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投稿日:2021年02月24日





 その夜、執務室で仕事を続けながらも、ルーフェンは、ずっと獣人混じりの少女のことを考えていた。

 獣人と人間の間に生まれた、混血の子供。
報告書が発行されたのは、一四七七年だから、この年より少し前に少女が生まれたと仮定すると、少女は十一歳か、十二歳といったところか。
生まれてから、彼女がどんな環境に身を置いてきたかは、あの全身の傷を見れば、大体察しがついた。

 本来ならば、獣人の血を引く少女なんてものは、シュベルテの魔導師団に引き渡すべきなのだろう。
王都がアーベリトになった現在でも、魔導師団の最高権力者は、召喚師であるルーフェンということになっている。
しかし、やはりサーフェリアにおける軍事の中枢は、旧王都シュベルテだ。
少女の存在が、ミストリアとの関係に波紋を呼ぶ可能性があるというなら、今回のことはシュベルテに任せた方が良い。
ルーフェンとて、最初はそのつもりだった。

 だが、その一方で。
少女の生い立ちを知った今、果たして本当に、シュベルテに彼女のことを開示する必要があるのだろうか、と考えている自分もいた。
少女は、ミストリアから来たのではない。
母親が獣人だったというだけで、サーフェリアで生まれ、サーフェリアで育ったのだ。
少女からミストリアの情報を引き出せはしないだろうし、サーフェリアにとって彼女は、さほど重要な存在、というわけでもないはずだ。
それなら、このまま少女を、アーベリトで匿っていても良いように思えた。

 シュベルテで獣人奴隷が発見されたときも、大騒ぎされたのだ。
もし少女の存在が知れ渡ったら、また話題になるだろうし、奴隷出身の獣人混じりなんて、どんな目で見られるか分からない。
もしかしたら、かつてのリオット族のように、邪険に扱われることになるかもしれない。
そうなるくらいなら、このアーベリトという街の中で、ずっと守っていてあげたかった。

(……なんか、サミルさんのお人好し菌が、移ったかな)

 会って三日くらいしか経っていないのに、いつの間にか、少女に深く同情している自分がいて、ルーフェンは自嘲気味に笑った。
以前ノーラデュースで、オーラントに『結局あんたは、正義の味方になりたいんだな』なんてことを言われたが、確かにその通りなのかもしれない。
シュベルテにいた頃は、そんな甘さは切り捨てるべきなのだろう、と考えていた。
だが、アーベリトの者達と過ごすようになって、最近は、それでもいいか、というような気持ちになっていた。

 まんじりともせず、ひたすら書面にペンを走らせていると、不意に、どこからか泣き声が聞こえてきた。
ふと手を止めて、隣の自室の方を見る。
おそらく、少女がまた泣いているのだろう。

(今晩は睡眠薬を飲ませてないから、寝付けてないのかな……)

 窓の外の夜空を一瞥してから、ルーフェンは、再び自室の方を見た。
一瞬、様子を見に行こうかとも思ったが、もうかなり夜も更けている。
こんな時間に行っては、逆に驚かせてしまうかもしれない。
日中も、眠ったり泣いたりを繰り返しているから、じきに泣き止むだろうと予想して、ルーフェンは、再び書類に目を落とした。

 しかし、ルーフェンの予想に反して、少女の泣き声はなかなか止まなかった。
だんだん、何か深刻な事態でも起きたのではないかと心配になってきて、ルーフェンは、手燭を持って部屋を出た。
様子を伺ってみて、何でもなさそうなら、すぐに戻ればいいだろう。

 返事がないのは分かっていたが、一応扉を叩いて、そっと開けてみる。
真っ暗な空間を、手燭の明かりで照らしながら、ルーフェンは自室に入っていった。

 寝台を照らしても、少女の姿がなかったので、一瞬驚いたが、よく見ると、少女は寝台と壁の隙間にうずくまって、ぐずぐずと泣いていた。

「……眠れないの?」

 ひとまず手燭を机に置いて、その場にしゃがみこむ。
なるべく少女を刺激しないように、少し離れた位置から、ルーフェンは問いかけた。

 そして、彼女と同じ目線になった瞬間、あることに気づくと、ルーフェンは身を凍らせた。
少女は泣きながら、自分の手首を、血が出るまで掻きむしっていたのだ。

「…………」

 言葉を失って、ルーフェンは黙りこんだ。
同時に、ああ、そうか、と思った。
そうか、この少女は、どこか自分に似ているのだ。
だから、まだ会って間もないのに、見ていてこんなに悲しくなるのだろう、と。

 この少女が抱える闇と、自分の内にある闇は、全く違うものなのだろうけれど。
それでも、よく似ていると思った。

 周囲のものを拒絶し、当たり散らして、行き場のない怒りと苦しみを持て余す。
そうして、周りが見えなくなっている少女の姿は、まるで王宮に入ったばかりの頃の、かつての自分を見ているようだった。

 ルーフェンは、一歩、少女に近づいた。

「……そんなこと、やめた方がいいよ。きっと、後で後悔するよ」

 びくりと震えた少女が、ルーフェンを見る。
その目には、明らかな怯えと警戒の色が見てとれた。

 ルーフェンは、少女の反応を探りながら、柔らかい声で言った。

「周り、見て。……ここには、君を助けようとしてる人が、沢山いるよ」

 もう一歩だけ近づいて、ルーフェンは、少女を見つめた。
その時、彼女の手首の状態がはっきりと見えて、ぞっとした。
出血が思ったよりも酷く、滴った血が、服にまで染み込んでいたのだ。

 心臓の鼓動が、速くなった。
自傷行為だから、多少出血している程度だろうと踏んでいたが、甘かった。
もしこのまま自傷を続けて、出血が止まらなければ、命に関わる。
かといって、怯えきっているところを、無理矢理止めに入れば、余計に彼女の恐怖心を煽ることになるかもしれない。

 どうすれば良いのか、分からなかった。
しかし、ふと呻いた少女が、自らの手首に噛みつこうとした時。
考えるより先に、ルーフェンの身体は動いていた。

 咄嗟に少女の腕を掴みあげて、逃げられないように、身体を引き寄せる。
すぐに解放した方が良いかとも思ったが、ルーフェンはそのまま、もがく少女の腕を押さえていた。

 彼女の歯には、おそらく人間よりも鋭い牙がある。
ルーフェンが手を噛みつかれたときも、出血した。
そんな歯で、今の傷だらけの手首に噛みついたら、本当に命に危険が及ぶかもしれないと思ったからだ。

「──いっ、いやいやっ!」

 ルーフェンの急な動きに、よほど驚いたのか、少女が初めて悲鳴をあげた。
なんとか逃れようと身をよじりながら、思いきり、ルーフェンの腕にかじりつく。
それでもルーフェンが、手を離してくれないと悟ると、少女は一層激しく泣きじゃくり出した。

 首を振り、半狂乱になって叫びながら、少女が暴れ出す。
ルーフェンは、しばらく少女のさせたいようにさせていたが、その悲痛な叫び声を聞いている内に、鋭い悲しみが胸に広がってきた。

 無理矢理喉の奥から絞り出したような、掠れた泣き声。
震えながら、力一杯抵抗している少女の腕は、力強くも、少しでも力を込めたら折れてしまいそうなほど、細かった。

 ルーフェンは、ゆっくりと空いている方の手を伸ばすと、少女の身体に腕を回した。

「……落ち着いて。嫌なこと、何もしないから」

 暴れる少女を抱き込んで、その場にしゃがみこむ。
少女は、嗚咽を漏らしながら、必死にルーフェンの肩を叩いたり、噛みついたりしていた。

「痛いっ、死んじゃう」

「死なないよ、大丈夫」

「死んじゃう、こわいこわいこわ──」

「怖くないよ」

 ルーフェンは、優しく語りかけるように言った。

「大丈夫。怖いものなんて、ないでしょ」

 しばらく攻防が続くも、暴れ疲れてきたのか、少女の抵抗する力が、徐々に弱まってくる。
激しく咳き込み、喘鳴しながら、少女は歯を食い縛っていたが、やがて、微かに身動ぎをすると、ぽつりと呟いた。

「……。……大丈夫?」

 ルーフェンは、はっと少女の顔を見た。
俯いていて表情は見えないが、今の言葉は、きっとルーフェンへの問いかけである。
ルーフェンの言葉に対して、少女が反応したのだ。

 少女を抱く腕に力を込めて、ルーフェンは答えた。

「……そう、大丈夫」

 しゃくりあげて、頻繁に上下する背中をさすりながら、何度も囁いた。

「大丈夫……絶対、助けてあげるから」

「…………」

 とくり、とくりと、小さな心音が伝わってくる。
少女は、ルーフェンの穏やかな声を聞きながら、長い間、すすり泣いていた。

 ようやく泣き止むと、少女は再び黙り込んでしまった。
気分が落ち着いたのか、寝台に戻しても、手首の手当てをしても、暴れることなく、されるがままになっている。
近づいても抵抗されないのは有り難いが、またしても反応を返してくれなくなったのは、少し残念であった。
先程、ルーフェンの言葉に返事をしてくれたのが、まるで嘘のようである。

 少女の傷ついた手首に包帯を巻くと、ルーフェンは尋ねた。

「きつくない?」

「…………」

 少女は寝台の上に座って、ぼんやりと俯いている。
ルーフェンは、しばらく寝台脇の椅子に座って、少女のことを眺めていたが、やがて、机に置いていた手燭を取ると、立ち上がった。

「……それじゃあ、俺、行くから。もし何か困ったことがあったら、呼んで。隣の部屋にいるからね」

 それだけ言って、踵を返したとき。
不意に後ろに引っ張られて、ルーフェンは立ち止まった。

 振り返れば、下を向いたままの少女が、ルーフェンの袖を掴んでいる。
ルーフェンは、少女に向き直った。

「……どうした?」

「…………」

 少女は、ルーフェンの顔を見ることもせず、じっと黙り込んでいる。
だが、ふとルーフェンの手元を一瞥すると、その手から手燭を奪って、握りしめた。

 ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎を見つめて、少女は、人形のように動かない。
しかしルーフェンが、手燭を取り返そうと手を伸ばすと、少女はきっとルーフェンを睨んで、威嚇してきた。
どうやら、少女の目当てはルーフェンではなく、手燭だったらしい。

 ルーフェンは、小さくため息をついて、再び椅子に座った。
そして、少女と手燭を交互に見ながら、問いかけた。

「……もしかして、暗いのが苦手だったとか?」

 先程、震えながら暗闇の中でうずくまっていた少女の姿を、思い出す。
もしかしたら、夜中に目が覚めて、部屋が真っ暗だったから、怖くなってしまったのかもしれない。
ルーフェンを引き止めたのも、手燭を持っていかれたくなかったためだと考えると、納得がいく。

 ルーフェンは、砕けた口調で言った。

「確かに、夜って怖い時があるよね。俺も小さい頃は、ふと目が覚めた時に、暗闇が怖くなることがあったよ。何かの視線を感じたり、寝台の隙間から、誰かが自分に掴みかかってくるんじゃないかって、想像してしまったりね」

「…………」

 相変わらず返事がないので、ルーフェンも言葉を止める。
サミルの言う通り、根気強く接していくべきなのだろうと分かってはいたが、先程からずっと一人で喋っているので、だんだん虚しくなってきた。

「……この手燭、部屋に置いておくから、そうしたら眠れそう?」

「…………」

 手燭を握る手に力を込めて、少女が唇を噛む。
彼女が、一体何を言いたいのかはよく分からなかったが、それでも、まだ何かに怯えているのは見てとれた。

 ルーフェンは、困ったように肩をすくめた。
少女からすれば、ルーフェンが隣にいることも嫌なのかもれないが、こうも怯えている姿を見せられては、このまま部屋に一人にするのも憚られる。


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