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投稿日:2021年02月24日
図書室を後にしたトワリスは、人目につかない宿舎に戻ろうと、吹き抜けの長廊下を駆けていた。
文字を教えてほしい、と頼んだのは自分だが、せめて名前くらいは、整った文字で書けるようになるまで、ルーフェンの元に戻りたくなかった。
下手くそな文字を見られるのは恥ずかしかったし、あんな風に近くで教えられていたら、緊張で心臓が口から飛び出してしまう。
長廊下の角に差し掛かったとき、前から歩いてきた人影に気づくと、トワリスは慌てて足を止めた。
やって来たのは、サミルとダナである。
サミルは、飛び出してきたトワリスを咄嗟に受け止めようとして、しかし、彼女が上手く立ち止まったのを認めると、ほっと息を吐いた。
「おやおや、どうしたんです。そんなに真っ黒な姿で」
言われて初めて、自分の全身を見てみる。
今まで気づかなかったが、トワリスの腕や服には、所々インクが付着していた。
まだ乾いていない、書き損じの紙を抱き締めて走ってきたため、いつの間にか、インクが服に移ってしまったようだ。
サミルは屈みこむと、袖でトワリスの腕についたインクを拭って、苦笑した。
「文字の練習をしていたんですか?」
トワリスが持っている用紙を見て、サミルが問いかけてくる。
頷いた後、紙を差し出すと、トワリスは尋ねた。
「……サミルさんも、文字、書けますか?」
「ええ、書けますよ」
朗らかに答えたサミルに、トワリスが表情を明るくする。
サミルも文字を書けるなら、他の者達の名前の綴りも、今ここで教えてもらおうと考え付いたのだ。
折角練習するのだから、自分の名前だけではなくて、ルーフェンやサミルの名前も書けるようになりたい。
しかし、トワリスがお願いをする前に、走り寄ってきた使用人の一人が、サミルに声をかけた。
「失礼いたします、陛下。セントランスから、目通りを願いたいと言う者が」
「ああ、はい。分かりました……」
振り返って、サミルが立ち上がる。
サミルは、申し訳なさそうに眉を下げると、トワリスの肩にぽんと手を置いた。
「すみません、また今度お話しましょう。名前、書けるようになったら、是非見せてくださいね」
「……はい」
差し出した紙を引っ込めて、トワリスが首肯する。
サミルは、ダナとトワリスをそれぞれ見やってから、使用人を連れ立って、早々に歩いていってしまった。
不満げに眉を寄せて、サミルを見送っていると、苦笑したダナが、トワリスの近くに寄ってきた。
「どれ、トワリス嬢。文字ならわしが教えてあげよう。それとも、サミル坊にしか頼めないお願いでもあったかい?」
「…………」
黙ったまま、じーっとダナの顔を見上げる。
少ししてから、ふるふると首を横に振ると、トワリスはダナの袖をくいっと握った。
「……ダナさんも、文字、書ける? ルーフェンさんとか、サミルさんとか、ダナさんの名前の書き方も、教えてほしいです」
ダナは、微笑ましそうに顔を緩ませて、頷いた。
「ああ、良いとも」
懐から手帳と鉛筆を取り出して、ダナがルーフェンたちの名前を書いてくれる。
その字は、ルーフェンのものとはまた違う、勢いのある特徴的な字であったが、その闊達(かったつ)さが、なんともダナらしいと思えた。
「ほれ、こっちがサミル坊。こっちが、召喚師様の名前、最後がわしの名前じゃよ」
破られた手帳の用紙を受け取って、三人の名前をまじまじと見つめる。
サミル・レーシアス、ルーフェン・シェイルハート、ダナ・ガートン。
三人とも姓があるので、トワリスの名前よりも、ずっと多くの文字が並んでいる。
小さくため息をつくと、トワリスは不安げに呟いた。
「私、文字、書けるようになるかな……」
ほほほ、と笑って、ダナが答える。
「なーに、読み書きなんてのは、慣れじゃよ。きっとすぐに書けるようになるさ」
「……でも、さっき図書室で練習したけど、全然上手に書けませんでした」
唇を尖らせて、トワリスは俯いた。
「折角ルーフェンさんが教えてくれたのに、なんか……急に緊張してきて、胸がばくばくして、集中できなかったから……。私、文字書くの、向いてないのかなって……」
「…………」
つかの間沈黙して、ダナが瞬く。
やがて、ぶほっと吹き出すと、ダナはトワリスの髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「そうかそうか、トワリス嬢は、おませさんだのう。……いや、十二というと、そういう年頃か」
訝しげに眉を潜めて、トワリスが首を傾げる。
ダナは、何でもない、という風にもう一度笑った。
「じゃが確かに、無理矢理早く覚えようとしても、つまらんだろう。わしが子供の頃なんかは、絵本を読みながら覚えとったがの」
「絵本?」
「そう。子供向けの物語だよ」
ダナは、懐かしそうに目を細めた。
「わしが子供の頃の話だから、もう何十年も前の話になってしまうが、『創世伝記』という絵本が流行っておってな。『導き蝶』と呼ばれる不思議な蝶を引き連れた男が、暗雲立ち込める終わりの世を旅し、やがて、地の底に眠る再生の竜を呼び覚まし、世界を救う、という……まあ、今思えばありきたりな物語なんじゃが、当時の子供たちは夢中になって読んだものだよ。わしもその一人だったからのう、続きが気になって読む内に、いつの間にか文字なんて覚えておったわい」
「…………」
嬉しそうに語るダナを眺めながら、トワリスは、ルーフェンが扱っていた難しそうな書類の文字列を思い浮かべた。
別に絵本に興味がないわけではないが、子供向けの物語なんて読んでいても、きっとあの書類は読めるようにならないだろう。
不満げに眉を寄せると、トワリスは言った。
「……でも私は、絵本なんかより、もっと難しい文章も、早く読み書きできるようになりたいです」
意図を問うように、ダナが眉を上げる。
トワリスは、ダナを見つめて、袖を握る手に力を込めた。
「私、ルーフェンさんや、サミルさんのお仕事、お手伝いしたい」
ダナの目が、微かに大きくなる。
トワリスは、サミルが去っていった方向に視線を動かした。
「皆が二人のことを頼りにしていて、きっと、ルーフェンさんやサミルさんは、本当にすごい人たちなのだと思います。でも、なんだか最近、とっても疲れた顔してる……。私、二人に助けてもらったから、どうやったら恩返しできるか、ずっと考えていました。でも今の私じゃ、何も出来ないから、まずは、早く読み書きできるようになって……ルーフェンさんのお仕事、お手伝いしたいんです」
「…………」
ダナは、しばらく黙って、トワリスのことを見つめていた。
だが、少し悲しそうに眉を下げると、しゃがみこんで、トワリスと目線を合わせた。
「……お前さんは、よく見てるのう」
言ってから、一度言葉を止める。
ダナは、少し迷ったように口ごもってから、再度唇を開いた。
「……サミル坊はな。今でこそ古参の医師だが、昔っから、緊張するとすぐ腹を壊すような若造だった。召喚師様も、まだほんの十五歳じゃ。いかに突出した才能を持っていようとも、たった二人で支えきれるほど、国の中心なんてもんは、軽くない」
小さく嘆息して、ダナは続けた。
「それでも、アーベリトを王都にしたのは、二人が選んだ道じゃ。自分達で選んだのだから、多少は無理もするじゃろうて。わしらは、その無理が祟らんように、しっかり見ていてやろうな」
「……うん」
自分のやろうとしていることが認められた気がして、トワリスは、心なしか顔つきを明るくした。
何も出来ない奴隷身分だった自分が、国を背負って立つルーフェンたちを手助けしようなんて、おこがましいと否定されるかもしれないと思っていたからだ。
確かに、ミュゼやロンダートが言うように、自分とルーフェンたちとでは、住む世界が違うのかもしれない。
でも、だからといって、何の力にもなれないわけではないはずである。
ぽんぽんとダナに頭を撫でられて、トワリスは、嬉しそうに目を細めたのだった。
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