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投稿日:2021年02月24日







 治療を終え、ようやくミュゼから解放されると、トワリスは、再び屋敷の本邸へと訪れた。
少し前までは、ずっと寝台の上にいたのだが、今は、身体も十分動かせるようになったので、日中は自由にしている。
日によっては、食事の仕度や洗濯など、ミュゼの家政婦としての仕事を手伝うこともあったが、今日は何も言いつけられなかった。

 自由にしている、といっても、屋敷内をうろついたところでやることがなかったし、知らない人間と関わるのも躊躇われたので、行く場所は限られていた。
大抵、サミルかルーフェン、あるいはダナのところである。
なんとなく彼らを訪ねて、ただじっと、その仕事風景を眺めているだけであったが、それでも、包み込んでくれるような彼らの優しさに触れていると、なんだか安心できるのだった。

(……ルーフェンさんに、会いに行っちゃ駄目かな)

 先程、サミルやルーフェンには、気軽に会いに行くな、とミュゼに言われたことを思い出す。
確かに、ルーフェンたちはいつも忙しそうにしているし、頻繁に会いに行くのは、迷惑だろうかと思うときもあった。
だが、このまま屋敷内を探索していてもつまらないし、別に自分は、仕事の邪魔をしに行く訳ではない。
ただ、一人でいるより、信頼できる誰かと一緒にいたいだけなのだ。

 どうするか迷いながらも、結局トワリスは、図書室に向かっていた。
ルーフェンは大体、昼間は、執務室で事務仕事をしているか、図書室で調べものをしている。
しかし最近は、部屋の行き来をする余裕もないのか、図書室で調べものをしながら、その場で書類と睨み合いをしているのだ。
高確率で彼が図書室にいるということを、トワリスは知っていた。

 長廊下を進み、物音を立てないように、図書室の入り口に近づく。
そして、そっと扉を押し開くと、トワリスはその隙間から室内を覗いた。

 いつもなら、これだけでルーフェンが気づいて、声をかけてきてくれる。
だが今日は、トワリスが図書室に入っても、ルーフェンの声は聞こえてこなかった。

(執務室の方だったかな……)

 予想が外れたか、と踵を返す。
しかし、その時ふと、本棚の奥の机で、ルーフェンが俯いたまま椅子に座っているのを見つけた。
ルーフェンは、書きかけの書類を前に、眠っているようだった。

(寝てたから、私に気づかなかったんだ……)

 起こさないように静かに歩み寄って、ルーフェンの顔を覗き込む。
その顔は、やはり彫刻のように整っていて、微かに漏れる呼吸音でさえ、作り物めいていた。
しかし、よくみれば、その表情の奥には、疲れが滲んでいるようにも見える。
あるいは、長い白銀の睫毛が、目元に濃い陰を落として、それが隈のように見えたせいもあるのかもしれない。

 こんな風にルーフェンが眠っているところを見るなんて、初めてであった。
ルーフェンは、日中は外部に赴いたり、部屋で事務仕事をしているし、夜は、自警団の者たちと行動していたりする。
まだ出会って間もないけれど、ルーフェンがほとんど寝ずに生活していることは、なんとなく分かっていた。

(なんでもできちゃう、すごい人……)

 ロンダートは、ルーフェンをそう称して、彼に任せればアーベリトは安泰だ、と言っていた。
けれど、天才というものは、寝ずに働き続けても大丈夫なものなのだろうか。

 いつも穏やかに笑っていて、人前では疲れなんて微塵も見せていないように思えるルーフェンだったが、ふとした瞬間に、その表情が翳(かげ)る時がある。
ルーフェンと常に行動を共にしている者は少ないから、気づかれないのかもしれない。
だが、ルーフェンのそばにいることが多くなっていたトワリスは、最近、疲労の滲んだ彼の横顔を見ることが多くなっていた。

 トワリスは、しばらくの間、ルーフェンの寝顔をじっと見つめていた。
しかし、やがて、ルーフェンの向かいの席に腰かけると、積み上がっている書類の一枚を手に取った。

 ルーフェンを疲れさせている原因の一つは、これだ。
処理しても処理しても減らない、この大量の書類。
しかし、手に取ってみたところで、文字の読めないトワリスには、その書類に何が書かれているのか、さっぱり分からなかった。
横にしても、逆さまにしても、それは変わらない。
書類には、眺めていると頭がくらくらしてくるほどの、小さな文字がぎっしり並んでいた。

「……何してるの?」

 突然、ルーフェンに話しかけられて、びくりと目をあげる。
いつの間にか目を覚ましたであろうルーフェンは、眠気を払うように首を回してから、トワリスを見た。

「そんなの、見ても面白くないでしょ?」

 言って、トワリスから書類を取り上げようと、ルーフェンが手を伸ばしてくる。
けれど一瞬だけ、トワリスの様子を伺うように、その手が止まった。
その間に、自分から書類を手渡すと、ルーフェンはそれを受け取ってから、少し嬉しそうにトワリスの頭を撫でた。

 自分より高い位置から手を伸ばされると、思わず警戒してしまう癖は、近頃、ほとんどなくなりつつあった。
奴隷だった頃は、手が伸びてくると、次の瞬間には殴られたり、叩かれたりすることが日常だった。
だから、伸ばされた手には反射的に噛みついていたし、その癖のせいで、ルーフェンの腕を噛み跡だらけにしたこともある。
ルーフェンは、痛いことなどしてこないと理解した後も、その癖はなかなか消えず、しばらくは、手に対する怯えに悩まされたものだ。
もう一生、この癖は治らないのだろう、とさえ思っていたのだが、それでも、毎日優しく接してくれたサミルやルーフェンのおかげで、かなり改善されてきた。
手を握られるくらい、全く気にならなくなったし、頭を撫でられても平気になった。
今でも、急に触られたりすると身構えてしまうことはあったが、あれほど恐ろしかった手というものに、もう嫌悪感はなくなっていた。

「……お仕事、いつ終わるんですか?」

 さっきまで眠っていたのが嘘かのように、きびきびと書類整理を始めたルーフェンに、トワリスは尋ねた。
すると、ルーフェンは困ったように笑んで、冗談っぽく答えた。

「さあ? 俺が聞きたいくらいだね。余計な仕事を増やすシュベルテの連中に、文句でも言ってみようか?」

 ルーフェンは、くすくすと笑っていたが、トワリスは真剣だった。

「これ以上お仕事したら、ル……召喚師様、倒れちゃうと思います」

 強めの口調で言うと、ルーフェンが、少し驚いたように瞬く。
しかしそれは、トワリスが言ったことに対して、というよりは、召喚師様、と呼ばれたことに対して驚いているようだった。
これまでトワリスは、ルーフェンのことを、ルーフェンさん、と呼んでいたのだ。
急に呼び方を変えられて、不思議に思ったらしい。

 そのことを察すると、トワリスは、口の中で答えた。

「えっと……ミュゼおばさんが、ちゃんと、召喚師様って呼ばないと、駄目って言ってたから……」

「ああ、なるほど」

 納得したように頷いて、ルーフェンが肩をすくめる。
机にあった本を数冊持って、椅子から立ち上がると、ルーフェンは言った。

「ミュゼさん、真面目だからね。俺は別に、呼び方とか気にしないし、むしろ、名前で呼ばれる方が新鮮だなと思ってたんだけど。……まあでも、世間体を考えると、もう少しちゃんとした方が良いのかな。アーベリトは、確かに色々と緩いから」

 本棚に本を戻しながら、ルーフェンが苦笑する。
次いで、トワリスの方に振り返ると、ルーフェンは尋ねた。

「トワリスちゃんは、どっちの方が呼びやすい?」

「…………」

 迷った様子で視線を落として、トワリスが黙りこむ。
ややあって、顔をあげると、トワリスは躊躇いがちに答えた。

「……ルーフェンさん、のほうが慣れてたけど、ちゃんとした方が良いなら……召喚師様って呼びます」

「そう?」

 問い返されて、戸惑ったように口ごもる。
ルーフェンは、そんなトワリスの反応を面白がって、ひょいと眉を上げた。

「じゃあ、こうしようか。普段は名前で呼んで、ミュゼさんの前とか、ちゃんとした場では、召喚師の方で呼ぶの」

「……じゃあ、今は、ルーフェンさん?」

「うん、そう」

 ルーフェンは、微かに目を細めると、しーっと人差し指を唇に当てた。

「ばれたら、また怒られちゃうかもしれないから、名前で呼んでることは、秘密だよ?」

「……ひみつ?」

「そう、秘密。周りには言っちゃ駄目ってこと」

「……うん」

 トワリスがこくりと頷くと、ルーフェンは、再びおかしそうに笑って、席に戻ってきた。
それから、羽ペンを手に取ると、またいつものように書類と睨み合いを始める。
文字を目で追っては、何かを書き込み、次の書類を読んでは、また何かを書き込む。
ひたすらその作業を繰り返すルーフェンを、食い入るように見つめていると、ルーフェンは、どこかやりづらそうに眉を下げた。


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