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投稿日:2021年02月24日






 ぽん、と高く蹴り上げられた球が、弧を描いて、青屋根の軒樋のきどいにはまった。
続いて沸き起こった子供たちの不満の声に、はっと顔をあげると、トワリスも、目線を魔導書から屋根の方に移した。

「おい、どうすんだよぉ! あんな高いところ行っちまって」

「誰か、枝! 長い枝持ってきて!」

「枝じゃ届かないだろ」

 白い息を吐きながら、男児たちが、どうにか球を取り戻そうと話し合っている。
どうやら、球蹴りをして遊んでいたところ、強く蹴りすぎた球が、屋根の上まで飛んでいってしまったらしい。
天気が良い日の中庭では、よくある光景であった。

 庭の端に設置された長椅子に座って、遠巻きにそれらの様子を見ていたトワリスは、小さくため息をつくと、再び目線を魔導書に落とした。
じきに、孤児院の職員が来て、屋根の上から球を落としてくれるだろう。
そうすれば、ぎゃーぎゃーとわめく男児たちの気も収まるはずだ。

 そうして、職員の登場を待っていたトワリスだったが、今日は、待てども待てども、大人は誰もやってこなかった。
いつもなら、ヘレナあたりが「あらまあ!」なんて高い声をあげながら、駆けつけてくるのだが。

 他の女児たちも、呆れて肩をすくめる中、男児たちの不満の声は、どんどん大きくなっていく。
最初は、どうやって屋根から球を下ろそうかと相談していたのに、いつの間にか、話の内容は、誰があんなところに球を蹴ったのか、という責任の押し付け合いになっていった。

 徐々に言い合いも激しくなり、やがて、取っ組み合いの喧嘩にまで発展し始めた辺りで、トワリスは、魔導書をぱたりと閉じて、立ち上がった。
子供たちの喧嘩なんて、日常茶飯事ではあるが、目の前で怪我でもされたら流石に気分が悪いし、何より、こんなに近くで騒がれては、勉強に集中できない。

 トワリスは、ゆっくりと歩きながら、球がひっかかっている軒樋までの高さを目測し、そのすぐ下に生えている木に狙いを定めると、助走をつけて、思い切り、草地を蹴った。
太い枝に両手で掴まり、反動で一回転して、別の枝に飛び乗る。
それから、もう一度跳んで屋根に移ると、トワリスは、あっという間に球を取り戻した。

 ひとっ跳びで屋根から降りてきたトワリスを見て、子供たちの間に、ざわめきが起こった。
単純に、人間業ではない跳躍力に驚愕したのと、あの大人しいトワリスが、というので、二重に驚きだったのだろう。
中庭で遊んでいた子供たちは皆、目を丸くして、トワリスを見つめている。

 トワリスは、居心地が悪そうに辺りを見回してから、球蹴りをしていた男児の一人に近づくと、取ってきた球を差し出した。

「……はい」

「あ、ありがとう……」

 ぽかんとした表情でお礼を言って、男児が球を受けとる。
これで事態は丸くおさまった──と思われたが、横から割り込んできた別の男児が、払うように球を蹴って、言った。

「きったねー! 獣女がさわった球だぞ! さわったら、獣病がうつるぞ!」

 げらげらと笑うその男児は、名前をルトという、孤児院でも一、二を争う問題児であった。
職員に叱られている常連であったし、唯一、未だにトワリスに話しかけてくる子供でもある。
話しかけてくる、というよりは、突っかかってくる、と言った方が正確だろう。
ルトはいつも、トワリスが獣人混じりであることを、からかってくるのである。

 一瞬、むっとした表情になったトワリスであったが、すぐに踵を返すと、ルトを無視して長椅子の方に戻った。
獣人混じりであることを揶揄やゆされるのは、非常に不愉快であったが、ルトは、まだ七歳である。
五歳も年下の子供が言ってくることを、いちいち真に受けるのは、大人げないように思えた。

 すまし顔で、トワリスが再び魔導書を読み始めたのを見ると、むっとしたのは、今度はルトの方だった。
反応が返ってこなかったのが、気に入らなかったのだろう。
わざわざトワリスが座る長椅子の方まで行くと、ルトは、勢いよく魔導書をひったくった。

「本ばっかよんでないで、獣なら、獣らしくしてろよ! この根暗!」

 弾かれたように顔をあげて、きつくルトを睨み付ける。
いつもなら無視するのだが、魔導書をとられてしまっては、相手にせざるを得ない。
この魔導書は、サミルの屋敷から借りて持ってきた、大事なものなのだ。

 長椅子から立ち上がって、ルトに詰め寄ると、トワリスは眉を寄せた。

「……返して」

 厳しい口調で言ってみるが、ルトは全く聞き入れようとせず、魔導書の中身をぱらぱらとめくっている。
文字──まして、魔術に使われる古語なんて読めないだろうから、当然、魔導書の中身も理解できるはずがないのに、ルトは、悪い笑みを浮かべると、振り返って、散っている男児たちに声をかけた。

「なんだこれ、意味わかんねー本! おーい、これみてみろよ!」

 そう言って、ルトが、魔導書を投げようと振りかぶる。
トワリスは、慌ててその腕を掴むと、声を荒げた。

「投げちゃ駄目! 返して!」

「うわっ、さわんな! 獣女!」

 トワリスを振り払おうと、咄嗟に腕を引いたルトの手から、魔導書がこぼれ落ちる。
そのまま、体勢を崩して後退したルトの足が、地面の魔導書を踏みつけてしまった瞬間、トワリスの頭に、かっと血が昇った。

「────っ」

 突き飛ばすような形で、ルトの頭を殴り付ける。
思いがけず力が入ってしまって、地面に叩きつけられたルトは、一瞬、事態が飲み込めず、きょとんとした顔で、トワリスのことを見ていた。
しかし、やがて、まんまるに開かれたその目に、徐々に涙を貯め始めると、ルトは、殴られた頭を押さえて、大声で泣き出した。

 ひとまず、踏まれてしまった魔導書を拾って、ぱんぱんと汚れを払う。
罰が悪そうにルトを見つめながらも、トワリスは、後悔していなかった。
子供とはいえ、ルトには、一発殴ってやらねば収まらぬ恨みつらみがあったのだ。

 ようやく中庭での騒ぎを聞き付けたのか、孤児院から出てきたヘレナが、こちらに駆けてきた。

「あらまあ! どうしたって言うの! ルト、貴方今度は何をしたの?」

 とりあえず、日頃の行いが悪いルトを叱りつけるも、彼の額が真っ赤になっていることに気づくと、ヘレナは急いで濡らしてきた手拭いを、腫れた部分に押し当てた。
そして、盛んに「獣女がぶった」と繰り返すルトの言葉に、魔導書を抱えて直立しているトワリスを見上げると、ヘレナは、驚いたように目を見開いた。

「嫌だわ、本当にトワリスちゃんが殴ったの?」

 言葉を詰まらせて、トワリスがうつむく。
すると、沈黙を肯定ととったのか、ヘレナが、いつものように早口で捲し立て始めた。

「なんてこと……呆れた! どんな理由があったとしても、暴力はいけませんよ、暴力は! 大体、貴女は普通よりも力が強いんだから、そんな力で年下の子供を殴ったらどうなるのか、分かるでしょう?」

「だ、だって……」

「だってじゃありません! 貴女は、孤児院の中じゃお姉さんなのだから、ちゃんと年上らしく振る舞わなければいけませんよ」

「…………」

 全く口を挟む隙がないヘレナの物言いに、トワリスは、唇を引き結んで黙りこんだ。
多分、ちゃんと状況を説明すれば、ヘレナも耳を貸してくれるとは思うのだが、何分ヘレナは、とにかく話すのが速い。
一方のトワリスは、言葉を選ぶのに時間がかかる方であったから、ヘレナのように矢継ぎ早に話されてしまうと、口ごもるしかなかった。
サミルやルーフェンは、口ごもっても、トワリスが言葉を言えるまで待ってくれていたから、困ることなどなかったのだが、ヘレナに限らず、いろんな話し方をする人間と関わってみると、自分が口下手だったのだということを、嫌でも思い知らされる。

 諦めて、こんこんと続くヘレナの説教を聞いていると、ふいに、子供たちの中から、声が上がった。

「ちょっと待って、ヘレナさん。今のは、完全にルトが悪いわよ」

 はっきりとした声で言って、現れたのは、車椅子に乗った、赤髪を二つに結った少女であった。
少女は、器用に車椅子を操ってこちらにやって来ると、トワリスを一瞥して、それからルトを見やると、ヘレナに説明した。

「ルトが、トワリスちゃんの本を取り上げて、投げようとしたのよ。それを止めようとして、もめている内に、トワリスちゃんの手がルトの頭に当たっちゃったの」

「あたっちゃったんじゃない! 獣女がわざとぶったんだ!」

 ルトが食ってかかると、赤髪の少女は、ぴくりと眉をあげた。
実際、ルトの言う通り、トワリスは、うっかり手をぶつけてしまったのではなく、意識的に殴った。
おそらく、それは誰が見ても一目瞭然のことだったと思うのだが、どうやらこの少女は、トワリスをかばおうとしてくれているようであった。

 少女は、やれやれという風に首を振った。

「男のくせに、ぴーぴーうるさいわね。そもそも、女の子に対して、獣女って呼び方をするのもどうかと思うわ。ルト、あんた、カイルのこともチビ呼ばわりして、突き飛ばしたらしいじゃない。いい加減にしなさいよ。私、知ってるんだから。この前、おねしょしたシーツを、こっそり洗濯済みのシーツの中に紛れこませていたでしょう?」

 ルトの顔が、さっと青くなる。
同時に、「あらまあ」と再び呆れ顔になったヘレナを見て、少女は勝ち誇ったように言った。

「獣女だの、チビだの、そういうことばっかり言ってるんだったら、いいわ。私はこれから、あんたのこと、ルトじゃなくて小便坊主って呼ぶから。こいつは、そばかすまみれで、性根の腐った、七歳にもなって漏らしちゃう小便坊主ですよーって、孤児院にきた人たち皆に、そう言いふらしてやるわ」

「なっ……」

 ぷぷっと、子供たちの中から、微かな笑いが起こった。
ルトに恨みがある子供は、他にもいるのだろう。
傍若無人な彼の惨めな姿が、子供たちは、おかしくて仕方がないようだった。

 またしても何か言い返そうとしたルトを制して、ヘレナが、ぱんぱんと手を叩いた。

「はい、それまで! 何があったのかは大体分かったから、リリアナちゃんも、言葉遣いには気を付けなさい。トワリスちゃんも、わざとじゃなかったのだとしても、今後うっかり怪我をさせてしまう、なんてことがないように。ルトは、手当てをしたら、また院長先生にお説教してもらいましょうね」

 うげっと嫌そうな顔つきになったルトの腕を掴んで、ヘレナが孤児院に入っていく。
トワリスは、引きずられていくルトの姿を見送って、疲れたように嘆息したのだった。

「気にすることないわ。ヘレナさんの言う通り、暴力はいけないことだと思うけど、言葉で言い聞かせたところで、分からない糞ガキっていうのも確かにいるのよ。私だって一回、ルトの頬をひっぱたいたことがあるもの」

 横で、ふん、と鼻を鳴らした少女に、トワリスは向き直った。
話したことはなかったが、車椅子と、明るい赤髪がいつも目立っていたので、なんとなく見覚えはある。
トワリスは、小さな声で礼を言った。

「……あの、ありがとう。かばってくれて」

 少女は、ふるふると首を振った。

「いいのよ! あれは、誰がどう見たってルトが悪かったし。そんなことより、本、大丈夫だった?」

 心配そうに首をかしげて、少女が、トワリスの持つ魔導書を見る。
トワリスは、もう一度魔導書の汚れを払うと、こくりと頷いた。

「うん、ちょっと土埃がついただけだから。拭けば、綺麗になると思う」

「そう! それなら良かった!」

 笑みを浮かべると、次いで、少女はトワリスの手を両手で握った。

「私、リリアナって言うの。リリアナ・マルシェ。トワリスちゃんとは、同い年よ。で、こっちが弟のカイル。二歳になるんだけど、しっかり者なのよ。かわいいでしょ?」

 リリアナが呼ぶと、彼女と同じ赤髪の男の子が、車椅子の陰から現れた。
ずっと、リリアナの後ろに隠れていたのだろうか。
カイルは、到底二歳児とは思えない悟ったような顔つきで、トワリスのことを見上げている。
お世辞にも、子供らしい可愛さがあるとは思えない、落ち着いた表情の男の子であったが、しっかり者だという表現は、言い得て妙だった。

「実は私たち、トワリスちゃんがここに来る少し前に、西区の孤児院から移ってきたの。だから、新入り同士だし、トワリスちゃんとは一度、話してみたいって思ってたのよ」

「そ、そうなんだ……」

 リリアナの勢いに押されつつも、彼女の屈託のない笑みを見ている内に、トワリスも、だんだんと言葉が出てくるようになった。
いきなり距離を詰められると、いつも萎縮して、うまく話せなくなってしまうトワリスであったが、リリアナは、そういう緊張などほぐしてしまう、気のおけない雰囲気の少女であった。

 トワリスは、微かに表情を和らげた。

「そう言ってもらえると、嬉しいよ。私、口下手だから、なかなか話せる相手、いなくて……」

「えっ、そうなの?」

 リリアナは、驚いたように目を大きくした。

「私、てっきりトワリスちゃんは、あえて一人でいるんだと思ってたわ。大勢で騒いだりするより、静かに本を読んだりする方が、好きなのかなって。それもあって、私、今まで声をかけられなかったの」

「まあ、確かに、騒いだりするのはあんまり好きじゃないけど……。別に、一人が好きな訳でもないよ」

 言いづらそうに言葉を選びながら、トワリスは、ゆっくりと話した。

「私、これまで同年代の子と沢山しゃべったことなんてなかったし、何を話したら良いのか、分からないんだ。皆も、獣人混じりなんかと話すのは、抵抗があるだろうし……」

 口ごもりながら言うと、リリアナは、ぱちぱちと瞬いた。

「獣人混じり……? それは、そんなに関係ないんじゃないかしら。ルトだって、からかう口実にしているだけで、獣人混じりだってこと自体は、多分そんなに気にしてないもの。それよりは、さっき言った通り、トワリスちゃんは一人が好きだって勘違いされているだけだと思う。それにほら、トワリスちゃんって、いっつも、難しそうな本ばかり読んでいるでしょう? 文字が読めない私達からすると、あんな本読めてすごいなぁって思うのと同時に、ちょっと近寄りがたく感じちゃうのよ」

 リリアナは明るい声で言ったが、トワリスは、それに同調することはしなかった。
実際、レーシアス邸の者達も、トワリスが獣人混じりだと聞いても、珍しがるだけで敬遠しようとはしなかった。
それでも、獣人混じりという異質な存在を、好奇や侮蔑の眼差しで見てくる人間は、確かにいるのだ。
それは、奴隷だった頃に散々思い知ったことであったし、サミルやリリアナが何と言ってくれようとも、変わらぬ事実であった。

 あまり暗い雰囲気にならないように、薄く笑みを浮かべると、トワリスは肩をすくめた。

「そうやって、関係ないって言ってくれるのは、ごく少数の人間だけなんだよ。普通は、びっくりするし、気味悪いって思うみたい」

「うーん……そうなのかなぁ?」

 リリアナは、どこか納得がいかなさそうに、唇を尖らせた。
しかし、不意にぱっと顔を輝かせると、トワリスに顔を近づけた。

「ああ、でも、さっきトワリスちゃんが、球をとりに屋根までひとっ跳びしちゃったときは、びっくりしたわ! だって、本当にすごかったんだもの。まるで風に乗ってるみたいに、ぴょーん、ぴょーんって! あ、でもそれは、感動したって意味のびっくりよ。気味悪いだなんて、思うはずないじゃない。むしろ、羨ましいくらいよ」

「そ、そうかな……」

 思わぬ部分を賞賛されて、少し戸惑ったように聞き返すと、リリアナは、こくこくと何度も頷いた。

「そうよ! だって、あんなに高く跳べる女の子って、他にいる? 私、普通の人が出来ないことを出来るのって、とっても素敵なことだと思うわ」

 随分と単純で、短絡的な言い分であったが、リリアナの言葉は、自分でも驚くほど簡単に、胸の中に落ちてきた。
きっと、リリアナ以外の者が同じ言葉を言っても、ここまで心に響かなかっただろう。
羨ましいだなんて言われたら、獣人混じりの苦悩も知らないくせに、と腹立たしく思ってしまうこともありそうなものだが、不思議と、リリアナに対しては、そういった憤りも感じなかった。
むしろ、腹の底に何もない、純粋で無邪気なリリアナの笑みを見ていると、いつの間にかトワリスも、笑顔になっていたのだった。

 トワリスの表情が綻んだのを見ると、リリアナも、嬉しそうに口を開いた。

「ね、同い年なんだし、トワリスって呼んでもいい? 私たちのことも、リリアナとカイルって呼んで良いから」

「う、うん……」

 ぎこちなくも頷けば、リリアナの目が、ぱっと輝く。
リリアナは、握っていたトワリスの手を持ち直すと、ぶんぶん振り回した。

「それなら、今日から私達、友達ね! 仲良くしてちょうだいね!」


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