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投稿日:2025年12月31日
序章『布石』
夜風に靡いた草花が、さわさわと揺れて、膝下を擦っている。
全身を包む、ひんやりとした空気が心地良い。
水気を含んだ湿った土の匂いは、懐かしい故郷——獣人の棲む国、ミストリアのものにどこか似ているような気がした。
召喚術の才が見出せないという理由で、父王に命を狙われ、城を出てから約一年。
護衛役のユーリッドと共に、一時的にサーフェリアに逃げ延びたミストリアの次期召喚師、ファフリは、この日、父王の元へと帰ることを決意した。
海を超えてミストリアに戻るには、人間たちの住む国、サーフェリアの召喚師であるルーフェン・シェイルハートの移動陣の力を借りねばならない。
ファフリは、さざめく草花に視線を落として、穏やかな口調で言った。
「ルーフェンさんにしか、お願いできないことなの。ユーリッドやトワリスのことは、もちろん信じてるわ。でも、二人がこれ以上傷つくのは、私、耐えられない」
「…………」
「ルーフェンさんなら、この気持ち、分かってくれると思う。私ね、ミストリア城から旅に出て、もう沢山守ってもらったの。だから……今度は私が守る番。ルーフェンさん、お願い……」
静かな、しかし、はっきりとした強い意思が感じられる声だった。
ルーフェンは、しばらく言葉を詰まらせていたが、ふうっとため息をつくと、分かったと呟いた。
「……以前、君を無能な召喚師だと言ったことを、詫びるよ」
ルーフェンの返答に、ファフリが笑みを浮かべる。
ルーフェンも、微かな笑みを返すと、ファフリに手を差し出した。
「仰せのままに。ミストリアの、新女王陛下」
ファフリは、その上に手を重ねて、泣きそうな顔で笑って、頷いた。
「ありがとう……ルーフェンさん」
さあっと風が吹いて、髪が揺れる。
背後では、夜明け前の薄闇の中で、並ぶ木立が不安げにざわめいていた。
不意に、ファフリの手を握り返すと、ルーフェンが口を開いた。
「……その代わり……君に、頼みたいことがある」
「頼みたいこと……?」
鳶色の目を瞬かせて、ファフリが顔を上げる。
見つめ返してきたルーフェンの銀の瞳は、冴え冴えと輝く満月の明かりを反射して、幻想的に煌めいているように見えた。
ルーフェンは、真剣な声で続けた。
「……そう。君が今抱えていることが、全て終わってからでいい。ファフリちゃんに、協力してほしいことがある。……ミストリアの、召喚師として」
ファフリの目が、ゆっくりと見開かれる。
束の間沈黙してから、ファフリは大きく頷いた。
「……分かったわ。私やユーリッドがこうして立っていられるのは、トワリスや、ルーフェンさんたちのおかげだもの。私が、召喚師になれたら……何だって協力する」
微かに震える指先とは裏腹に、ファフリの瞳の奥で、確かな光が閃いた。
その淀まぬ光を見た時、ルーフェンは、きっとこの少女なら、やり遂げるのだろうと思った。
まだ年若きミストリアの女王は、後の新たな時代の変革者である。
そして、サーフェリアの召喚師、ルーフェン自身もまた、従来の歴史の在り方を、その手で壊そうとしていた。
母、シルヴィア・シェイルハートの代まで紡がれてきた、召喚師一族の系譜を破壊する。
先人たちが作り上げ、秘匿として護ってきた歴史に、終止符を打つのだ。
この選択により開けた道が、きっと未来へと続くはずだと、そう信じて進むしかない。
真に正しかったのかどうかは、解き放たれたその道の先へ、たどり着いた後にしか分からないのだから。
サーフェリアの召喚師として、己の成し遂げるべきことは、今、ここから始まるのだった──。
* * *
臆せず一歩踏み込むと、シャルシスは、指南役から突き込まれた木刀を跳ね上げた。
甲高い打撃音が響き、宙に飛んだ刀身が、くるくると回転して草地に落ちる。
とどめとばかりに、頭二つ分ほど高い指南役の首元に剣先を突きつけると、シャルシスは、そこでぴたりと動きを止めた。
「……参りました、殿下。お見事でございます」
指南役の男が、愛想の良い笑みを浮かべて、ぱちぱちと手を叩く。
木刀を引いて、体勢を戻すと、シャルシスは、汗の伝うこめかみを、手の甲で乱暴に拭った。
春先とはいえ、照りつけてくる日差しに容赦はなく、もう喉はカラカラだ。
頬に貼りついた亜麻色の髪は、鬱陶しげに払うと、汗でびっしょりと濡れていた。
荒い息を整えてから、シャルシスは口を開いた。
「体格差のある相手と対する際は、力任せに打ち込まず、相手が向かってきたその隙を狙うのだと、以前、騎士団の訓練に参加した時に教わった。そなたは、余よりも背が高い。教わったことを、試してみようと思ったのだ」
指南役は、おお、と大袈裟に声を上げた。
「なるほど、左様でございますか。時に、騎士団長も、殿下は大変飲み込みが速く、筋が良いと申しておりましたよ。殿下は魔術の才もおありですが、仮に騎士団に入団しても、遜色なくご活躍されるかと存じます」
「……そうか」
落ち着いた声で返事をすると、シャルシスは、ささくれ立った木の刀身を撫でた。
少し休憩いたしましょう、と手を出してきた指南役に、木刀を渡す。
指南役の言葉の数々が、世辞に過ぎないことを、シャルシスはよく分かっていた。
井戸で顔を洗い、侍従に服の用意を申しつけると、シャルシスは、稽古着を着替えるために自室へと向かった。
長廊下を進むと、こちらに気づいた従者たちが、慌てて脇に控え、深々と頭を下げてくる。
その中に、見慣れた薄緑の法衣を見つけると、シャルシスは、ふと足を止めた。
目の前でかしづいているのは、イシュカル教会の大司祭、モルティス・リラードと、その教徒たちであった。
「……モルティス、そなた、何故本殿にいるのだ。今は礼拝の時間ではなかったのか」
眉をひそめて尋ねると、モルティスは、頭を下げたまま答えた。
「火急の要件がございました故、陛下にご報告申し上げておりました」
(またか……)
シャルシスは、心の中でため息をこぼしたが、言葉には出さなかった。
ここのところモルティスは、何かと理由をつけては、本殿にやってきて、国王バジレットへの謁見を申し出ていた。
騎士団を総括する教会の大司祭という立場上、王と密接に関係するのは当然のことだが、それにしたって、ここ数月は頻度が高すぎる。
そのことを、つい目障りだと感じてしまうのは、モルティスが訪れた後は、必ずといっていいほど、バジレットの顔色が悪くなるからであった。
モルティスの言葉に限らぬことだが、王宮にいると、様々な"嘘"を聞くことがあった。
諸卿たちは皆、王族であるバジレットやシャルシスの顔色を伺いながら、やれ誰が不遜な行動をとっていただの、自分は国王の施策を支持しているだの、そういう、他人を蹴落とすための嘘や、自分を持ち上げるための嘘を、平気な顔をして仄めかしてしてくるのだ。
中には、真実も混じっているのかもしれないが、どちらにせよ、軽々しく不満や悪口を並べ立てる者の言葉に、熱心に耳を傾ける気にはなれなかった。
モルティスの場合は、大方、召喚師一族に対する疑義を唱えにきたのだろう。
イシュカル教会は、かねてより、召喚師ルーフェン・シェイルハートと敵対している。
特に、一年ほど前、王城にミストリアの次期召喚師を名乗る獣人たちがやって来た時から、教会による反召喚師派たる過激な行動が、顕著になっていた。
というのも、獣人たちを謁見の間で処刑したルーフェンの振る舞いを、王の居城を穢す行為だとして、モルティスが訴えているのだ。
元々、ルーフェンには、悪い噂が多くあった。
十四年ほど前、異形の術を使って前王サミルに取り入り、その七年後には、旧王都アーベリトを滅ぼしたのだとか。
また、その罪を母であるシルヴィアに被せて、挙句、今度はバジレットを操って、元の地位を取り戻したのだ、とか。
そもそも、その正体こそが悪魔で、前召喚師の子ではないのではないか、とか、とにかく、そんなような噂である。
昔から、彼の政策には疑問を抱く者も多かったし、かく言うシャルシス自身も、ルーフェンのことは少し苦手であった。
苦手というより、考えの読めない奴だ、という印象が強い。
教会に目の敵にされている割には、悔しがる様子もなく笑っているし、少なくとも、バジレットに怪しい術をかけていないことは確かであったが、それでも、飄々とした掴みどころのない態度を見ていると、安易に信用しよう、という気にはなれない。
だが、そんなことを言い始めると、教会にだって悪い噂は沢山ある。
主に耳にするのは、教会の台頭を狙った外患誘致疑惑や、不正行為に関するものだった。
軍部を支える二大勢力、教会と召喚師──その両方に、それぞれ良い噂もあるし、悪い噂もある。
それは、カーライル王家も例外ではなく、高齢になってから一時王座についた祖母バジレットが、陰で『老耄した愚王』だと囁かれていることも、シャルシスは知っていた。
本当に、心の底からくだらないと思う。
そんな噂話を気にして、いちいち振り回されるのは馬鹿馬鹿しいし、それらを調べ上げて、発言した者を不敬罪で罰するのも、時間の浪費になる。
とはいえ、反乱の可能性を見逃せないと考えると、完全に耳を塞ぐわけにもいかないのが、現実であった。
シャルシスの祖母、国王バジレット・カーライルは、このような瑣末なことには惑わされぬ、厳格な人間だ。
しかし、やはり年齢には逆らえないのだろう。
彼女は、心臓を患ってから長く、元来、そういった人同士の面倒事を嫌う性格である。
近頃は、誰かと話した後に体調を崩したり、気疲れしたりしている様子が、目に見えるようになったのだった。
返事の代わりに踵を返すと、シャルシスは、元来た廊下を戻り始めた。
気を緩めていた従者たちが、はっと表情を引き締めて、再び頭を下げる。
向かった先は、自室ではなく、祖母の居室であった。
警備兵と一言交わし、居室に踏み込むと、バジレットは、窓際の卓についていた。
普段は寝台に入っていることが多いので、本当につい先程まで、モルティスと話をしていたのだろう。
バジレットは、手にしていた書類を膝に置くと、扉の前に立っているシャルシスを見上げた。
「……何用だ」
鋭い視線を向けられて、シャルシスは、思わず口ごもった。
いかなる時も毅然とした姿勢の祖母を見ていると、シャルシスも、自然と背筋を伸ばさねば、という気分になる。
顔色はくすみ、頬も痩けているが、バジレットの瞳には、威厳の光が宿っていた。
シャルシスは、控えめな声で言った。
「……モルティスが、お祖母様の元に伺ったと聞いて……。その、差し支えなければ、今後しばらくの王宮内での謁見は、私が対応できればと。お祖母様は、ここのところ、お加減が優れぬご様子です。ご回復されるまで、しっかりとお休みになられた方が良いでしょう」
天蓋付きの寝台を一瞥すると、バジレットは、小さく鼻を鳴らした。
「問題ない。そなたはまだ若く、未熟だ。私の代わりなど、務まるはずもないだろう。……シャルシス、そんなことを言うために来たのか。そのような格好で」
祖母に指摘されて、シャルシスは、自分の姿に視線を落とした。
ついさっきまで、外で剣を振るっていた自身の稽古着は、汗と土埃で薄汚れている。
先に着替えてくるべきだったと後悔して、シャルシスは縮こまった。
「も、申し訳ありません……。中庭の方で、剣の指南を受けておりました故……」
バジレットは、呆れたように、再度ため息をついた。
直接的に咎められることはなかったが、返ってきた言葉には、苛立ったような響きがあった。
「もう良い、下がれ。私の体調のことなど、気にせずとも良い。つまらぬことを考える暇があるなら、その分、勉学と剣の修養に励め。来年、十五を迎えて成人すれば、そなたは王位を継ぐのだから」
「……心得ております」
短く答えて、やむを得ず、シャルシスは深々と礼をした。
こういう冷ややかな態度を見せつけられると、改めて、祖母は自分のことが嫌いなのだろうと実感する。
バジレットは、基本的に誰に対しても素っ気ない話し方をするが、それは、シャルシスが相手の時も同様であった。
王として立つ必要のない、二人きりの時間でまで、突き放すような振る舞いをするということは、つまり、そういうことなのだろう。
見かねた師や世話係たちが、わざとらしいほど優しく、シャルシスの話し相手にやって来るくらいだ。
客観的に見ても、バジレットのシャルシスに対する言動は、冷淡なもののようであった。
幼い頃は、親代わりである祖母の一言一言に傷つくこともあったが、今は、そうなるのも仕方がない、と思うようになっていた。
というのも、バジレットは元々、四十近くで病を得たことを理由に、政からは一切手を引いている。
つまり本来は、地位や権力よりも、静かな生活を好む人なのだ。
にも拘わらず、彼女が再び、政界に引きずり出される羽目になったのは、シャルシスが原因であった。
約十四年前、前王である父エルディオを含めた王位継承者たちが、次々と事故死を遂げたが、その時、生き残っていたシャルシスは、まだ赤ん坊で王位を継げる状態になかった。
そのため、カーライル家を守るために、王太妃のバジレットが、一時政権を握る他なかったのである。
当時、幼かったシャルシスに出来ることなど何もなかったとはいえ、結果的に老体に鞭打つような形で王座に座らされ、バジレットは、さぞ孫を疎ましく思ったことだろう。
おまけにシャルシスは、エルディオの正妻の子ではない。
身分の低い妾から生まれ、本来であれば、王位継承権など回ってこないような庶子であった。
不運が重なって、たまたま転がり込んできた王位継承権を手にした下賤の孫に、辟易することこそあれど、愛着など湧くはずがない。
バジレットとは、生まれてからずっと、唯一の肉親として王宮で暮らしているが、日頃から彼女は、シャルシスのことを褒めたり、認めたりしようとしてくれたことは一度もなかったのであった。
扉に手をかけて、居室を出ようとした時。
不意に、背後でドサッと物音がして、シャルシスは振り返った。
椅子から崩れるようにして、バジレットが倒れ込んでいる。
彼女の膝から雪崩れ落ちた書類が、ばらばらと床に流れて広がっていた。
「お祖母様……?」
扉の前で硬直したまま、シャルシスは呟いた。
一瞬、頭が働かず、ぼうっと立ち尽くしていたシャルシスであったが、祖母が微動だにしないことに気づくと、慌てて駆け寄った。
「お祖母様? お祖母様……!」
呼びかけながら、祖母の肩を揺すってみて、シャルシスはぎょっとした。
分厚い毛織のローブに包まれたバジレットの身体は、少し力を込めただけで折れそうなほど、痩せ細っていたのだ。
さっと血の気が引いて、指先が震え出す。
シャルシスは、立ち上がって扉まで走り寄ると、大声で警備兵に言った。
「おい、今すぐ医術師を呼べ! 早く……!」
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