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投稿日:2021年02月24日





「……そんなに見つめられたら、俺、穴空いちゃうよ」

「え!?」

 途端、真っ青になったトワリスに、思わずルーフェンが吹き出す。
急いで手を顔の前で振ると、ルーフェンは謝った。

「いや、ごめん。今のは、言葉の綾ってやつだけど。そんなに見つめられたら、落ち着かないよって意味」

「……す、すみません」

 視線をルーフェンから外して、トワリスが俯く。
ルーフェンは、手元の書類を一瞥してから、トワリスのほう見た。

「さっきも書類を見てたけど、なんか気になることでもあるの?」

「…………」

 言葉がうまく見つからないのか、もごもごと口を動かしながら、トワリスは下を向いている。
ルーフェンは、頬杖をつくと、空いている手でペラペラと書類を振って見せた。

「本当、面白いものじゃないよ。ただの報告書だもん」

「報告……?」

 首を傾げて、トワリスが聞き返す。
ルーフェンは首肯すると、持っていた報告書を、処理済みの山に適当に放った。

「シュベルテの魔導師たちが、この地域でこんな事件がありましたよーって報告してくるから、俺はそれを読んで、分かりましたって署名してるんだよ」

「署名、してる……」

 繰り返し呟いて、トワリスは、何やら考え込むように目を伏せた。
それから、ルーフェンの顔をじっと見つめると、口を開いた。

「……名前、書けたら、そのお仕事、私にもできますか?」

 思わぬ質問に、ルーフェンが目を見開く。
少し困ったように笑って、ルーフェンは言った。

「……どう、かな。ただ名前を書くだけ、ってわけでもないから。だけど、トワリスちゃんだって、文字を覚えれば、名前を書いたり、文を読んだりすることは出来るようになるよ。……やってみる?」

「……うん」

 返事をすると、ルーフェンは引き出しから新しい羽ペンを取り出して、トワリスに渡した。
そして、古い処理済みの報告書の中から、適当にいらない用紙を引っ張り出すと、自分の羽ペンを握って、それをインク壺に浸した。

「じゃあ、まずは名前からね」

 言いながら、壺の縁で余計なインクを落とすと、ルーフェンは、さらさらと紙に文字を書き出した。
手の動きに合わせて、紙面に綺麗な黒い線が走る様は、それこそ魔術のようで、トワリスは息をするのも忘れて、じっと眺めていた。

 書き終わると、ルーフェンは、その紙をトワリスに向けた。

「はい。これが、トワリスちゃんの名前ね。左から、ト、ワ、リ、ス」

「名前……」

 しみじみと呟くトワリスに、にこりと笑みを浮かべると、ルーフェンは、別の紙とインク壺を、トワリスの前に置いた。

「真似して、書いてごらん。最初は上手く書けないかもしれないけど、焦らなくていいから」

 こくりと頷いてから、意を決して、羽ペンを握る。
しかし、その瞬間、手の中でばきっと音がして、トワリスは硬直した。
恐る恐る手を開くと、羽ペンは、掌の中で真っ二つに折れていた。

「…………」

 動かなくなったトワリスに、ルーフェンがぷっと笑う。
再び新しい羽ペンをトワリスに渡すと、ルーフェンは優しい口調で言った。

「ちょっと強く握りすぎかな。そんなに力まなくても、文字は書けるから」

 ごめんなさい、と一言謝罪して、今度は、やんわりと羽ペンを握る。
そして、インク壺にペン先を浸すと、ルーフェンの真似をして、縁で余分なインクを落とした。
だが、いざ書こうとすると、ぼたっと紙面にインクが垂れる。
落ちたインクの水溜まりは、あっという間に広がって、紙を真っ黒に汚してしまった。

 それでも諦めず、ルーフェンが書いてくれた手本を見ながら、一生懸命羽ペンを動かす。
しかし、ペンは紙面でつっかかってうまく動かないし、書いた文字はじわじわとにじんで、文字というよりは、なんだか気味の悪い模様のような代物が出来上がった。
次は、インクをあまりつけずに試してみたが、そうしたら文字は掠れるし、おまけに大きさもばらばらで、不揃いだ。
何度やっても、ルーフェンのような綺麗な黒い線が書けないので、だんだん悲しくなってきた。

 ルーフェンは、事務仕事を再開しながら、しばらくは、悪戦苦闘するトワリスを眺めていた。
しかし、徐々にトワリスの目に涙がたまってくると、苦笑しながら席を立った。

「焦らなくて大丈夫だってば。今日が初めてなんだし」

 トワリスの後ろに回って、ルーフェンが背後から手を伸ばす。
羽ペンを握るトワリスの手に、自分の手を重ねると、ルーフェンはペン先の動きを導いた。

「ペンを握るときも、書くときも、もっと軽い力でいいよ。こうやって、紙面を撫でるみたいに書くんだ」

「…………」

 説明を飲み込もうとしているのに、ルーフェンに手を握られた途端、急に緊張してきて、心臓がどくどくと脈打ち出した。
必死に集中しなければ、と思うのだが、一回り大きい、ひんやりとしたルーフェンの手の感触が気になって、それどころではない。
匂いや声が近くて、振り向いたらぶつかってしまうくらい、すぐ後ろにルーフェンがいる。
今までは、そんなこと気にならなかったのに、いざ意識し出すと、突然胸の中が落ち着かなくなってしまった。

「……トワリスちゃん? 聞いてる?」

 いきなりルーフェンに顔を覗き込まれて、かっと頬に血が昇る。
羽ペンを持ったまま、勢いよく椅子から飛び退くと、トワリスは床に転げ落ちた。

「だ、大丈夫?」

 トワリスの突然の行動に驚いて、ルーフェンが瞠目する。
トワリスは、慌てて立ち上がると、ルーフェンから目をそらしたまま、小さな声で言った。

「あ、あの……もう、いいです」

「え?」

 聞こえなかったのか、ルーフェンが問い返して、一歩近づいてくる。
トワリスは、素早く机上の書き損じた紙と、ルーフェンが書いてくれた手本を取ると、それを胸に抱いて、か細い声で続けた。

「お仕事の、邪魔になっちゃいますし、いいです……。名前、書けるようになるまで、一人で練習します……」

 それだけ言うと、まるで逃げるように図書室から走り出す。
ルーフェンは、ぽかんとしてその様を見ていたが、出ていったトワリスを、追いかけることはしなかった。
というより、追いかけたところで、捕まえるのは至難の業だろう。
手のかかる妹を抱えたような気分で、ルーフェンは、肩をすくめたのだった。


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