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投稿日:2021年02月24日





  *  *  *


 身体にまとわりつくような、霧雨が降る。
定期便の馬車の窓から、水で溶かしたように滲む山々の輪郭を眺めて、トワリスは、何度目ともわからぬため息をついた。

 同じ馬車に乗り合わせた客たちも、心なしか、疲れたような表情で、一様に俯いている。
トワリスもまた、例外ではなく、まるで自分の心情を表したかのような鬱屈とした空模様に、気分が沈むばかりだった。

 一月ほど前、届いた辞令書に記されていた勤務地は、念願のアーベリト──ではなく、ハーフェルンであった。
ハーフェルンは、旧王都シュベルテの北東に位置する、巨大な港湾都市である。
海に面し、船舶の停泊に適していることから、交易市場として発達しているこの街は、特に、現在の領主、クラーク・マルカンが治めるようになってからは、正式にアーベリト、シュベルテと協力関係を結んだこともあって、一層活気を増し、サーフェリア随一の物流量を誇る大都市となっていた。

 卒業して早々、ハーフェルンに配属されるなんて、普通なら喜ぶべきことであった。
規模としてはシュベルテの方が大きいとはいえ、ハーフェルンには、軍事都市にはない華やかさがある。
中にはシュベルテよりも、ハーフェルンに配属されたいと希望する新人魔導師だって、少なくはなかっただろう。
しかもトワリスは、単なる常駐魔導師として、ハーフェルンに配属になったわけではない。
なんと、領主であるクラーク・マルカンから、娘のロゼッタの専属護衛になってほしいと、直々に指名されたのである。
魔導師一年目の新人としては、これほど名誉なことは他にない。

 それでもトワリスは、ハーフェルンへの配属が決まってから、ずっと悲しみに暮れていた。
魔導師を目指したのも、良い成績を取ろうと努力したのも、全てはアーベリトを支えられるような人間になるためだったからだ。
なまじ、サミルやルーフェンと暮らした経験もあって、アーベリトは自分を受け入れてくれるだろう、なんて期待を持ってしまっていたから、余計に打撃が大きかった。

 専属護衛に指名されるなんて、予想外のことであったので、それがどれくらい拘束力のあるものなのかは、まだ分からない。
しかし、少なくとも、あと二、三年くらいはハーフェルンにいることになるだろう。
仕事なのだから、いつまでも不貞腐れていてはいけないと言い聞かせながらも、アーベリトに近づくどころか、遠ざかってしまったと思うと、心が重く沈むのであった。

(……お母さんは、元々ハーフェルンに流れ着いたんだよね)

 しとしとと降る雨垂れの音を聞きながら、トワリスは、ふと顔も浮かばぬ母を想った。
約二十年前、ミストリアから海を渡ってきたであろう獣人たちは、元はハーフェルンに漂着したのだ。

 ハーフェルンは、奴隷制を敷いている街である。
故にトワリスの母親たちも、物珍しさからハーフェルンの奴隷商に捕らえられ、各地に散って、やがて死んだのだ。
シュベルテを含め、奴隷制を認めていない街も多く存在するが、それでも、人身売買を始めとする不正な取引など、どこにでも存在するものだ。
オルタという残酷絵師も、元はシュベルテの人間だったようなので、そういった闇取引でトワリスを買ったのだろう。
そう思えば、死ぬ前にアーベリトにたどり着いたトワリスは、とても幸運だった。

 あの時、地下から逃げ出して、建物の骨組みの中で雨風を凌いでいなければ、ルーフェンたちが、トワリスを見つけてくれることはなかった。
仮に誰かに保護されたとしても、それがサミルやルーフェンではなかったら、きっと結果は違っていたはずだ。
散々噛みついて、迷惑をかけて、挙げ句自ら買主の元に戻った汚い小娘を、追いかけて再び助けてくれる人なんて、この世に一体どれくらいいるのだろう。
何か一つでも状況が違えば、あのまま地下で嬲り殺されていても、おかしくはなかったのだ。
あの時、あの場所で、手を取ってくれたのがサミルとルーフェンだったから、今の自分がある。
そう考えると、アーベリトでの出会い一つ一つが、改めて愛おしく思えた。

(……ハーフェルンに着いて、落ち着いたら、やっぱり手紙を書こう)

 書いて、どれほど自分が貴方たちに感謝をしているのか、伝えるのだ。
サミルとルーフェンには、孤児院を出たあの頃に一通送っただけで、それ以降手紙を送っていない。
二人とも、トワリスからすれば雲の上の存在で、一介の魔導師からの手紙なんて、読んでくれるかどうかも分からない。
それでも、何かの拍子に、目にとまることがあったなら良いなと思う。
本当はアーベリトに行って、直接二人の役に立ちたかったけれど、別の街にいたとしても、あの時助けた半獣人の娘は、魔導師として頑張っているんだと、知らせたかった。
そしてその事実を、もし一瞬でも、二人が頭の片隅に置いてくれたら、それで十分だ。

 トワリスは、馬車の轍がハーフェルンの街に入るまで、空を覆う一面の雲を眺めていたのだった。



 ハーフェルンの大門をくぐると、目前に広がった景色に、トワリスは思わず吐息を漏らした。

 元は丘陵地帯に建てられたのだというこの港湾都市は、入口の大門から面する海に向かって、棚田のような形状になっている。
つまり、大門を抜けると、眼下に広大な海が広がっているのだ。
思えば、こうして近くで海を見たのは、初めてだったかもしれない。
トワリスは、沈んでいた気持ちも一瞬忘れて、景色に見とれてしまった。

 海だけでなく、立ち並ぶ建物の間には、巨大な運河や細かな水路が通っており、立ち働く人々が、馬車ではなく船を使って行き来していた。
この光景を、今日のような曇天ではなく、晴れ渡る空の下で見たならば、どれほど美しかったろうか。
また、家々の色調、造形も様々で、水路を横断する橋の手すり一つにも、細かな装飾が施されている。
更には、石畳に使われている石材ですら、色の違うものが規則的に当てはめられていたりと、街全体が、芸術的なこだわりを感じる造りをしていた。
これは、ハーフェルンでの勤務を希望する魔導師が、毎年多いというのも頷ける。
この街には、精強で荘厳な雰囲気漂うシュベルテとはまた違う、鮮やかな魅力があるのだった。

 ハーフェルンの領主、クラーク・マルカンが住む屋敷は、大門をくぐったすぐ先に建っていた。
この街を発展させてきた侯爵家の豪邸というだけあって、敷地は、庭部分だけでも、サミルの屋敷が一つ分入ってしまうのではないかというほどの大きさである。
魔導師の証である腕章を見せ、名乗ると、玄関口で出迎えてくれた侍従たちは、恭しく屋敷の中へと案内してくれた。

 予想通りと言うべきか、マルカン邸は内装も派手で、屋敷の至るところに、いかにも高級そうな調度品や装飾品が並んでいた。
長廊下の左右の壁には、巧緻な額縁に入れられた絵画が並び、床に敷かれた分厚い絨毯には、金が織り込まれているのか、角度によって、きらきらと光って見える。
小汚ない旅装をしている自分が、この屋敷内を歩いていると、どうにも場違い感が否めなかった。

 客間の前で、侍従たちが両脇から大扉を開けると、奥からきらびやかな光が溢れてきた。
天井からは、沢山の蝋燭を乗せた巨大なシャンデリアが吊り下がり、壁にかかった燭台は、珍しい色硝子製で、ちらちらと炎の光を反射しては、色の変わる影を落としている。
初仕事なので、毅然とした態度で臨もうと思っていたのに、ハーフェルンに来てから、珍しい品々や景色に目移りしてばかりだ。

 部屋の中央には、大きな食卓があり、豪華な料理が並べられていた。
上座には、この屋敷の主であるクラーク・マルカンが、そして下座には、トワリスが護衛をすることになる、娘のロゼッタが腰かけている。
杯を片手に持っていたクラークは、案内役の従者たちが部屋から出ていくと、呆然と突っ立っているトワリスを見て、鷹揚に微笑んだ。

「よく来てくれたね。さあ、こちらにおいで。長旅で疲れたろう。食事も君のために用意したんだ」

 整えられた口髭を撫でながら、クラークが言う。
トワリスは、その場に荷物を下ろすと、片膝をつき、手を合わせて礼をした。

「この度は、お引き立て賜り、誠にありがとうございます。ロゼッタ様の護衛役を拝命致しました、トワリスと申します。以後、よろしくお願い申し上げます」

 強張った口調で挨拶をすると、クラークの下手にいたロゼッタが、鈴のような声で笑った。

「そんなに畏まらなくても良くてよ。私達、これから一緒にいることが多くなりますもの。遠慮はしないで、どうぞお掛けになって」

 促されるまま顔をあげ、トワリスは、示された席に座る。
するとロゼッタは、上品に口元を覆って、ふふ、と顔を綻ばせた。

 思いの外、二人が気さくな態度だったので、ほっとした反面、緊張は全く解けなかった。
見たこともないような豪邸で、高価そうな調度品、料理に囲まれ、目があった従者たちは皆、深々と頭を下げてくる。
そんな状況で、君のために食事を用意したんだ、なんて言われても、全くもって喉を通る気がしなかった。

 クラークたちは、本当に歓迎してくれているつもりなのかもしれないが、仮にも侯爵家の当主が、たかが新人魔導師一人に席を設けるなんて、聞いたことがない。
それほど期待してくれているのだと思うと、嬉しくもあったが、一方で、とてつもない圧をかけられているように感じた。
それこそ、貴族出身の魔導師なら、難なくこの場を切り抜けてしまうのだろうが、トワリスは、革靴で高そうな絨毯を踏みつけることにさえ、抵抗を覚えていたくらいだ。
まさかこんなに好待遇を受けるとは思っていなかったし、礼儀作法も最低限しか知らないので、思いがけず粗相をしてしまわないかと、気が気でなかった。

 クラークは、軽く杯を掲げた。

「いやぁ、君が来るのをずっと楽しみにしていたんだよ。かねがね、ロゼッタには優秀な女性の魔導師をつけたいと思っていてね。娘も今年十九になるし、婚約も決まっている身だ。何より、こんなにも愛らしいだろう? 男なんて専属でつけたら、何か間違いが起こるんじゃないかと、不安でね」

 恥ずかしげもなく娘を称賛するクラークに、ロゼッタは、頬を赤くした。

「まあ、お父様ったら。人前でそんなこと言わないで。恥ずかしいですわ」

 クラークは、まあいいじゃないか、とロゼッタをなだめると、陽気に笑い声をあげた。
どう反応して良いか分からず、トワリスは曖昧に微笑んで黙っていたが、自分の反応など、クラークたちは気にしていないらしい。
ロゼッタは、ぷっと頬を膨らませて父を睨んでいたが、やがて、満更でもなさそうに笑みを浮かべた。

 クラークが娘を溺愛していることは、すぐに見てとれたが、実際、彼の言うことも大袈裟ではなく、ロゼッタは可愛らしい容姿をしていた。
ブルネットの緩やかな巻き髪に、長い睫毛で縁取られた栗色の瞳。
ほんのりと赤みを帯びた頬と、日焼けを知らない、きめ細かな白皙。
年の割に幼さは残すものの、優雅で淑やかな一挙一動からは、彼女の品格と育ちの良さが伺える。
口調も柔らかで、高貴な身分と言えど、近寄りがたい雰囲気はなかったので、男女問わず好かれそうな女性に思えた。

 彼女の人柄は父親譲りなのか、クラークもまた、おおらかに笑う人であった。
食事の間中、ずっとマルカン家の自慢話ばかりしてくるので、返事には困ったが、トワリスからすれば、侯爵家の人間が、自分のような獣人混じりに対しても、分け隔てなく話しかけてくること自体が意外であった。
奴隷制を敷いているからとか、貧富差が激しい街だからとか、そういったことを気にして、少し身構え過ぎていたのかもしれない。
今回は、女であったことが決め手とはいえ、クラークとロゼッタは、自分の実力を見て指名してくれたのだろう。
そう思うと、一人前の魔導師への第一歩を踏み出せたのだと実感できて、純粋に嬉しかった。


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