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投稿日:2025年12月31日
不意に、ぎりっと歯を食い縛ると、ロンダートが独り言のように言った。
「……大丈夫、大丈夫だ。トワリスちゃんもハインツも、こんなに強いんだから……何とかなる。守るんだ、せめて、孤児院に避難した人達は」
そして、何かを決意したように目を見開くと、ロンダートは、トワリスをまっすぐに見た。
「もう少しだけ、時間稼ぎを頼めるか。すぐに戻る!」
そう口速に言って、ロンダートは、他の自警団員たちを引き連れ、大病院の方に駆けていく。
無理だと言っていたが、一か八か、動けそうな怪我人だけでも、魔法陣の外に運び出すつもりなのだろうか。
大病院に寝かされていた人々は、元々が衰弱しきっていた上に、化物に生命力を奪われて、助かる見込みのある者はいないように見えた。
それに、術式が刻まれているなら、魔法陣の領域外に出したって、おそらく意味はない。
けれどロンダートは、こんな絶望的な状況では、もう微かな可能性に賭けるしかないと思い直したのかもしれない。
実際、他にできることは、何もないのだ。
それならばトワリスも、時間稼ぎに徹しようと、覚悟を決めるしかなかった。
化物を傷つけず、自分達も致命傷を負わないように渡り合うのは、想像以上に過酷なことであった。
空を切って襲いかかってくる鎌のような爪と、鞭のようにしなる触手を避け、時には弾きながら、走り続ける。
実際にはほんの一瞬でも、トワリスとハインツにとっては、永遠の時間のように感じられた。
一つの動作をする度に、枷のようにまとわりつく疲労が、全身に蓄積されていく。
少しでも気を抜いたら、命を落とすかもしれない。
その緊張感だけが、トワリスとハインツの手足を動かし続けていたのであった。
化物の懐に潜り込んで、脚の動きを抑え込んでいたハインツは、不意に、触手に腕をとられて、地面に引きずり落とされた。
倒れたハインツを狙って、鋭く研ぎ澄まされた爪が、振り下ろされる。
身を硬くしたハインツだったが、しかし、その爪が、自身の肉体を貫くことはなかった。
素早く割り込んできたトワリスが、双剣を交差させて、爪を受け止めたのだ。
耐えきれぬ重さがのし掛かってきて、トワリスは、思わず膝をついた。
このままでは剣が折れると確信して、わずかに刃の向きを変えると、爪の軌道を地面へと反らす。
思惑通り、爪は地面に深々と突き刺さったが、次の瞬間、身体に巻き付いてきた触手が、弓なりにしなって、二人は絡めとられたまま、凄まじい勢いで吹っ飛ばされた。
ハインツは、咄嗟にトワリスの身体を守るように抱き寄せたが、あまりの速さに、受け身をとる余裕がなかった。
積み上がった瓦礫の山に、背中から突っ込んで、後頭部に脳が揺れるような衝撃が走る。
ハインツは、すぐに立ち上がろうとしたが、目を開いても、視界がぼんやりと暗く、手足がうまく動かなかった。
「──ハインツ!」
崩れて降ってきた瓦礫を押し退け、ハインツの腕から抜け出すと、トワリスは、慌てて彼の頬を軽く叩いた。
頭を強く打って、意識が朦朧としているのだろう。
指先が微かに動いているが、仮面越しに見た目の焦点が合っておらず、気を失いかけている様子であった。
化物の標的をハインツから外そうと、瓦礫の山から跳び出したトワリスは、しかし、地面に着地した途端、足がもつれて、その場で体勢を崩した。
よく見ると、右の太股から膝にかけて、深い切り傷ができている。
爪を受け流した時か、触手に吹っ飛ばされた時に、裂かれたのだろうか。
痛みは感じていなかったが、思うように力が入らず、身体が限界を訴えているようだった。
立てずにいると、伸びてきた触手が、トワリスの足を絡めとった。
弧を描くように、ぐんっと身体が吊り上げられる。
化物は、このままトワリスを地面に叩きつけて、殺す気なのだろう。
ハインツは気絶で済んだが、トワリスでは、受け身をとったところで、どうなるかなど想像に容易い。
トワリスは、必死に剣を振ろうとしたが、足に力が入らないせいで、触手が間合いに入らなかった。
ぎゅっと目を瞑って、死を覚悟した時。
地面に落とされると思っていたトワリスは、突然、空中に投げ出されて、はっと目を見開いた。
不意に、眼下を通りすぎた火の玉が、化物の背中の口に放り込まれていく。
不快そうに頭を振り、触手を震わせた化物は、背中の火を消そうと、身体をのけ反らせて暴れ回った。
「今だ! 火を嫌がっているぞ! 火をつけるんだ!」
ロンダートを含む、生き残っていた六人の自警団員たちが、松明を片手に走ってきて、化物を取り囲む。
彼らは、油を詰めた瓶や、火の玉──油を染み込ませた布を石に巻き、着火させたものを化物に投げつけると、襲ってきた脚や触手に松明を押し当て、一気に燃え上がらせた。
落下したトワリスは、宙で身を翻し、地面で横転して衝撃を逃すと、なんとか顔だけをあげた。
ロンダートたちが、松明を振りながら、化物を大病院のほうに誘導していく。
怪我人たちは、もう避難させたのだろうか。
歯を食い縛りながら、懸命に化物と対峙する彼らの顔には、色濃い恐怖が滲んでいたが、先刻のような、諦めの表情は浮かんでいなかった。
「怯むな、戦え! 戦え! 俺達がアーベリトを守るんだ!」
団員たちを鼓舞しながら、ロンダートが叫んだ。
「汚い奴隷のガキに、居場所をくれたのは誰だ! 盗みしか知らなかったろくでなしに、生き方を教えてくれたのは誰だ! サミル先生だ! 救われた命、今、ここで使わないでどうする……!」
ロンダートに応えるように、叫び声をあげながら、自警団員たちは、必死になって松明を振った。
付かず離れずの距離で、火を押し当ててくる団員たちに、化物は、蝿でも払うかのように、何度も何度も触手を振り回した。
自警団員たちは、時折迫ってくる爪さえも往なしながら、徐々に、徐々に、大病院の方へと進んでいく。
炎を嫌っているのもあったが、化物も、餌が豊富な大病院へと近づきたいようであった。
やがて、大病院の目の前まで来ると、ロンダート以外の自警団員たちが、持っていた松明を、槍のように化物に投げつけた。
燃え盛る炎が、油まみれの体表に着火して、みるみる広がっていく。
化物が、苦しげに身体をくねらせ、炎を消そうと大病院に突撃した、その時──。
トワリスは、ようやく、自警団員たちの狙いに気づいた。
「ロンダートさん……っ!」
喉を震わせ、大声で呼ぶと、一瞬、振り返ったロンダートと目が合った。
ロンダートは、いつもの調子でにっと笑うと、そのまま大病院の中に踏み込み、松明を投げ捨てる。
痛む脚を擦り、どうにかしてトワリスが立ち上がろうとした、その、次の瞬間。
突然、視界が白んだかと思うと、一拍遅れて、耳をつんざくような爆発音が鳴り響いた。
化物ごと、大病院が炎上し、もくもくと黒煙の柱が立ち上る。
自然発火の勢いではなかった。
つん、とした消毒液の匂いと、酒の匂いが漂ってきて、トワリスはその場にへたり込んだ。
ロンダートたちは、助かる見込みがないと判断した怪我人たちを、避難させてなどいなかった。
化物の糧となることを防ぐために、用意していた消毒液や酒を撒いて、建物ごと燃やしたのだ。
自分達を、囮に使って。
声にならない悲鳴をあげると、化物は、火だるまになってのたうち回った。
無茶苦茶に触手を動かし、周囲の瓦礫を手当たり次第に蹴散らしていくが、ついに、触手や脚が焼け落ち始めると、じたばたと痙攣するだけの蛹のようになった。
糧としていた人間がほとんど死んだためか、化物が、瞬時に身体を再生させることはなかった。
それでも、少しずつ、少しずつ、燃え爛れた体表を回復させようとしている。
まだ、大病院の中に、生きている人間がいるのだ。
トワリスは、剣を支えに立ち上がると、右足を引きずりながら、よろよろと大病院に近づいていった。
あと数歩といったところで、肺がひりつくような熱気に当てられ、思わず後ずさる。
大きく傾いた建物を包み込み、激しく踊るように揺れている炎が、苦しみ、悶えている人の姿にも見えた。
灰色の空を仰ぐと、トワリスは、肌が湿るような、微かな雨を感じた。
霧と変わらない、煙のような雨では、燃え盛る炎を消すことなどできない。
消したところで、どうなるというのか。
化物の食い物にされ、他に助かる道がないから、ロンダートは、逃げ延びた避難民のために、化物諸共消え去る選択をしたのだ。
ずるずると地面を擦るような音が聞こえて、振り返ると、トワリスのすぐ傍まで、化物が這い擦ってきていた。
炎は消えていたが、全身が煙をあげて燻り、脚や尾の一部は炭化している。
それでも、まだ再生しようとしているのか、ぎちぎちと鋏角を蠢かせて、トワリスのことを見ていた。
剣を構えようとしたトワリスは、その時初めて、自分が酸欠を起こしていることに気づいた。
知らず知らずの内に、煙を吸っていたのだろう。
呼吸をすると、喉が刺されるように痛んで、目の前がぐらっと揺らいだ。
トワリスが動けずにいると、不意に、足音が近づいてきて、人影が化物に突進した。──ハインツだ。
重々しい音と共に、化物が横倒しになり、しかし、その衝撃で、ハインツも地面に弾き跳ばされた。
背中の切り傷から、のろのろと血が溢れている。
トワリスは、目眩で倒れそうなところを踏み留まると、剣を両手で一本に持ち替え、渾身の魔力を込めた。
この化物には、もう再生するための糧がない。
ハインツも、トワリスも、これ以上は限界だ。
一撃で仕留められるかどうかは分からなかったが、やるしかなかった。
炎を灯した剣を、大きく振りかぶろうとした、その時だった。
突然、雲が不気味な光を孕んだかと思うと、視界が点滅して、雷鳴が轟いた。
「────っ!」
青白い閃光が目を灼き、トワリスとハインツは、反射的に腕で顔を覆った。
雷撃は一度ならず、二度、三度と迸り、見る間に化物を塵に変えていく。
間近で稲妻が大気を渡り、まるで生きた心地がしなかったが、魔力の膜にくるまれるようにして守られていたトワリスとハインツは、痛みも熱さも感じていなかった。
どのくらい蹲っていたのか。
ふと、名前を呼ばれて、トワリスは目を見開いた。
見慣れた銀髪が視界に入って、身体の芯がほぐれるような、安堵感が湧いてくる。
ルーフェンは、トワリスの右脚と、ハインツの背の傷に止血を施すと、言葉もなく、辺りの惨状を見回した。
もはや見知った面影はない。
一面、瓦礫の海と化したアーベリトを見渡し、それから、足元の魔法陣を見る。
誕生と死滅、再生と破壊、呪詛の魔語が延々と書き連ねられたそれらの術式を見れば、一体誰がこんなことをしたのか、ここで何があったのかは、なんとなく読み取れた。
次いで、未だ燃え盛る大病院のほうを見やると、座り込んでいるトワリスが、涙を押し殺したように言った。
「……ごめんなさい。シュベルテと、同じことが起きたんです。化物が出て、そいつが、魔力を得て回復してしまって。それで、ロンダートさんたちが……」
訥々と溢して、ぐっと唇を噛む。
ハインツは立ち上がると、ルーフェンをすがるように見た。
「……お願い、火、消して。まだ、生きているかも……」
そう言ったハインツの手が、細かに震えている。
ルーフェンは、再び炎に視線を移すと、しばらくの間、静かに黙っていた。
だが、ややあって、ルーフェンが手をかざすと、大病院を包んでいた炎は、収まるどころか、爆発して、更に燃え上がった。
うだるような熱風が髪を嬲り、トワリスとハインツは、思わず顔を背ける。
傾いたまま、なんとか持ちこたえていた大病院の屋根は、ついに、炎に飲まれ、ひしゃげて倒壊した。
トワリスとハインツが、ぞっとしたような面持ちでルーフェンを見ると、彼は、平坦な声で告げた。
「……ごめん。こうなったら、もうどうしようもないんだ。……本当に、ごめん」
謝罪を繰り返したルーフェンの表情は、座っていたトワリスからは、よく見えなかった。
ただ、大病院が黒く焼け爛れた残骸となり、崩れ去っていく様を、ルーフェンは、じっと見つめていた。
「……ルーフェンさん」
不意に、トワリスが口を開いた。
やっぱり、召喚術のことを知っていたんですか、と尋ねようとしたとき。
誰かが、背後から声をかけてきた。
「ああ、可哀想に……。死んでしまったのね……」
ルーフェンたちが、はっと振り返ると、気配もなくそこに佇んでいたのは、シルヴィア・シェイルハート──その人であった。
美しい銀髪を靡かせ、たおやかに歩み寄って、大輪の花の如き佇まいでそこに立つ。
シルヴィアは、煌々と燃える炎を前に、ふと、灰と化した化物の骸を見ると、ゆっくりと、その両腕を広げた。
「形を成すのは、まだ早かったのね。苦しかったでしょうに……。でも大丈夫、貴方は何にでもなれるのよ。さあ、こちらにおいで、おいで……」
一体シルヴィアが何を言っているのか分からず、トワリスたちは、眉を潜めた。
しかし、問う間もなく、目の前で起きたことに、絶句することになる。
化物の骸が溶け出し、黒々とした液体になると、それが、赤子の泣き声を発しながら、シルヴィアに向かって這い出したのだ。
それは最初、陸に打ち上げられたオタマジャクシのような姿で、地面をうねるようにして這っていた。
だが、やがて、イモリのように四肢を生やし、最終的には、人間の赤子のような形に変わると、シルヴィアの足元に辿り着いた。
「さあ、こっちに来て。可愛い、可愛い私の子……。ふふ、貴方の名前は何にしようかしら」
シルヴィアは膝をつくと、しゃくりあげる子供のようなそれを、愛おしそうに抱き締めた。
「そうね……アガレス。貴方の名前は、アガレスにしましょう。私たちは代々、一番目のバアルを継いでいるから、貴方は、二番目のアガレスよ」
言いながら、とんとんと子供の背を叩いて、シルヴィアは、あやすように耳元で囁いた。
「もう泣かないで、大丈夫よ。ほら、よく集中して、感覚を研ぎ澄ませるの。この魔法陣の上には、まだ沢山の人間がいるわ。死にかけて、弱った人間がちょうどいいわね」
シルヴィアの言葉に呼応するかのように、足元の魔法陣が鈍く光って、あの凍てついた魔力が、街中からシルヴィアの元へ集まってくる。
同時に、身体に刻まれた魔語が、再び痛みを伴って、トワリスとハインツは呻き声をあげた。
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