。

 柔らかな陽光を受けて、朝露を光らせる潅木かんぼくの並びを通りすぎると、白壁の小さな宿舎が姿を現した。
レーシアス家に仕える独り身の使用人達は、この宿舎で寝泊まりしている者が大半だ。
トワリスもまた、サミルに引き取られてからは、ここで生活していた。

 といっても、トワリスは使用人ではないので、本来ならば、孤児院に送られるべきなのだろう。
それなのに送られないのは、やはり、獣人混じりであることを懸念されているに違いない。
サミルも、ルーフェンも、「君は獣人の血を引いているから」なんてことは一言も言わなかったし、彼らに限らず、レーシアス家の者は皆優しかった。
けれど、まだ人間らしい生活に慣れていないトワリスを、子供が多くいる孤児院にいきなり入れるのは、流石に不安だと思われているようだった。

 門を潜ろうとすると、ちょうど、夜番を終えたロンダートが、同じく宿舎に入ろうとしているところだった。
ロンダートは、ミュゼとトワリスに気づくと、ぴっと背筋を伸ばした。

「あっ、おはようございます!」

 おはよう、とミュゼが答えて、軽く会釈する。
体格の良いロンダートが、ミュゼに畏まっているのは、なんだか不思議な光景であったが、ミュゼはどうやら、一介の家政婦であるにも拘わらず、レーシアス家においてかなりの権力を持っている人間らしかった。
一見、屈強な自警団の男たちの方が強そうなのだが、この前ミュゼは、「今晩ご飯抜きにするよ!」の一言で、彼らを黙らせていた。
この屋敷で一番地位が高いはずのサミルとルーフェンも、ミュゼが本気で怒り出すと、言うことを聞く場合が多い。
おそらくミュゼは、レーシアス家で最強の生物なのだろう。

 まじまじと二人の顔を見上げていると、ロンダートがにやりと笑って、トワリスの顔を覗き込んできた。

「トワリスちゃんも、少し見ない内に、随分可愛らしくなったなぁ! 最初の方は、とんだ野猿だと思ってたけど。……あ、猿じゃなくて、人狼族なんだっけ?」

「…………」

 返事をせず、警戒したように一歩引く。
するとロンダートは、少し困ったように眉を下げた。

「あはは、やっぱり俺は駄目かぁ。サミル先生──じゃなくて、陛下と召喚師様には、べったりなのになぁ」

「まあ、あのお二人は甘いからね」

 嘆息して、ミュゼが諭すように言う。

「でも、トワリスちゃん。いくら優しくしてくれるからといって、陛下や召喚師様に気軽に会いに行ってはいけないよ。あの二人は、お忙しいんだから。サミルさんだの、ルーフェンさんだの、そんな呼び方をするのも駄目。ちゃんと、陛下と召喚師様ってお呼びするの。分かったかい?」

「…………」

「返事は?」

「……はい」

 素直にうなずくと、ミュゼは、ようやく満足したようだった。
そのやりとりを見ながら、けらけらと笑うと、ロンダートが口を開いた。

「いやぁ、でも、実際呼びづらいですよね。アーベリトが正式に王都になって、召喚師様がうちに来てから、もう二月くらい経つけど、俺も、未だにサミル先生のことを陛下って呼ぶのは慣れないですもん。世間がアーベリトを認めてくれたのは嬉しいけど、なんか、サミル先生が遠い存在になっちゃったみたいで、少し寂しいや」

 その言葉に、ミュゼは呆れたように答えた。

「なにを言ってるの。陛下は、即位なさる前から、立派な領主様だったでしょう。十分敬うべきお方でしたよ。ロンダート、あんたもいつまでも浮かれていないで、びしっとしな。特に召喚師様は、シュベルテから来たお方なんだから、アーベリトのゆるーい乗りで話しちゃ失礼よ」

「ははっ、ごもっとも」

 後頭部をぽりぽりと掻きながら、ロンダートは言った。

「召喚師様に関しては、俺ももうちょい、畏まらなきゃなぁって思ってるんですよ。話してみると案外気さくだから、ついこっちも気が緩んじゃうんですけど、あの人は、本当に天才だもん。まだ短期間だけど、一緒に仕事してて、改めてそう思いましたよ。あれで十五歳っていうんだから、恐ろしいよなぁ」

 しみじみと呟いたロンダートに、トワリスは、首を傾げた。

「てんさい……?」

「そう、天才。なんでもできちゃう、すごい人ってことさ。召喚師様に任せておけば、俺達なんていなくても、アーベリトは安泰だなぁって思っちゃうよ」

 苦笑しながら頷いて、ロンダートが答える。
その無責任な発言に、顔をしかめつつ、ミュゼも同調したように頷いた。

「確かに、このアーベリトが財政破綻を切り抜けられたのも、召喚師様とリオット族のお力が大きいしね。やっぱり、召喚師一族っていうのは、私達とは住んでる世界が違うんでしょう」

 盛り上がり始めたロンダートとミュゼの話を聞きながら、トワリスは、ふとルーフェンの姿を思い浮かべた。
雪のような銀の髪と瞳に、陶器のような白い肌。
どこをとっても人形のようで、その精巧さには、冬の湖面の如き冷たさすら感じるのに、いざ目が合うと、彼が浮かべるのは穏和な微笑で──。
あの笑みを思うと、なんだか胸の奥に、じんわりと温かいものが広がるのだった。

(ルーフェンさんって、そんなにすごい人なんだ……)

 息を乱して、地下の独房まで駆けつけてくれた、あの時の光景が蘇る。

 確かにルーフェンは、強くて優しい人なのだと思う。
どこか普通とは違う、神秘的な空気の持ち主だというのも分かる。
だがトワリスは、まだ会って間もないから、実際のところルーフェンがどんな人物なのか、よく分からなかった。

(住んでいる世界が、違う……?)

 ふいに、目の前を通りすぎた蝶が、花を探してひらひらと舞っている。
ミュゼの手を握ったまま、トワリスは、その様をじっと見つめていたのだった。


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