トップページへ
目次選択へ
投稿日:2025年12月31日
少し経つと、地下牢は、いつも通りの静寂に包まれた。
徐々に重くなっていく瞼に逆らわず、シルヴィアは、ゆっくりと瞑目する。
深い疲れが、闇の底から手招きをして、夢の世界へと誘っているようだった。
こうして、地下牢で微睡んで過ごしている間、シルヴィアは、ずっとルーフェンのことを考えていた。
彼は、母親を殺すとき、一体どんな顔をするのだろう。
母譲りの顔を歪め、思い切り、その胸に刃を突き立てる。
そんな息子の、深い憎しみの表情を最期に見ながら、自分は死んでいくのだ。
そう考えると、心がすうっと楽になるからだ。
しかし、想像しようとしても、もう、ルーフェンの顔は思い浮かばなかった。
トワリスが言ったように、本当は、ルーフェンの顔など見ていない。
ルーフェンもまた、母の顔など見ていなかったのだろう
彼は、憎しみをシルヴィアに向けていたが、見ていたのは、いつだって別のものだった。
シルヴィアと対峙する時、ルーフェンが見つめていたのは、その足元で、母が踏みつけにしてきた者達だったのだ。
(疲れたなぁ……)
ふう、と吐息をつくと、身体が軽くなった。
自分を見てくれる者は、もういない。
そう思うと、鋭い寂しさが突き上げてきたが、這い上がってきた眠気に身を任せると、そんな寂しさも、どうでもよくなってしまった。
真っ暗な視界の向こうから、無数に伸びてきた手が、全身に纏わりついてくる。
その力に従うと、身体が水中に引きずり込まれたかのように沈んで、シルヴィアは、闇の底へと落ちていった。
トワリスに殴られた頬だけが、微かな痛みを伴って、シルヴィアの意識を繋ぎ止めていた。
傷の治りが、遅くなっている。
もうすぐそこまで、終わりが近づいてきている証拠だった。
不意に、甘い花の香りがして、シルヴィアは目を開いた。
花弁を乗せた風が、ひゅうっと吹き抜けていく。
視界一杯に広がる、色とりどりの花。
そこは、シルヴィアが人生の大半を過ごした、離宮前の庭園であった。
「母上、足元に注意してくださいね」
不意に、下から声がして、シルヴィアは視線を落とした。
まだ、十歳になっているか、いないかといったくらいの黒髪の少年が、シルヴィアの手を握っている。
シルヴィアの一人目の息子──ルイスだった。
「母上! 早くこちらへ来てください! ほらアレイド、お前もぐずぐずするな!」
「あっ、待ってよぉ、兄上……!」
前を向くと、二番目の息子リュートと、四番目の息子アレイドが、ルイスの先を走っていた。
転んだアレイドを、引っ張りあげるようにして、リュートが立ち上がらせている。
騒がしい二人を注意してから、ルイスは、シルヴィアのほうに振り返った。
「申し訳ありません、母上。二人とも、はしゃいでいるのです。今日のためにと、リュートもアレイドも、毎日頑張ってきましたから……」
言いながら、ルイスに手を引かれて、シルヴィアは歩き出した。
鮮やかな花々が、さわさわと風に揺れて、シルヴィアたちを見送っている。
握ってくる手の温もりを感じながら、シルヴィアは、花園に伸びる一本道を、ゆっくりと進んでいった。
「……母上、覚えていらっしゃいますか? 前に、白い薔薇を見てみたいと仰っていたでしょう。実は、庭師に教えを乞うて、空いた花壇を使い、私達でこっそり苗を植えたのです」
心なしか、期待しているような表情を浮かべて、ルイスは語った。
「アレイドが水をやりすぎて、一度枯らしかけたのですが……なんとか持ち直して、ついに今朝、早咲きのものが一輪咲いたのです。私は、満開の時期になってから母上に知らせようと言ったのですが、リュートが、どうしても今日見せたいと言って、聞かなくて……」
「…………」
「でも、とても立派な一輪です。きっと母上も、気に入ってくださると思いますよ」
そう言うと、ルイスは、頬を紅潮させて、嬉しそうに笑った。
「──……」
不意に、涙がこぼれた。
胸が詰まって、止めどなく、ぽろぽろと溢れてくる。
気づけばシルヴィアは、嗚咽を漏らして、子供のように泣きじゃくりながら歩いていた。
ふと、誰かに呼び止められて、シルヴィアは振り返った。
庭園の向こうで、小さな人影が叫んでいる。
月光を溶かし込んだような銀髪と、銀の瞳。
自分譲りの容貌の少年が、こちらを見て、強く何かを訴えかけていた。
シルヴィアは、その少年の言葉を聞こうとしたが、風と花のざわめきが邪魔をして、声が届かなかった。
唇を読もうとしても、涙に濡れた視界では、その姿がぼやけて、よく見えない。
身を翻して、少年の元に行こうとすると、ルイスが、引き留めるように、握る手に力を込めた。
「母上、どこへ行くのですか……?」
不安げな面持ちで、ルイスがこちらを見ている。
同時に、駆け戻ってきたリュートとアレイドが、シルヴィアの腰に、ぎゅうっと抱きついた。
「見てください、母上! 白い薔薇が咲いたのです」
「僕達で毎日お世話をしました、ほら、あそこです!」
アレイドが指差した先──そこに視線を移したシルヴィアは、思わず慄いて、大きく目を見開いた。
それは、白い薔薇が咲く、花壇などではなかった。
ぽっかりと地に空いた穴から、灼熱の業火を噴き上げる、地獄への入口だったのだ。
子供達が、強くしがみついてきて、動かぬ目で、シルヴィアを見上げた。
「母上……私達のこと、捨てたりしませんよね……?」
地獄の口から、真っ赤な溶岩が迸って、じりじりと庭園を焼いていく。
巻き上がった熱風で、焦げて灰になった花々が、黒蝶のようにふわふわと舞い上がった。
シルヴィアは──笑みを浮かべた。
すがり付いてくる子供達を抱きしめて、立ち上がると、少年の方に振り向いた。
「……こっちに来ないで。どこかへ行って」
地面にひびが入り、崩れ落ちていった草木が、逃げる術もなく、暗闇へと吸い込まれていく。
土に深く張った根のように、身体を縛る子供達の背を撫でながら、シルヴィアは続けた。
「……私はやっぱり、貴方のことを愛せない。だって、貴方を見ていると、締め付けられように、胸が苦しくなるの……」
涙を拭って、シルヴィアは、少年に手を振った。
「……さようなら。貴方を愛してくれる人のところに、帰りなさい。今度こそ、本当にさようなら……」
飛び散った火の粉が皮膚を焼き、うねる熱線が長い銀髪を焦がす。
ふと見ると、シルヴィアを引き留めていた子供達は、陽炎のように立ち昇って、跡形もなく消えていた。
もう一度だけ、シルヴィアは振り返った。
銀髪の少年は、いなくなっていた。
紅蓮の炎が、手招くように揺れている。
シルヴィアは、そっと目を閉じると、その中を、ゆっくりと下って行ったのだった。
- 144 -
🔖しおりを挟む
👏拍手を送る
前ページへ 次ページへ
目次選択へ
(総ページ数148)