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投稿日:2021年05月01日





 長い吹き抜けの廊下を渡り終えると、マルカン邸の所有する縦長の別館が、目の前にいくつも立ち並んでいた。
細い月を背景に、塔のように立ちはだかるそれらを、こうして間近に見るのは初めてである。
以前、その一棟一棟が、使用人たちの宿舎であったり、医療棟であったりと、個別に役割があるのだと、クラークが自慢げに話してきたのを覚えている。
その記憶だけを頼りに、訪れたのだ。

 息を潜め、整備された石畳を歩いていくと、棟の一つに、ちらりと灯りが見えた。
開け放たれた二階の窓から、わずかに光が漏れている。
それを見たとき、五年前、一人で二階の窓から飛び降りたトワリスが、当時の主人であった絵師の元へと戻ってしまったときのことが、脳裏に甦った。
行こうと思えば、どこにでも自由に跳んでいける脚を持っていながら、それでも彼女は、逃げようだなんて恐ろしくて実行できなかったのだろう。
頭の隅に追いやられていたトワリスとの記憶は、今でも思い返そうとすれば、ぽつりぽつりと瞼の裏に浮かんでくる。
──地下の闇の中で、震えていた姿も。
助けに駆けつけたときの、驚愕と困惑の狭間で揺れる、怯えたような顔つきも。

 月を覆っていた雲が流れて、ルーフェンの足元を、仄白い月光がなぞった。
足音を立てぬようにゆっくり歩いて、灯りの漏れる棟に近づくと、その影に隠れて、開いた窓の様子を伺った。
窓際に手燭をかけて、誰かが、腰かけて本を読んでいる。
それが、トワリスではない、見知らぬ女性だと悟った時──。
ルーフェンは、無意識に入っていた肩の力を、ふっと抜いた。

(……俺、何やってんだろ)

 自嘲めいたため息が、思わずこぼれる。
医務室とやらの場所を把握していたわけでもないのに、そう都合よく、トワリスを見つけられるはずがない。
見つけたところで、自分でも、どうしたかったのか分からない。
ただ、こんな風に静かな夜は、昔のように、トワリスも心細くなっているのではないだろうかと、根拠のない心配をしただけだ。

 祭典に招待された身でありながら、夜中に屋敷内をうろつくなど、我ながら、随分と怪しい行動をとってしまった。
警備の者に見つかっていたら、それこそちょっとした騒ぎになっていたかもしれない。
夜更けに大した理由もなく、元護衛役の女性を訪ねて徘徊していたなど、それこそトワリスの言う通り、変態である。

 早々に退散して、頭を冷やそうと踵を返した、その時だった。
不意に、首元に鋭い殺気が迫ってきて、ルーフェンは、咄嗟に身を翻した。

 迫ってきた素早い手刀を避けて、その手首を掴み上げる。
マルカン邸に侵入したならず者かと思ったが、その手首の細さに違和感を覚えて、ルーフェンは、思わず動きを止めた。
相手も、同じく不自然に思ったのだろう。
間髪入れずに蹴りあげようとしてきた脚を止めて、訝しげにこちらを見上げてくる。

 視界の悪い夜闇の中、驚いたように目を見開いて、二人は、つかの間互いを凝視していた。
しかし、やがて掴んでいた手を放すと、ルーフェンは口を開いた。

「……トワリスちゃん、なんでここに」

 間の抜けたような声で尋ねれば、同じく硬直していたトワリスが、我に返った様子で一歩後退する。
攻撃を仕掛けた相手が、まさかの召喚師であったことに焦ったのか、トワリスは、どぎまぎとして言葉を詰まらせた。

「な、なんでって……見回りに決まってるじゃないですか。今日からその、この屋敷の警備を命じられていて、夜番だったんです。最近、なんだか変な視線を感じることが多いので、巡回を……」

「警備……」

 言われてみれば確かに、トワリスは、自警団用のローブを着用している。
同時に、トワリスには休暇を申し渡した、と言っていたロゼッタの笑顔の裏が見えたような気がして、ルーフェンは、内心苦笑いした。
どうやらトワリスは、倒れた後、ロゼッタの専属護衛から外されて、マルカン邸常駐の自警団員扱いされることになったようだ。
つまりロゼッタは、ルーフェンが心配しているような素振りを見せたから、まだ現場復帰させていないだなんて、トワリスを気遣ったような嘘をついたわけである。

 トワリスは、睨むようにルーフェンを見た。

「召喚師様こそ、なんでこんな場所にいらっしゃるんですか。こそこそ隠れたりなんかしてるから、てっきり不審者かと……」

 危うく刀まで抜くところだったとぼやきながら、トワリスは、視線をさまよわせる。
今回に関しては、全面的にルーフェンが悪いので、責める気は毛頭ないが、トワリス的には、やはりばつが悪い様子だ。

 ルーフェンは、眉を下げて笑った。

「えーっと、ごめんね。なんとなく外の空気が吸いたくなったというか、お散歩したくなったというか……」

 夜中にうろついていたまともな言い訳など思い付かず、ひとまず適当に笑って、言い淀む。
案の定、疑いの眼差しを向けてきたトワリスは、少しの沈黙の後、すぐそばの棟の二階で、女性が本を読んでいることに気づくと、途端に軽蔑するような顔つきになった。

「お散歩って、まさか……夜中に忍び込んで、あの女の人に何かしようとしてたんじゃ……」

「いや待って。君の中で、俺ってそこまで最低な人間に成り下がってるの?」

 流石に心外だと否定して、首を振る。
だがトワリスは、眉をつり上げると、棟を指差して叫んだ。

「だってさっき、こそこそ隠れてたじゃないですか! あの女の人のこと見てたんですよね? 私、はっきり目撃しましたよ!」

「しーっ、声が大きい」

 慌ててトワリスの口を塞ごうとすると、その手を素早く手刀で叩き落とされる。
耳を逆立て、警戒した様子でずりずりと後退していくトワリスを見ていると、なんだか昔に戻ったような気分になった。

 ここで無理にトワリスを抑え込もうものなら、余計に大声をあげて、殴りかかってくるだろう。
寝静まった使用人たちや、警備にあたる自警団員たちに気づかれて、駆けつけられでもしたら、それこそあらぬ疑いをかけられそうである。
トワリスに会いに来たのに、いざ会うことが出来たら後悔するなんて、なんとも皮肉な話だ。

 ルーフェンは、やれやれと肩をすくめると、諦めたように息を吐いた。

「……トワリスちゃんに、会いに来たんだよ。倒れたって聞いたから、大丈夫かなと思って」

「……は?」

 目を見張ったトワリスが、再び硬直する。
余程驚いたのか、目をぱちくりと瞬かせる彼女に、ルーフェンは言い募った。

「何か、嫌なことでもあった? それとも、俺の発言が君を傷つけてしまったかな。もしそうだったなら、謝るよ。何にせよ、ハーフェルンで再会してから、ずーっと眉間に皺を寄せてるからさ。無理にとは言わないけど、よかったら、相談に乗るよ」

 毒気を抜かれたのか、ぽかんとした表情で、トワリスは凍りついている。
ややあって、声の調子を落とすと、トワリスは答えた。

「そ、相談って……別に、倒れたのは召喚師様のせいじゃありません。私の考えが甘かったというか、なんというか……とにかく、大したことじゃないです。大体、どういうつもりなんですか。ただの下っ端魔導師が倒れたからって、いちいち相談に乗るほど、召喚師様は暇じゃないでしょう」

 刺々しい口調で言いながら、トワリスは、目線を斜め下に落とす。
ルーフェンは苦笑すると、からかうような、大袈裟な口ぶりで言った。

「そんな冷たい言い方しないでよ。俺と君の仲じゃない。ほら、忘れちゃった? トワリスちゃん、暗いのが苦手だったから、今日みたいな夜は上手く寝付けなくてさ。怖くなる度に、俺やサミルさんのところに来て、一緒に──」

「ばっ、そんなの昔の話じゃないですか! 私もう十七ですよ!? 子供扱いしないでくださいっ!」

「しーっ、だから声が大きいってば」

 思いの外、トワリスが全力で応酬してきたので、慌てて人差し指を唇に当てる。
いちいち真に受けてしまうので、彼女に冗談は禁物らしい。

 頬を紅潮させ、怒りを露にするトワリスを見ながら、ルーフェンは、棟の石壁に背を預けた。

「……まあ、ここからは、真面目な話だけどさ」

 言いながら、ちょいちょい、とトワリスに手招きをして、隣に来るように促す。
予想通り、トワリスは一歩も近づいて来なかったが、ルーフェンは、そのまま続けた。

「トワリスちゃん、アーベリトに戻っておいでよ」

 刹那、明らかな動揺が、トワリスの目に走る。
驚愕と、そして微かな期待を宿した瞳で、じっとこちらを見上げてくるトワリスに、ルーフェンは、淡々と溢した。

「君を探している間に、昔のことを、色々思い出したんだ。君は魔導師になると言って、実際にそれを叶えた。立派なことだと思うし、そんな君に偶然再会できて、俺も嬉しく思うよ。……ただ、ハーフェルンでの君は、すごく窮屈そうに見える。トワリスちゃんの人生だから、好きなことをやればいいとは思うけど、君に、魔導師は向いていないんじゃないかな。もしかしたら君は、サミルさんや俺への恩返しのつもりで、魔導師を続けようとしているのかもしれないけど、別に俺たちは、お礼がほしくて君を助けたわけじゃない。だから、今更そんなことを気にする必要はないんだよ。普通とは違う出自に理解を示そうとしない連中や、嘲笑って利用してくるような人間の中に居続けるのは、君だって大変だろう? 倒れるくらい辛いなら、またアーベリトにおいで」

「…………」

 トワリスの目に、不安定な光が揺蕩っている。
一瞬、希望に閃いたその瞳は、ルーフェンの話を聞いている内に、やがて、暗い理知的な色に覆われてしまった。

「……私が、可哀想だからですか?」

「え……」

 悲しげなトワリスの口調に、思わず瞠目する。
トワリスは、何かを堪えるように拳を握ると、立て続けに問うた。

「獣人混じりで、居場所がなくて可哀想だから、そんなことを言ってくださるんですか」

 やり場のない感情を抑え込んでいるような、暗く、気落ちした声。
晴らそうと思っていたトワリスの表情が、一層曇ってしまったので、ルーフェンは狼狽した。

 可哀想だから、という言葉は、確かにその通りなのかもしれない。
過去に関わりがあったとはいえ、一介の魔導師に過ぎないトワリスをここまで気にかけているのは、他ならぬ、同情という表現が一番合っているだろう。
けれども、彼女に向けているものは、決して安っぽい哀れみなどではなかった。
本当に、心の底から、幸せになってほしいのだ。

 アーベリトに移ってきた時から、初めて自分の手で“助けてあげた少女”ということもあって、トワリスのことは、どこか特別扱いしていた自覚があった。
召喚師として国を守ろう、だなんて崇高な目標があったわけではなかったが、誰かに感謝をされると、少しは召喚師らしいことが出来たような気がした。
いつだって笑顔に囲まれている、サミルのような存在には、自分はなれないだろうし、なりたいわけでもない。
堂々と正義を掲げられる、日だまりのような暖かい存在の陰で、敵対するものを断ち切る“悪”として生きる方が、自分には性に合っている。

 それでも、泣きながら怯えていたトワリスの瞳に、徐々に光が戻っていく様を見ていると、つかの間、自分まで日だまりに足を踏み出したような気分になって、嬉しかった。
“サーフェリアに独りぼっちの獣人混じり”という彼女の境遇に、たった独りの召喚師として、同情していた節があったのだろう。
似ているようで、全く違う。
そんな彼女の幸せを願っていたかつての気持ちは、五年経った今でも思い出せるのだから、きっと本物なのだ。

 どんな言葉をかければ、トワリスの顔が晴れるのか分からなくて、ルーフェンは、言葉を探りながら言った。

「……可哀想、というか……ただ、消耗していく君を見たくないだけだよ。君は女の子なんだし、戦いの世界に身を投じるのも大変でしょう? 元はといえば、俺が軽い気持ちで魔術なんて教えてしまったのが、いけなかったのかもしれない。でも俺は、別に魔導師になってほしくて、トワリスちゃんに魔術や文字を教えた訳じゃないんだ。単に、可能性を広げてほしかっただけなんだよ。生い立ちが人とは違うからこそ、普通に幸せに生きてほしかった。アーベリトにいるなら、守ってあげられる。今まで、君がどんなことに悩んで、苦しんできたのか、俺には分からない。けど少なくとも、アーベリトに来たら、獣人混じりだからとか、そんな下らないことは気にせずに、暮らせると思うよ」

 言い終わっても、トワリスの表情は、沈んだままであった。
目を伏せ、何かを諦めてしまった様子で、黙りこんでいる。

 しばらくして、ふと目線だけ上げると、トワリスは尋ねた。

「……五年前、私が魔導師になるって言ったとき、召喚師様にどんなことを話したか、覚えていますか?」

「…………」

 答えに詰まって、ルーフェンは、何も言えなくなった。
先程も思い出そうとして、記憶をたどった部分だ。
覚えていようとも思わなかった五年前の会話なんて、そんなもの、一字一句覚えているわけがない。
そう思うのに、トワリスの決意を秘めていたであろう、その会話を忘れてしまったことに、ひどい罪悪感を覚えた。

 沈黙していると、再び視線を落としてしまったトワリスが、焦ったように言い直した。

「覚えてないですよね、あんな、些細な会話。申し訳ありません、変なことを聞いてしまって……」

 嘘でもいいから、何かを言おうと思うのに、まるで言葉が出てこない。
元来分かりやすいトワリスの表情からは、明らかな悲しみと、落胆の色が見えている。

 どうすれば良いだろう。
もし泣いているなら、涙を拭って謝れば機嫌が直るかもしれないが、なんとなく、トワリスにそんなことをするのは憚られたし、そもそも彼女は、泣いているわけじゃない。
手を握って、優しい言葉をかければ大概外さないが、それこそそんな真似をしたら、また殴られかねない。

 結局、一言も発せずにいると、トワリスが、軽く頭を下げた。

「お気遣い、ありがとうございます。……ですが、お断りします。確かに、アーベリトでの生活は楽しかったですし、いずれは、帰りたいとも思ってました。でも──」

 一瞬言い淀んで、口を閉じる。
しかし、すぐに顔をあげると、トワリスは、ルーフェンを真っ直ぐに見つめた。

「……でも、召喚師様の言う普通の幸せっていうものが、誰かに守ってもらいながら、穏やかに暮らすことなら……私は、そんなものいりません」

 口調こそ静かであったが、トワリスの言葉には、頑とした強い意思が込められていた。
揺らがぬ紅鳶の瞳が、ルーフェンを射抜く。
その目が宿す光を、ルーフェンは、以前も見たことがあった。

 記憶の片隅で、同じ目をした少女が、言った。

──もし、私が、サミルさんやルーフェンさんにとって、必要な人間になれたら……。また、レーシアス家に、置いてくれますか……?

 再度礼をすると、トワリスは、踵を返して歩いていってしまう。
その背中に声をかけようとしたが、ルーフェンは、戸惑ったように唇を開いただけで、声にはならなかった。
引き留めたところで、彼女を止めることは、自分にはできないような気がしたのだ。

 脳裏で、揺らめく蝋燭の炎が、書庫に並ぶ本の背表紙を、ゆらゆらとなぞっていく。
耳の底に、熱のこもった少女の声が、じわじわと蘇ってきた。

──私、二人の優しさに甘えて、ここで暮らすんじゃなくて、サミルさんたちにとって必要な人間になって、堂々とアーベリトに帰ってきます。

──絶対に、絶対に、帰ってきます。だから、そうしたら、私のこと、認めてください。

 静かな迫力に満ちた光が、少女の目の奥で閃く。
あの時も、今も、ルーフェンは、そんな彼女の瞳に浮かぶ強い光から、目を反らせなかった。


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