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投稿日:2021年02月24日
* * *
夏から秋になる頃には、トワリスもレーシアス家に馴染み、ほとんどの使用人たちと顔見知りになっていた。
王都となり、かつてないほどの賑わいを見せるようになったアーベリト。
王宮と呼ぶにはふさわしくない、小さなレーシアス家の屋敷には、トワリスが来た頃よりもずっと多くの人間が出入りするようになっていたが、それでも、深刻な人手不足は相変わらずであった。
アーベリトには、政に精通する者が少なく、武力面でも、小規模な自警団が存在するだけなのである。
必要最低限の人材は、シュベルテやハーフェルンからも引き入れたが、それ以上の介入を、ルーフェンは決して認めていなかった。
他所では、未だアーベリトの台頭を良く思っていない者が多く、また、イシュカル教徒の不穏な動きも活発化していたからだ。
リオット族の地位を向上させ、アーベリトを王都としたルーフェンの強引な政策は、称賛を得る一方で、反感を買っているのも確かであった。
その動きは、特にシュベルテで顕著であり、アーベリトや召喚師への不信感を募らせていく者は、水面下で増えているようであった。
シュベルテやハーフェルンとは、協力体制をとっているとはいえ、このような状況下で、外部の者を引き入れたくない。
そんなルーフェンの考えを、レーシアス家の者達は理解していたし、サミルやルーフェンの決定に、反論する者はいなかった。
しかし、独力で国の基盤となっていくには、やはりアーベリトの人間たちだけでは、力不足なのであった。
目まぐるしく過ぎていく日々の中で、トワリスも、レーシアス家の一員として、忙しない生活を送っていた。
朝早くに起きて、ミュゼと共に屋敷内の家事全般を行うのが、最近のトワリスの仕事だ。
最初は、家事なんかより、直接サミルやルーフェンの仕事を手伝いたいと思っていたが、“家事なんか”という認識が、そもそも間違っていることに気づいた。
ミュゼを含む使用人たちが、身の回りの世話をしなければ、おそらくルーフェンたちは死ぬだろう、というくらい、彼らには生活力がなかったのである。
身分からして家事なんてしたことがないとか、時間がないことも原因の一つであろうが、特にルーフェンは、放っておくと食事も忘れるし、しょっちゅう積み重なった本の中で寝ている。
折角片付けてあげた部屋を、たった一晩で元通りにされた時は、流石に腹が立ったものだ。
屋敷の者達は、「召喚師様はお忙しいから仕方がない」と苦笑していたが、トワリスは、納得がいかなかった。
サミルや自警団の者達は、徹夜ばかりしている点を除けば、まだまともな生活を送っていた。
しかし、ルーフェンに関しては、本当にひどかったのである。
とはいえ、一方的に世話になっているだけだった自分が、役に立てていることは嬉しかった。
ただ、偉くてすごい人なのだろう、としか認識していなかったルーフェンが、実は生活能力が皆無だったと知って、少し安心したような気もする。
それに、働くことで屋敷の者たちが褒めてくれると、今まで経験したことがない、やりがいというものを感じたのだった。
朝から晩まで働いて、沢山の仕事を覚えていく内に、いつしか、奴隷だった頃の記憶は、トワリスの中で薄くなっていった。
それでも、夢見の悪い夜には、当時の鮮烈な痛みが蘇ることがある。
背中に残る奴隷印と同様に、その痛みを完全に消し去ることはできないのだろうし、今でも、真っ暗な空間にいるのは苦手だ。
耐え難い恐怖に襲われて、声を押し殺し、寝台の中で泣くこともあった。
長い時間泣いて、それでも寝付けないときは、サミルやルーフェンに会いに行くと、自然と気分が晴れる。
彼らは、トワリスが来れば、泣いていた理由など尋ねず、ただ気が紛れるようにと、様々な話を聞かせてくれたのだった。
空いた時間に勉強していく内に、文字の読み書きや、計算もできるようになった。
普段、ルーフェンが調べものをするときに使うような分厚い本は、知らない単語ばかり出てくるので、まだ読めなかったが、ダナが貸してくれた絵本はもうすらすらと読めるようになったし、他にも、街道に並ぶ店が何を売っているのか、いくらで売っているのか、そんなことも分かるようになった。
最初は、ただ模様が記されているだけのように見えた魔導書だって、簡単なものなら、理解できるようになった。
獣人の血が入っている故か、自分には少しの魔力しか備わっていない。
そう分かった後でも、世の万物を掌上で操る魔術の世界には、心動かされた。
半獣人の子供がレーシアス家にいるらしい、という噂は、既に街全体に広がっていて、時々ルーフェンやダナについて屋敷を出ると、道行く人に注目されることもあった。
皆、トワリスの狼の耳を見ると、興味津々といった様子で声をかけてきたが、それは決して侮蔑の眼差しなどではなかったので、怖いとは思わなかった。
それにトワリスは、街に下りるのが好きだった。
文字が読めるようになってからは、店先の看板を眺めるだけでも面白かったし、人混みは苦手だったが、人々の楽しげな雰囲気に触れるのは、嫌ではなかったのだ。
露店に並ぶ綺麗な装飾品や、繊細な刺繍が施された服にも、興味を引かれた。
欲しいわけではなかったので、気づかれないように、こっそり横目で眺めるだけであったが、それでも十分、幸せな気持ちになれたのだった。
そんなトワリスの穏やかな毎日に、翳りが差したのは、朱色に染まった木立の葉が、はらはらと落ち始めた時期であった。
夜もどっぷりと更けた頃、不意に目が覚めたトワリスは、水を飲もうと寝台から出た。
水甕は、使用人たち共有の洗い場にある。
トワリスは、宮棚にある手燭を持つと、寝室を出て、洗い場のある一階へと向かった。
普段は見慣れた通路、部屋でも、夜の闇に沈むと、なんとも不気味に感じるものである。
トワリスは、足早に廊下を抜けると、洗い場へと入って、柄杓で水甕の水をすくって飲んだ。
この時期の水は、つーんと歯が痺れてしまうくらい冷たい。
冬になれば、もしかしたら貯め水なんて、あっという間に凍ってしまうかもしれない。
そんなことを考えながら、トワリスは、そっと水甕の蓋を閉じた。
──その時だった。
不意に、どこからか、何かがどさりと倒れるような音がした。
硬いもの同士がぶつかるような、無機質な音ではない。
どこか生々しく、そして、耳の良いトワリスでなければ、聞き逃してしまいそうなほど微かな音だ。
思わずびくりと肩を震わせて、トワリスは顔をあげた。
真夜中であろうとも、夜番の自警団員たちは、屋敷を見回っている。
だから、物音がするくらい、珍しいことではなかったのだが、それでも、何か嫌な予感を覚えたのは、濃い血臭が鼻をついたからだろう。
恐る恐る洗い場を出て、物音がした方へと、廊下を歩いていく。
やがて、宿舎の玄関口まで来ると、トワリスは、自警団員の男が床に倒れているのを見つけた。
うつ伏せになっていたので、はっきりと誰なのかは伺えない。
だが、レーシアス家に仕える自警団員である以上、顔くらいは見たことがあるはずだ。
きっと、先程の音は、この男が倒れたときの音だろう。
「お、おじさん……?」
小さく声をかけてみるも、男はぴくりとも反応しない。
呑気に寝ている訳ではないことくらい、男から発せられる濃厚な死の臭いで、すぐに分かった。
「どうしたの……? 大丈夫、ですか……?」
手燭を床に置き、ゆっくりと手を伸ばして、男の肩に触れる。
揺すろうとして、しかし、手に生暖かい液体が付着した瞬間、トワリスは腰を抜かした。
──血だ。
男は、肩口から腰にかけて、背を斬られていたのである。
背筋が、すうっと冷たくなった。
自分の手にべったりとこびりついた鮮血に、トワリスの身体が、がたがたと震え始める。
死んで捨てられた奴隷なら、見たことがあった。
けれど、こんなにも近くで、死んで間もない人間を見たのは初めてだ。
混乱する頭を整理する間もなく、扉の脇から、誰かが廊下に踏み入ってきた。
口元を布で覆った、全身黒装束の男だ。
男は、硬直してへたり込んでいるトワリスを見ると、 持っていた刃を、トワリスの喉元に突きつけた。
「……サミル・レーシアスはどこだ」
「…………」
首の皮が裂けて、ぷくりと血が垂れる。
動くことも、口を開くこともできず、トワリスは、ただ速くなっていく自分の呼吸音を聞いていた。
押し当てられた刃に、一瞬、昔に戻ったのかと思った。
自分はまだ、あの暗い独房の中で、痛みに怯えながら生活しているのではないか。
ルーフェンやサミルと出会ったのは、本当は、夢の中の出来事だったのではないか。
答えがないことに苛立ったのか、男が、刃を振り上げる。
その瞬間、トワリスの心は、闇の中に引きずり込まれた。
目をぎゅっと閉じて、その場に伏せる。
消えつつあった恐怖の記憶が、濁流のように押し寄せて、トワリスは完全に動けなくなった。
一度怖いと思うと、身体がすくんで、もう逃げようという気すらなくなってしまう。
「──トワリスちゃん!」
トワリスの硬直を解いたのは、切迫したミュゼの声だった。
同時に、鍋蓋を持ったミュゼが、凄まじい勢いで男に突進してくる。
男は、大柄なミュゼに突撃されて、一瞬怯んだようだったが、それでも、ミュゼは一介の家政婦に過ぎず、一方男は、武術の心得がある人間だ。
男は、あっという間にミュゼを押し返すと、後方に転んだ彼女に向けて、刃を構えた。
「おばさん……!」
咄嗟に起き上がって、トワリスが叫ぶ。
このままでは、自分をかばったせいで、ミュゼが殺されてしまう。
刃を振りかざした男を見て、トワリスの中で、恐怖よりも、どうにかしなくてはという思いが先行した。
刃を見て、駆け出す。
恐ろしくて、今まで目をそらしてきたものは、よく見れば、目で捕らえられる速さだった。
(私の方が、速い……!)
地を蹴ると、トワリスは男に飛びかかった。
刃が振り下ろされるよりも速く、その腕にしがみついて、親指の付け根に噛みつく。
人間離れしたトワリスの動きに、男は思わず呻き声を漏らすと、大きく手を振って、トワリスを殴り飛ばした。
「────っ!」
流石に力負けして、床に叩きつけられる。
背中を打ち付けた拍子に、嫌な咳が込み上げてきて、トワリスは思わず身を縮めた。
起きなければ、と思ったが、視界がぐらぐらと歪んで、上手く立てなかった。
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