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投稿日:2021年05月01日





 ロゼッタと別れた後、ルーフェンも他街の賓客と話したり、持ち込んだ事務作業などをして時間を潰していたが、ふと気を抜くと、頭の中で、先程のロゼッタとのやりとりが再生されていた。
トワリスが気づくかどうかも分からないのに、ロゼッタに「耳飾りを大事につけていてほしい」だなんて、果たしてそこまで、口走る必要があったのだろうか。
ロゼッタが、こんな甘い囁き合いは、単なる戯れだと線引きできる相手であることは分かっている。
だから、これといって大きな問題はないのだが、それでも、自分がろくに考えもせず、半ば衝動的にあんな発言をしてしまったことが、驚きであり、また後悔するところでもあった。

 言葉でも行動でも、考えずに実行すると、意図せず大きな影響をもたらすことがある。
例え上辺だけのものでも、相手によっては、冗談では済まないことがあるのだ。
特に上層階級の人間と話すときは、どんな些細な会話、やりとりをしているときでも、いつも頭の片隅には、本当にその行動が正しいのか、慎重に推考を重ねている自分がいる。
たかが“婚約者ごっこ”をしている者同士の、意味のない睦み合いだと一蹴してしまえばそれまでだが、何かに執着を見せるような物言いをしてしまったことが、ルーフェンにとっては誤算であった。
相手がたまたまロゼッタだったから良かったものの、執着を見せるというのは、弱みを見せるのと同じようなことだ。
立場上、いつどんなことが脅迫手段に利用されるか分からない。
今ならそうと、冷静に判断できるのに、何故あの時、ろくに考えもせずに耳飾りを受け取って、あろうことか「大事にして」だなんて発言をしてしまったのか。
どれもこれも、うっかりトワリスを気遣ったせいである。

 褪せていく夕陽の光を見つめながら、ルーフェンは、悶々と考えを巡らせていた。
窓から差し込んでいた西日が途絶え、やがて、辺りが暗くなると、ひんやりとした夜の空気が、足元から這い上がってくる。

 灯りもつけず、ただ椅子に腰掛けて、部屋の一角を眺めていると、ふと、寝台と壁の隙間に、かつての幼かったトワリスが、うずくまっているように見えた。
暗闇に怯え、血が滴るまで手首に噛みつきながら、その小さな背を震わせていた。
周囲を拒絶し、身を振り絞るようにして泣いていた彼女の姿が、ひどく痛々しく、弱々しく目に映ったのを思い出す。

 トワリスが倒れた、と聞いたが、原因は一体なんなのだろう。
ロゼッタは疲れだと言っていたが、トワリスは、冷たい運河に飛び込んだ後も、悠々と歩いていたような娘だ。
肉体的にというよりは、きっと精神的に、負担になるようなことがあったに違いない。
失敗と不運が重なって、専属護衛を外されたことが悲しかったのかもしれないし、獣人混じりだなんていう特殊な出自だから、今まで何かしら、嫌がらせを受けてきたことがあったのかもしれない。
あるいは、ルーフェンの言った、ロゼッタにとってあんな耳飾りは大したものじゃない、という言葉が、トワリスにとっては余程ショックだった可能性もある。

 何か辛いことがあったのか、なんて尋ねたところで、おそらくトワリスは、何も答えない。
ロゼッタにも、別に何でもないと答えたようだし、ルーフェンが問うたところで、結果は同じだろう。
そういうなのだ、今も、昔も。
思えば、アーベリトで一緒に暮らしていたときから、トワリスは、助けてやると言っているのに、その手を振り払って、噛みついてくるような子供だった。
かといって、一人で何でもこなせるほど、器用なわけではない。
むしろ、見ているこちらが気を揉むくらい不器用で、抱える不安を吐き出すのも下手くそなのに、それでも唇を噛み締めて、一直線に走っていく。
疲れても、傷ついて倒れても、そういう生き方しかできない、呆れるほど頑固で、真っ直ぐな娘なのだ。
──そう思った時には、ルーフェンは、上着を羽織って部屋を出ていた。

 日が暮れ落ちて、燭台の炎だけがぼんやりと光る長廊下に出ると、辺りは、染み入るような静けさに包まれていた。
警備の者以外は、既にその日の業務を終え、自室に戻ったのだろうか。
もしかしたら今は、もう人々が寝静まる時間なのかもしれない。
時刻も確認していないし、そもそも、ロゼッタの言っていた医務室とやらに、確実にトワリスがいるかどうかも定かではない。
それでもルーフェンは、何かに突き動かされるような形で、足早に長廊下を抜けた。

 別館へと足を向け、吹き抜けの廊下に出れば、冷たい空気が肌をさする。
無情な夜風にさらわれて、足元をからからと転がっていく枯れ葉を見ながら、ルーフェンは、今までトワリスと交わした会話の端々を、ぽつぽつと思い返そうとした。

 いきなり運河に飛び込んでおいて、やれ助けは不要だっただの、余計なお世話だっただのと喚き出したときは、なんて面倒臭い女だと内心呆れたが、思えばトワリスは、出会ったときから扱いが面倒臭かった。
異様に足が速いから、捕まえるのも一苦労だったし、ようやく捕まえたと思えば、噛むは蹴るわの大騒ぎで、こちらは傷だらけになった。
怪我を手当てしてやろうとしているのに、唸って威嚇してくるし、食事を持っていっても、怯えて暴れて熱いスープをぶっかけてくる始末。
その様は、少女というより、まるで野生動物のようで、それでも諦めずに接して、ようやく少し打ち解けてきたかと思いきや、最初に懐いたのはルーフェンではなくサミルだったので、微妙な気分になった記憶がある。

 アーベリトで一緒に暮らしていく内に、やがて、トワリスも落ち着いて、ルーフェンに着いて回るようになったが、やはり彼女は不器用で、いまいち難しいところがある少女であった。
口下手ながらに必死に言葉を紡いで、遠慮がちにルーフェンの側に座っていたり、文字を教えてほしいと乞う姿は、手のかかる妹のようで可愛らしくもあったが、やはり、肝心な心の内は、なかなか明かさないところがあったのだ。

 街に連れ出してみても、露店に並ぶ品々や、目新しいものに逐一目を輝かせはするものの、眺めるだけで、子供らしく欲しいとは絶対に言わなかった。
地下に閉じ込められていた記憶が蘇るのか、夜闇が苦手で、上手く寝付けなかったときも、その理由を口に出すことさえしていなかったように思う。
最初はまだ泣くことが出来ていたのに、いつしか、涙すら飲み込んで、一人で堪えるようになっていた。
何かに耐えている時ほど、トワリスは、頑なに唇を結んでいる。
こちらもあえて問いただしはしなかったが、助けてだなんて言われたことがない。
だからこそ、目が離せなくて、放っておけなかったのだ。

 本音を表に出すまいとする気持ちは、ルーフェンにもよく分かる。
本心などさらけ出したところで、それが認められるわけではないし、今更誰かに、助けてほしいなどと考えることもない。
周囲から差しのべられた手を拒絶して、一人、部屋の隅で身悶えしていた幼いトワリスを見て、彼女と自分は、似ているのかもしれないと感じたことも、しばしばあった。
ただ、ルーフェンとトワリスで違うのは、きっと、彼女の場合、言わないのではなくて、言えないのだ。
不器用故に、上手く本音を伝えることができず、身の内に留める術しか持っていないのである。

 感情表現が下手くそで、存外に控えめのかと思いきや、そのくせ頑固ではあるので、一度思い込むと一人で突っ走りがちだ。
だから、周囲に上手く溶け込めるように、こちらが彼女の心の内を読み取って、手助けしてやらねばと、十五のルーフェンも、子供ながらにそう思っていた。

 特殊な出自ではあるが、トワリスは、心優しいごく普通の少女だった。
ルーフェンのように、己を縛る立場も、役割もないわけだから、人と馴染めるようになりさえすれば、アーベリトの穏やかな街中で、平々凡々に暮らしていくのが良いだろう。
そう、思っていたのに──。
レーシアス邸を出る直前に、突然魔導師になるなどと言い出したから、驚いたのだ。
本心を言えないだけで、決して気持ちを押し殺すことに長けているわけではないトワリスが、魔導師なんて向いているはずもない。
まして彼女は、獣人混じりだ。
読み書きもままならなければ、通常よりも魔力を持っていないのだから、実際に魔導師にまで上り詰める過程で、相当の苦労を要したのではないだろうか。

 そこまで彼女を駆り立てたものは、一体なんだったのか。
魔導師になりたいと打ち明けてきたとき、トワリスは、確か何と言っていたか。
所々記憶が朧気になっていて、はっきりとは思い出せない。

 五年の月日が経って、偶然にもこのマルカン邸で再会したときから、ずっとトワリスは、眉間に皺を寄せている。
なんとなく、ルーフェンの軽薄な態度が気に入らないのだろうなというのは勘づいていたが、それを抜きにしても、ハーフェルンでのトワリスは、終始居心地が悪そうに見えた。

 折角自由を得たのに、何故トワリスは、魔導師だなんていう窮屈な道を選んだのだろうか。
一方的な押し付けになってしまうが、人とは違う獣人混じりだからこそ、トワリスには、それに縛られず、普通に生きてほしかった。
トワリスの捕らわれる柵に、共感できる部分があったからこそ、ルーフェンでは叶えられぬ“普通”を、彼女には手にいれてほしかったのだ。
再会するまでは、過去の出来事になりつつあったが、まだそんな思いが心のどこかにあったから、トワリスを見ると、妙に苛立つのかもしれない。
彼女との会話を辿っていくうちに、ふと、そんな結論に至ったのだった。


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