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投稿日:2021年02月24日
それから三日経っても、少女は、一言も口をきかなかった。
名前を尋ねても一切答えず、もう逃げようともせず。
一日中、熱に浮かされたように、ぼんやりと宙を眺めては、時折、何かを思い出したように泣いているだけであった。
最低限、果汁や牛乳を飲んではいたが、食事はほとんど摂っていなかった。
ダナが、付きっきりで少女を看病してくれたおかげで、傷は回復に向かいつつあったが、死人のようなやつれ具合は、出会った当初と変わらない。
夜もあまり眠れていないのだろうと、点滴ついでに多少の睡眠薬を投与していたので、ルーフェンが仕事の合間に覗いても、少女はうつらうつらと浅く眠っているか、泣いているかのどちらかであった。
今日は、ダナが施療院のほうに呼ばれていると言うので、代わりにルーフェンが、少女の看病をしていた。
看病すると言っても、少女は黙って寝台に横たわっているだけなので、ただ様子を見るだけである。
ルーフェンは、事務仕事をしていた手を止めると、日が高く昇った窓の外を見て、はぁっとため息をついた。
そして、寝台に近づくと、朝から放置されているスープを、少女の前に出した。
「いらない?」
「…………」
少女は、重そうな瞼を開いて、一瞬だけスープを見たが、やはり何も言わずに、顔を背けてしまった。
試しにスープを温め直して、もう一度尋ねてみたが、結果は同じだった。
「……食べないと、元気になれないよ?」
「…………」
そう話しかけてみるも、少女は目をそらして、何も答えない。
ルーフェンは、諦めたように肩をすくめると、寝台の宮棚にスープを置こうと、身を乗り出した。
ルーフェンの腕が、少女の頭上を通った、その時だった。
突然、少女が跳ね起きたかと思うと、すごい勢いで皿をとり、一気にスープを口に流し込み始めた。
「ちょっ──」
止める間もなく、飲み込んだスープを吐き出して、少女が激しく咳き込む。
辺りに飛び散ったスープが、予想以上に熱い。
それでも尚、咳き込みながらスープを飲もうとする少女を見て、ルーフェンは、慌てて皿を取り上げた。
少女は、スープが熱くて咳き込んでいる。
そのことに気がつくと、ルーフェンは手拭いを取って、彼女の口元を拭おうとした。
「馬鹿! 熱いなら、なんで無理に──」
飲もうとするの、と言いかけた、その瞬間。
少女が、いきなり口元にあったルーフェンの手に、思いきり噛みついた。
「いっ──!?」
あまりの痛さに、少女を払いのけようとして、堪える。
ゆるゆると息を吐いて、なんとか痛みをやり過ごしながら、ルーフェンは言った。
「……離して」
「…………」
鼻に皺を寄せ、まるで威嚇する獣のような目付きで、少女が睨んでくる。
だが、ルーフェンの険しい表情を見ると、少女はぱっと口を離して、今度は、怯えたように縮こまった。
頭を抱えて、少女はがたがたと震えている。
ルーフェンは、噛みつかれた手を擦りながら、戸惑ったように一歩下がった。
スープの熱さを確かめなかったのは自分の失敗だが、急に噛みついてきたと思えば、今度は怯え始めるなんて、少女の言動が理解できない。
どうすれば良いか分からず、とりあえずこぼれたスープを掃除していると、その時、扉を叩く音が聞こえてきた。
返事をすると、部屋に入ってきたのは、サミルであった。
「サミルさん……!」
思わぬ来客に声をあげて、振り返る。
サミルは、寝台の上で縮こまっている少女と、ルーフェンを交互に見ると、少し驚いたように瞠目した。
しかし、なんとなく状況を察したのか、柔らかく笑って歩み寄ってくると、持っていた数枚の皿を寝台の宮棚に置いて、返事をした。
「お久しぶりです。この子が、例の獣人の……?」
少女を示したサミルに、ルーフェンが頷く。
サミルとルーフェンが、こうして顔を合わせるのは、本当に久々であった。
同じ屋敷内に住んでいて、全く会わないと言うのも奇妙な話だが、ルーフェンはほとんど自室と執務室に缶詰になっていたし、サミルも来客の対応に追われていたから、落ち着いて話す暇もなかったのだ。
サミルは、姿勢を低くして少女の顔を覗きこむと、優しく微笑んだ。
「こんにちは、私はサミルと言います。貴女は?」
「…………」
案の定、少女はなにも言わない。
それどころか、新手の登場か、とでも言いたげな鋭い顔つきで、サミルを睨んでいる。
だがサミルは、そんなことは全く気にしていない様子で、寝台脇の椅子に腰かけた。
そして、持ってきた深皿の中身を、三枚の小皿に分けると、その内の一つを、木匙と共に少女の前に置いた。
皿の中には、牛乳でふやかしたパンの上に、たっぷりと蜂蜜がかけられた、パン粥が入っている。
「甘いものは、お好きですか? 一緒にお昼ご飯を食べましょう」
サミルはそう言うと、少女の横で、自分もパン粥を食べ始めた。
ルーフェンが、呆然とその様子を見守っていると、サミルは、そちらにも小皿を差し出した。
「ルーフェンも、よかったらどうですか?」
「あ……はい」
断る理由もないので、皿と木匙を受け取る。
いまいち、サミルがどういうつもりなのか分からなかったが、少女を挟んで、サミルと反対側の椅子に座ると、ルーフェンもパン粥を食べた。
温かい牛乳に浸したパンと、蜂蜜の甘味が、じゅわっと口に広がる。
そういえば、初めてサミルに出会ったときは、卵粥をもらったな、などと思い出しながら、ルーフェンは、黙々と木匙を口に運んでいた。
少女は、目の前に置かれた皿を見つめて、長い間、俯いていた。
時折、サミルやルーフェンを見ては、困惑したように視線をさまよわせていたが、ややあって、ぶすっとした顔つきになると、小皿を掴んで投げた。
からん、と音がして、寝台から転げ落ちた小皿の中身が、こぼれ出る。
ルーフェンは、落ちた小皿を拾おうとしたが、サミルはそれを制して、しーっと人差し指を唇に当てた。
少女に食べろと促さず、皿を拾えとも言わずに、サミルは、ただ自分のパン粥を食べている。
少女は、そんなサミルの様子を、注意深く伺っていたが、やがて、本当に何も言われないと悟ったのか、持っていた木匙を元の深皿に差して、ちびちびとパン粥を口に入れ始めた。
(た、食べた……)
声には出さなかったが、ルーフェンは、内心驚いていた。
この少女が、自らものを口にしているところを見るのは、初めてだったからだ。
少女は、食べているというより、パン粥の蜂蜜をなめているだけのようにも見えた。
それでも、自分の意思で食べているのだから、大きな進歩である。
部屋の周囲は、静かだった。
時々、屋敷の者が行き交う足音や、外から鳥の鳴き声が聞こえたりはしたが、それ以外の音は、なにもしない。
その内、そこに小さくすすり泣く声が混じってきたかと思うと、少女は、再びぽろぽろと涙を溢し始めた。
「…………」
身を絞るような、か細い泣き声。
ルーフェンは、サミルに習って黙っていたが、悲痛な声をあげて泣いている少女を、じっと見ていた。
しばらくすると、少女は嗚咽をもらしながら、いそいそと手を伸ばして、先程自分が投げた小皿を拾った。
サミルは、少女が小皿を差し出してくると、嬉しそうに笑って、ようやく口を開いた。
「ありがとうございます。拾ってくれるなんて、優しいですね」
返事はせずに、しゃくりあげながら、少女は、再び深皿のパン粥をつつき出す。
ルーフェンは、終始ぽかんとした表情で、サミルと少女のやり取りを眺めていた。
少女の食べる手が、止まった後。
汚れた寝台のシーツを替えてやると、少女は、また眠りに落ちた。
サミルとルーフェンは、少女が起きないようにそっと部屋の外に出ると、ふうっと胸を撫で下ろした。
「サミルさん、流石ですね。扱いがうまいと言うか、なんと言うか……」
感心してルーフェンが言うと、サミルは苦笑した。
「本当は、もうちょっと食べて欲しかったのですけどね。ダナ先生から、ほとんど食べていないと聞いていたものですから……」
ルーフェンは、首を左右に振った。
「いや、それでも大進歩でした。あの子が自分から食べてるところ、初めて見ましたし。俺なんか、スープを飲ませようとしたら、吐き出された挙げ句、思いっきり手を噛まれたんですよ」
くっきりと歯形のついて、軽く出血している掌を見せると、サミルは眉を下げた。
「ああいう子は、信頼してもらうまでが一番時間かかりますから。無理強いしたり、急かしたりすると、完全に自分の殻に閉じ籠ります。根気強く話していかないと、なかなか心は開いてくれないんですよ」
うーん、と唸って、ルーフェンは肩をすくめた。
「無理強いしたつもりは、なかったんですけどね。食べないと思ったら、急にスープ飲み出したり、泣いちゃったり……俺には、よく分からないです」
サミルは、ルーフェンの肩に優しく手を置いた。
「まあ、そう腐らないで。一度つらい経験をしてしまった子は、とても敏感になるのですよ。ルーフェンも分かるでしょう? こちらには無理強いしたつもりなどなくても、もしかしたらあの子は、スープを飲まなかったら叱られてしまうと思ったのかもしれません。心の傷が癒えるには、時間がかかりますから、今は見守ってあげましょう」
「…………」
ルーフェンは、サミルの言葉に頷きながら、少女とのやり取りを思い出していた。
寝台の宮棚にスープを戻そうとして、腕を伸ばしたとき、少女は途端に怯え出した。
もしあれが、少女から見て、腕を振り上げるような仕草に見えたのだとしたら、ルーフェンに殴られるとでも思ったのかもしれない。
サミルは、少し扉を開けて、眠る少女を一瞥した。
「精神面はともかく、泣いたり、起き上がったりする体力はあるようですから、少し安心しました。あまり薬に頼りきりなのも良くないですし、今晩は、睡眠薬を抜きましょう。あとは案外、女性が相手だと、反応が違うかもしれませんね。あの子は女の子ですから、女性が看てくれた方が、安心する可能性もあります」
ルーフェンは、一拍あけてから、そうですね、と返事をした。
そして、くすりと笑うと、冗談っぽく言った。
「だけど、もしそうなったら、少し妬けますね。俺が保護した動物が、最初に俺じゃなくて、他人になついたような、微妙な気分です」
サミルは、呆れたように笑みを返した。
「こらこら、女の子を動物だなんて」
「でも、半分動物みたいなものでしょう? 噛みついてきた時なんて、本当、人間っていうか凶暴な動物って感じで──」
その時だった。
ふと、聞きなれた慌ただしい足音が響いてきたかと思うと、書簡を手にしたロンダートが、ばたばたと駆けてきた。
「召喚師様ぁー! と、サミル先生も!」
嬉しそうに叫んで、二人の前で止まる。
ロンダートは、ぴしっと敬礼して見せてから、サミルに挨拶をし、それから、ルーフェンにぐいと顔を近づけた。
「獣人奴隷の件、シュベルテで聞いて来ました! どんぴしゃでしたよ、召喚師様!」
あまりにも前のめりになって言ってくるので、ルーフェンが、思わず一歩下がる。
そんなことにも構わず、がさがさと書簡を広げると、ロンダートは早速報告を始めた。
「なんで件の報告書が、未処理になってたかって話なんですが、召喚師様の読み通り、あの事件には続きがありました。なんと、例の獣人奴隷には、子供がいたらしいんですよ!」
はっと目を見開いて、ルーフェンが続きを促す。
ロンダートは、得意気な様子で、はきはきと言い募った。
「そもそも事の発端は、ハーフェルンの海岸に、数人の獣人が流れ着いていたことだったらしいんですけどね。珍しいって言うんで、奴隷商が捕獲したのは良いものの、その獣人たちは次々と死んでしまって、生き残ったのは、太股に赤い木の葉模様の刺青が入った、女性の獣人だけ。それが、召喚師様が見た報告書に書かれていた、獣人奴隷です」
書簡を一枚めくって、ロンダートは続けた。
「その獣人奴隷も、奴隷商の不正取引が露見した頃に、亡くなったみたいなんですがね。どうやら、捕まった奴隷商たちの証言で、死んだ獣人奴隷の女は、他の人間奴隷との子供を妊娠していて、しかも、その子供は既に売り飛ばされた後だった、ということが分かったそうなんです。それで、魔導師たちはひとまず、この事件を終わりとはせずに、しばらくその半獣人の子供を探していたんだそうですが、結局見つからず……。だから、報告書は未処理のまま、事件はお蔵入りになっていたようですね」
「人間と、獣人の、混血……」
呟いてから、ルーフェンは、息を飲んだ。
「じゃあ、その見つけられなかった半獣人の子供っていうのが……」
三人の視線が、部屋の中で眠っている少女に向く。
ロンダートは、大きく頷いた。
「ね? どんぴしゃだって、言ったでしょう? 決定的な証拠になるものはないですけど、他に生きた獣人がサーフェリアに来たって言う話も聞きませんし、ほぼ確実ですよ!」
「…………」
ルーフェンは、少女を見つめたまま、しばらく黙っていた。
実を言うと、ルーフェンが期待していた“事件の続き”は、本当はあの女性の獣人奴隷が生きていた、ということだった。
世間には死んだと公表していても、王宮が、彼女を貴重な獣人として生かしていた、なんてことも、あり得ない話ではないからだ。
ルーフェンが王宮にいた頃、生きた獣人を捕らえているなんて話は聞いたことはなかったから、可能性としては、低いと思っていた。
それでも、生きてくれていたら良かったのにと、期待していた。
もし生きていたなら、少女が、このサーフェリアでたった一人きりの獣人になることはなかったし、矢面にたって、好奇の目にさらされることもなかったからだ。
なんとなく、そんなルーフェンの心境を察したのだろう。
サミルも、騒いでいたロンダートも、神妙な面持ちで目を伏せた。
サミルは、ルーフェンの頭に手を置くと、穏やかな声で言った。
「……悩むのは後にしましょう。まずは、あの子の体調を回復させないといけません。大丈夫、きっと良くなりますよ」
「…………」
ルーフェンは、サミルの方を見て、小さく頷いたのだった。
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