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投稿日:2021年02月24日





 ふと振り返れば、トワリスが落としていったであろう双剣と外套が、橋の隅に打ち捨てられていた。
重りになるものは脱いでいった──つまり、彼女は意図的に、運河に飛び込んでいったということだ。

(一体、何のために……?)

 思わず息を飲んで、波立った運河を見つめる。
しかし、いつまで経っても、トワリスらしき影は水面に浮かんでこなかった。

 幸い、閘門が閉じているので、流されることはないだろうし、岩などが水中に潜んでいることもないので、障害物に激突するようなことはないだろう。
だが、そもそも着水の時点で気絶すれば、溺死する可能性だって十分にあり得る。

 よほど衝撃的だったのか、ふと額に手を当てたロゼッタが、ふらりと倒れる。
その身体を支えて横たえると、ルーフェンは、素早く外套を脱いで、欄干に足をかけた。
水面に走らせた視界が、一瞬ぼやける。
考えただけでも怯んでしまうほどの高さなのに、何の躊躇もなく飛び込んでいったトワリスの姿が、未だに信じられなかった。

 ルーフェンは、息を吸うと、勢いよく欄干を蹴った。
水中に飛び込んだ瞬間、板で殴られたような衝撃と、心臓が縮むような冷たさが全身を襲う。
立ち泳ぎをしながら、周囲を見渡していると、視界の端に、突き出した赤褐色の頭が映った。

(見つけた……!)

 水を掻いて向きを変えると、ルーフェンは、トワリスが沈んでいった方へと泳いだ。
秋口とはいえ、想像以上に水温が低い。
水流に飲まれて溺れることはなくとも、この水温では、あっという間に体温を奪われて、動けなくなってしまうだろう。

 大きく手を伸ばすと、指先に何かが触れた。
トワリスの腕と思われるそれは、しかし、掴んだと思った途端、するりと手の中から抜けていってしまう。
手が滑ったのではなく、掴んだ手を拒まれたような感覚だった。

「トワリスちゃん! 手、伸ばして!」

 叫んでから、今度はトワリスの胴を抱え込むようにして、引き上げる。
力ずくで水面に上げられたトワリスは、苦しげに顔を出すと、身体を反るようにしてルーフェンを押し退けた。

「はっ、離してください……!」

 冷えきってしまったのか、トワリスが、震える声で言う。
再び水中に潜ろうとする彼女の腕を、咄嗟に掴み取ると、ルーフェンは信じられぬ思いで、その身体を引き寄せた。

「馬鹿! 何考えてる!」

 らしくもなく声を荒げてしまったが、そんなことは気にも留めていない様子で、トワリスは腕から抜け出そうと暴れている。
唇の血の気もなく、身体だって氷のように冷たくなっているのに、この状況で水中に留まろうとするなんて、トワリスは一体何を考えているのか。
ルーフェンは、半ば強引にトワリスを抱えると、短く詠唱をした。
しぶき立っていた水面が、突然、意思を持ったように水嵩を増し、ルーフェンとトワリスの身体を押し上げる。
元々、水中のトワリスを巻き込みたくなかっただけで、彼女さえ保護できれば、後は魔術で脱出しようと思っていたのだ。

 ルーフェンは、抵抗するトワリスを押さえ込んで、石造の岸辺にずり上がった。
閘門橋を見上げれば、騒ぐ人々がこちらを指差して、忙しく行き交っている。
この分なら、こちらが動かなくとも、じきに助けが来るだろう。
そういえば、気絶したロゼッタも、橋の上に放置してきてしまった。

 無理矢理引きあげられたトワリスは、ルーフェンの腕をはねのけると、咳き込みながら怒鳴った。

「どうして離してくれなかったんですか! 耳飾り、まだ見つけてなかったのに!」

「耳飾り……?」

 訝しげに問い返して、目を見開く。
トワリスが運河に飛び込んだのは、ロゼッタの落とした耳飾りを探すためだったのだと気づいて、ルーフェンは、思わず眉をひそめた。

「耳飾りって……まさか、そんなことのために飛び込んだの?」

「そんなこと……?」

 トワリスの声音に、押し殺したような怒りが混ざる。
きつくルーフェンを睨み付けると、トワリスは激昂した。

「あの耳飾りは、マルカン候がロゼッタ様に贈ったものなんですよ! 大切な宝物なんだって、前に言ってたんです! そんなことじゃありません!」

 トワリスの真剣な面持ちに、ルーフェンは、つかの間言葉を止めた。
ロゼッタの“大切な宝物だ”なんていう言葉に、おそらく深い含みはない。
あるとすれば、単純に宝石としての希少価値が高いから、“宝物だ”というだけである。
父親からの贈り物だとか、願掛けをしたとか、そんなロゼッタの綺麗な言葉に、さして重大な意味はない。
ロゼッタに限らず、貴族の娘とは大概そういうものであることを、ルーフェンは知っていた。
けれどもトワリスは、そんな彼女たちの言葉を、いちいち額面通りに受け取っているのだろう。
だから、こんな風に真剣になれるのだ。

 ルーフェンは、言葉を選びながら、小さく息を吐いた。

「……仮にそうだったとしても、飛び込むのは危ないよ。あんな高さから落ちて、下手したら、死んでたかもしれない」

「あの程度じゃ死にません。私はそんな柔じゃないです!」

「第一、あんな小さな耳飾り、運河の中から見つけられるわけないだろう? 浅瀬ならまだしも──」

「召喚師様が途中で割り込んでこなければ、見つけられました! 私一人だったら、耳飾りを持って自力で岸まで上がれてたのに……!」

「…………」

 この言い種には、流石のルーフェンも、むっと眉根を寄せた。
意地になっているのだろうが、どう考えたって、トワリス一人で耳飾りを見つけられたとは思えない。
閘門橋から飛び降りて、今現在こうして口論を交わせるくらいだから、柔じゃないという彼女の言葉も、嘘ではないのだろう。
けれど、ルーフェンが助けに入らず、長時間あの冷たい運河の中で揉まれていれば、どんな頑丈な人間でも、体力を奪われて動けなくなってしまっていたはずだ。

 言い返そうとして、しかし、トワリスの姿を改めて見ると、ルーフェンは口を閉じた。
飛び込んだときに水を飲んでしまったのか、何度か叫んだ後に、トワリスは苦しげにひゅうひゅうと喉を鳴らしている。
寒いのか、それとも怒り故なのか、その小柄な肩は、微かに震えていた。

 ルーフェンは、やりづらそうに嘆息した。

「……助けが不要だったなら、ごめんね。でもやっぱり、いきなり運河に飛び込むなんて、誰がやったって危ないよ。今回助かったのは、運が良かったからだと思った方がいい。……耳飾りはまた買えるけど、君は買えないだろう?」

 はっと見開かれたトワリスの目が、大きく揺れる。
何を言っても怒鳴り返してきていたトワリスは、突然戸惑ったようにうつむくと、黙りこんでしまった。

「……大丈夫? どこか痛む?」

 心配になって声をかけるが、やはりトワリスは、唇を閉ざしたままだ。
顔色を伺おうにも、彼女は下を向いているので、濡れた前髪に隠されてよく見えない。
トワリスの表情を伺うため、赤褐色の髪に触れようとした──その、次の瞬間。

「触んないで下さいこの変態っ! 不潔っ! 女ったらしーっっ!!」

 ルーフェンの反応速度を上回る速さで、トワリスの掌が飛んでくる。
怒号と共に、スパァンと鳴り響く、乾いた音。
トワリスの手が、ルーフェンの頬──というよりは顔面をぶっ叩いた音は、辺り一面に、高々に響き渡ったのであった。


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