トップページへ
目次選択へ
投稿日:2021年03月30日






 ぱちぱちと音を立てて揺れる、暖炉の炎を眺めながら、二人は、しばらく黙り込んでいた。
沈黙の時間が長引くほど、なんだか自分は、とんでもない発言をしたのではないかという気持ちが、トワリスの中に募っていく。

 やがて、グラスを机の上に置くと、ルーフェンが唇を開いた。

「……じゃあ、試してみる?」

 トワリスが、目を上げて、ルーフェンのほうを見る。
ルーフェンもまた、射るような銀の瞳で、トワリスのことを真っ直ぐ見つめていた。

 不意に、ルーフェンが身を起こして、二人の距離が、徐々に縮まる。
ルーフェンは、薄い微笑みを浮かべていたが、それは、いつもの優しい笑みではなかった。
どこか寂しげで、それでいて熱っぽい、色香のある微笑みだ。

 肩が触れ合って、はっと身体を強張らせると、トワリスは、焦ったように声を上げた。

「あっ、あの、試すって、なにを」

 甘ったるい林檎の香りに混じって、柔らかな香油の匂いが、鼻先を掠める。
ルーフェンが羽織を貸してくれた時に感じたのと、同じ匂いであった。

 ルーフェンは、微かに目を細めた。

「じゃあ、まず……俺のこと、昔みたいに、また名前で呼んでよ」

「な、なまえ?」

 動揺の余り、聞き返した声が裏返る。
ルーフェンから離れるべく、後ろに下がろうとしたが、元々トワリスは、長椅子の端に詰めていたので、背後の手すりが邪魔で動けない。
トワリスは、ぶんぶんと首を振った。

「む、無理ですよ。出来ないです」

「……どうして?」

「いや、だって、……召喚師様は、召喚師様じゃないですか。そんな子供の時みたいに、礼儀知らずな真似、絶対にできません!」

 力一杯否定して、身をよじる。
するとルーフェンは、逃げ道を塞ぐように、長椅子に手をついた。

「だったら俺も、トワリスちゃんの呼び方変えるよ。それなら、おあいこだからいいでしょう?」

「は、はい? 何がいいのか、さっぱり──」

「そうだなぁ……あだ名ってことで、トワちゃん、とか、どう? 他にそう呼んでる人、いる?」

 言いながら、ルーフェンは、トワリスにのしかかるように、ゆっくりと距離を詰めてくる。
もはや、腕を回せば抱き締められるような至近距離に、トワリスの心臓が、いよいよ早鐘を打ち始めた。

 ルーフェンが、そっと耳元で囁く。

「トワ……ね、お願い」

 耳元に吐息がかかって、呼吸が止まりそうになった。
激しく脈打つ鼓動で、心臓が潰れてしまいそうだ。

 必死に首を振りながら、肩を押し返すと、ルーフェンは、案外すんなりと離れた。
しかし、安堵する間もなく、今度はルーフェンの左手が、彼を押し返したトワリスの右手を掴む。
掴む、というよりは、触れるという表現の方が合っているだろう。
ルーフェンは、トワリスの手を肩から外すと、指の腹で、彼女の手の甲をすっとなぞった。

 ルーフェンが、困ったように笑って、問いかけてくる。

「……そんな顔しないで。こういうのは、嫌だった?」

 顔を隠すように背けて、トワリスは、ぎゅっと目を瞑った。
とてもではないが、返事をするどころではない。
そもそもルーフェンは、何故そこまでして、名前で呼ばれたがっているのだろう。
役職名で呼ばれるより、名前で呼ばれた方が、親しみがあるからだろうか。
確かに、リリアナやカイルが、トワリスのことを『魔導師様』と呼ぶようになったら、寂しい気持ちになる気がする。

 混乱と羞恥で、すっかり沸騰しきった思考を巡らせている内にも、ルーフェンの細い指が、トワリスの指を絡めとるように触れてきた。
男にしては細いが、トワリスよりは大きくて、筋ばった手だ。

 いよいよ限界になって、トワリスは、か細い声を絞り出した。

「わっ……わかりました、から……手、離してください………」

 目を瞑ったまま、声を詰まらせながら続ける。

「ルーフェン、さんって、さん付けですよ。あと、二人の時だけです。立場が、あるので、普段は、召喚師様って呼びます……」

「…………」

 折角こちらが折れたのに、ルーフェンは、手を離してくれなかった。
さっきは抵抗したら、あっさり離れてくれたのに、今度は、離れるどころか、逆に手を握る力を、強められたような感覚があった。

「……トワの髪って、近くで見ると、珍しい色だよね。深い赤褐色」

 依然として指を絡ませながら、ルーフェンが、唐突に呟く。
恐る恐る目を開けると、ルーフェンの白銀と、視線がかち合った。

「な、な、なんで、いきなり、髪」

「……いきなりじゃないよ。前から思ってた、綺麗な色だなぁって。……伸ばさないの?」

 ついに、指を完全に絡めとるように、ルーフェンが手を握った。
ふ、と微笑んで、ルーフェンがもう一度顔を近づけると、トワリスの全身が、びくりと強張る。
頭の中が真っ白で、煮えたぎったように熱くて、もう何も考えられなかった。

 不意に、ルーフェンが、ぐ、と握っていた手を引いた。
長椅子の端に追い詰められ、半ば押し倒されるような姿勢になっていたトワリスは、え、と思う間もなく、上体を引き起こされる。
ルーフェンは、起き上がったトワリスから手を離すと、にこりと笑った。

「なーんて、これ以上やったら、流石に嫌われちゃうかな?」

「…………」

 一瞬、ルーフェンの発言が理解できず、トワリスは、座ったまま凍りついていた。
だが、一拍遅れて、ようやくからかわれていたことに気づくと、トワリスは、衝動的に拳を握った。

「ふっ、ふざけるのも大概にしてくださいっ!」

 突き出した拳が、ルーフェンの鳩尾に入る。
吹っ飛んだルーフェンは、長椅子から転げ落ち、その衝撃で、トワリスも床に尻餅をついた。

 ルーフェンが近づいて来ないようにと、トワリスは、両手をぶんぶんと振り回している。
何度か咳き込みながら、身を起こしたルーフェンは、腹を手で押さえながら呻いた。

「いったぁ……そんな、本気で殴ることないじゃん」

「ほっ、本気なわけないじゃないですか! 私が本気出したら、この程度じゃ済まないんですからね! 私にちょっかいかけて遊ぶ元気があるなら、休んでないで仕事でもしてください! ルーフェンさんの馬鹿馬鹿! 変態! 不潔!」

 思い付く限りの罵詈雑言を並べ立てながら、トワリスは、腰の双剣にまで手を伸ばした。
うっかり近づいて、間合いに入ろうものなら、切り捨ててやるとでも言いたげである。

 ルーフェンは、肩をすくめた。

「そんなに嫌だったなら、最初から殴って止めれば良かったのに。トワならできたでしょ?」

「…………」

 ぎろりとルーフェンを睨んで、反論しようと口を開く。
しかし、うまい言葉が見つからず、トワリスは、結局そのまま口を閉じた。
口喧嘩を挑んだところで、ルーフェンのからかいの種になることは、分かりきっていたからだ。

 トワリスは、ゆるゆると息を吐き出すと、弱々しく言った。

「嫌、っていうか……私は、冗談とか、笑って受け流すのが苦手なので……。ああいうのは、びっくりするから、やめてほしいです」

 ルーフェンが、微かに目を見開く。
一笑されて終わりかと思ったが、意外にもルーフェンは、返事に迷った様子であった。

 ルーフェンが、何かを言おうとした時。
不意に、部屋の外から、人の気配が近づいてきた。
二人同時に顔をあげて、思わず、息をひそめる。
単に、夜番の自警団員が、見回りで執務室の近くを訪れただけであったが、なんとなく二人は、気配が通りすぎるまで、じっと押し黙っていた。

 やがて、足音が聞こえなくなると、トワリスは、すっと立ち上がった。

「……もう遅いので、宿舎に戻ります」

 ルーフェンも立ち上がって、トワリスに向き直る。

「ああ、うん。そうだね。ごめんね、引き留めちゃって」

「……いえ、最初に押し掛けたのは、私なので」

 言いながら、長椅子に置いていた荷物をとろうとすると、同じことを考えていたらしいルーフェンと、手がぶつかった。
過剰なまでに反応したトワリスが、びくっと手を引っ込める。
ルーフェンは、驚いたように瞬いてから、トワリスの顔を見て、眉を上げた。

「……大丈夫? 顔、真っ赤だけど。酔っちゃった? それとも、まだ寒い?」

 ばっと腕を上げて、トワリスが、顔を隠す。
ルーフェンは、苦笑を深めると、取った荷物をトワリスの手に持たせて、穏やかな声で続けた。

「びっくりさせちゃったのは、俺が悪かったけど、仕事とはいえ、真夜中に男の部屋にきて、あんまりひょいひょいお酒飲まないほうがいいよ。まあ、一口だったけどね」

 そう指摘した途端、トワリスの顔が、更に赤みを増す。
トワリスは、突き放すようにルーフェンを振り払った。

「余計なお世話です! 馬鹿!」
 
 それだけ言って、トワリスは、さっさと扉から出ていったのであった。


- 95 -


🔖しおりを挟む

 👏拍手を送る

前ページへ  次ページへ

目次選択へ


(総ページ数125)