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投稿日:2025年12月31日
トワリスの両腕に包帯を巻き終わると、ノイは、灯りに使っていたシシムの磨石を、壁掛けに戻した。
「少しきつめに巻いておいた。傷が塞がったら緩めて、様子を見て。ここでは、それ以上の治療はできないから、あまり悪化しないと良いんだけど……」
「……ありがとうございます。十分ですよ、大した傷じゃないので」
礼を言ってから、トワリスは、双剣の一本を鞘ごと剣帯から抜いて、軽く振ったり、器用に掌上で回したりしてみせた。
もう一本は、奈落に落下する途中で、どこかへいってしまったらしい。
今ある一本も、ジークハルトの攻撃を受けて刃こぼれしてしまったから、地上に出られたら、まずは新しく剣を調達しなければならない。
そんなことを考えながら、トワリスは、磨石の光を反射する刀身を、ぼうっと見つめていた。
次いで抜刀し、首の後ろに刃を当てると、トワリスは、ザンバラになっていた後ろ髪を一気に掻き切った。
赤褐色の髪がはらはらと落ちて、肩の上辺りで、真っ直ぐに切り揃えられる。
特別なこだわりがあるわけではなかったが、髪は結える長さにしていることが多かったので、ここまで短くしたのは久々だ。
頭が軽くなると、寂寥にも似た解放感が、すっと胸を通っていった。
「細かいところは、私が梳いてあげる」
そう言って、懐から小刀を取り出すと、ノイはトワリスの背後に回った。
褒められた髪質ではないので、人に髪を触られるのは恥ずかしかったが、地下には鏡もないので、素直に任せた方が良いだろう。
再び礼を言って、トワリスが岩の上に座り直すと、ノイは、慣れた手つきで毛先を切り揃え始めた。
巨大な水甕の隣に腰かけ、ぶらぶらと足を揺らしていたシャルシスは、二人のやりとりを、どこか落ち着かない心地で眺めていた。
ルーフェンや自分に憤慨するトワリスの姿を見て、最初は「軍部に属しているだけあって、気の強い女だな」と思ったが、こうしてノイとの会話を聞いていると、彼女の素の律儀さが伺える。
改めて見ると、トワリスは身体も小柄で、もしかしたら、上背はシャルシスよりも低いかもしれない。
リオット族と並ぶと、大抵の人間は華奢に見えるものだが、それにしたってトワリスは、とても国の精鋭として数えられる宮廷魔導師の一人には見えない風体であった。
しかしながら、腕に無数の傷が刻まれても平然としているところや、剣を軽々と扱っているところを見ると、やはり王宮に仕える下女や貴族の娘とは違うのだな、と感じられる。
トワリスは、今までシャルシスが接したことのない類の女だ。
まず、半獣人で女魔導師という時点で普通ではないのだが、それを差し引いても、まるで化粧っ気がなく、髪を躊躇なく刃物で切り捨ててしまうような思い切りの良い女は、シャルシスの周りにはいなかった。
岩の如き皮膚を持つ、異形とも言えるような姿のリオット族を初めて見た時も、正直腰が抜けるほど驚いたが、トワリスにはトワリスの、他にはない独特の雰囲気がある。
そう感じるのが、人とは違う毛に覆われた耳が生えているからなのか、女だてらに死線をくぐり抜けてきた気迫を秘めているからなのか。
ルーフェンと対等に口喧嘩をしていたということも相まって、シャルシスは、トワリスから目を離せないのであった。
あまりじろじろ見るのは良くないな、と思いつつ、トワリスの耳の辺りを凝視していると、視線を感じたらしい彼女が、目だけをこちらに向けてきた。
「……殿下、どうかしました?」
「えっ⁉︎ いや、別に……」
思わず否定して、シャルシスは目を逸らす。
本当は、人間とは音の聞こえ方が違うのか、とか、ミストリアに行って帰ってきたのは真実か、とか、色々と聞いてみたかったが、好奇心で触れて良い話題なのかどうか分からない。
咄嗟に剣の方に視線を移すと、シャルシスは、話の矛先を変えた。
「そなたの剣にも、やはり魔術がかかっているのか? 宮廷魔導師は、それぞれ特注の武具を扱うと聞く」
トワリスは、剣帯に剣を戻した。
「ああ……いえ、これは普通の鉄剣ですよ。私はあまり魔術が得意でないので、魔法具は使えないんです」
「使えない? 魔導師なのにか?」
純粋な疑問であったが、尋ねてから、シャルシスははっと口をつぐんだ。
獣人族は、召喚師一族を除き、魔力を持たないという。
そのことが、トワリスが魔術を得意としない理由に関係しているのか、シャルシスは知らなかったが、思いがけず嫌味な聞き方になってしまった。
シャルシスの焦りを察したのだろう。
くすりと笑うと、トワリスは、気にしていない様子で答えた。
「そう、魔導師ですが、生まれつきの魔力量が少ないので、大した魔術は使えないんです。最近は騎士団に入る女性もいるみたいですが、私が軍部入りを目指していた当時は、女が入れるのは魔導師団だけだったので、選択肢が一つしかなかったんですよ。まあ、今の騎士団は教会の管轄ですから、どっちみち入る気はないですけど、適性だけ考えれば、私は騎士団の方が向いていたのかもしれませんね。魔導師団の入団試験も、ほとんど脚力と腕力に物を言わせて通った記憶がありますし……」
少しおどけた口調で言って、ぐっと拳を握って見せると、シャルシスがつられたように笑う。
次いで、髪を梳いているノイと、トワリスを交互に見ると、シャルシスは、興味津々といった風に問うた。
「やはりトワリスは、噂通り身体能力が優れているのだな。リオット族も、拳で岩を砕くほどの剛力と言うだろう。……どちらが強いのだ?」
瞬いたトワリスとノイが、互いに目を合わせる。
ノイは、切長の片目を細めると、呆れたように言った。
「子どもはすぐそういう話をしたがるわね。力なんて個人差があるのだから、一概にどっちが強いなんて決められるわけがない」
「こっ……そんなことは分かっておる! ただ、ちょっとした好奇心で聞いてみただけではないか。余は、獣人。ともリオット族とも、こうして間近で話すのは初めてなのだぞ。……き、気になるだろう、普通!」
「…………」
沈黙の後、トワリスとノイが、再び顔を見合わせる。
子ども扱いされたことが癪に触ったのか、顔を赤くして怒るシャルシスに、トワリスは苦笑した。
「多分、魔力を使わない単純な力比べなら、リオット族の方がずっと強いですよ。普通の人間の感覚がいまいち分からないので、なんとも言えませんけど、私はちょっと身軽ってだけで、力が強いわけじゃないです。素手で岩を打ち砕いたり、くしゃみをした拍子に大剣を折り曲げたり、転んで家の壁をぶち抜いたり……そんなことはできませ──」
「──待て。どこからきたんだ、その誇張表現は。私たちリオット族だって、そこまでの芸当はできない」
トワリスの言葉を遮って、ノイが訝しげに眉を寄せる。
しかし、トワリスの声にふざけた調子はなく、彼女は、本気でリオット族をそのように認識しているようだ。
少し考え込んだ後、合点がいったように嘆息すると、ノイは肩をすくめた。
「そうか、トワリス……貴女はハインツと同輩なのでしょう。アーベリトが王都だった頃から彼と共にいる魔導師って、貴女だったのね。……言っておくけど、ハインツと私達を、一括りにしてはいけない。小さい頃はそうでもなかったが、彼は成長するにつれて、抜きん出て力が強くなった。魔術の才能もあったようだから、ハインツは特別なんだ」
トワリスは、ぱちぱちと瞬いた。
「あ、そうなんですね……。アーベリトにも、リオット族の方はいたんですけど、私、ハインツ以外とちゃんと話すのは初めてで……」
予期せぬ流れで、ハインツの話題になって、トワリスは言葉を濁した。
ハインツは今、地上で魔導師団側に残っている。
激しい戦闘の中で、思いがけず離れ離れになってしまったが、あの場で別れなくても、リリアナの家で話し合った時点で、既に彼との袂は分たれていたように思う。
無事であれと願ってはいるが、再びハインツと合流しようという気になれないのは、彼こそ、魔導師団に残るべきなのかもしれない、と思う気持ちがあるからだ。
召喚師としてのルーフェンの理想に共鳴していたハインツは、ルーフェンが自ら地位を捨て、魔導師団と敵対することを選んだことに、ひどく動揺しているようだった。
わずかな空気の変化を感じて、シャルシスが押し黙る。
トワリスの肩に落ちた、細かな髪を払いながら、ノイが呟いた。
「……そういえば、ハインツはルーフェンを追ってこなかったのね。昔から彼にべったりだったから、絶対に来ると思ったんだけど……」
感情の読めない、淡々としたノイの声。
どう答えるべきか、慎重に言葉を選びながら、トワリスは口を開いた。
「途中までは、一緒でした。ルーフェンさんが急にいなくなって、ハインツもすごく困惑していたので、私と団を離反して、ノーラデュースまで来たんです。でも、この奈落に落ちた時に、はぐれてしまって、彼は今、地上で宮廷魔導師たちと共にいます。ただ……ごめんなさい。連れ戻しに行くつもりはありません。ここでルーフェンさんと私が助けに行くのは、彼の意思に反するのかもしれない、というか、選択を狭めることになってしまうと思うんです」
ふと、髪に触れていたノイの手が止まる。
暗い岩窟の壁を透かすように見つめて、トワリスは続けた。
「こっちに余裕がない、っていうのもありますが、ハインツは、退団を決めた私と違って、まだ団に残りたい気持ちがあるみたいでした。シュベルテを出た時、私がルーフェンさんを追うって言ったら止めてきましたし、ルーフェンさんを見つけた時も、王宮に戻って召喚師制を変えればいい、と説得しようとしてました。彼は多分、迷っているんだと思います。ルーフェンさんにつくか、魔導師団側につくか……。一度離反したのも、ルーフェンさんに追いついて同行しよう、というよりは、とにかくルーフェンさんと魔導師団の衝突を防ぎたい、という思いで、私に着いてきてくれたようでした。でも、結局両者の衝突は防げませんでしたし、現実的に考えて、もうルーフェンさんは後戻りできない状況です。幸い、なんて言えませんけど、ルーフェンさんと戦って、魔導師たちもかなり深手を負っていました。だから、地上に残ったハインツが今すぐに捕らえられて、離反した罰を受けるようなことは無いと思います。残った時間で、ルーフェンさんを追って奈落に下るか、処罰を受けることも覚悟で魔導師団に戻ろうとするのか、あるいは、どちらにもつかずに姿を消すか……。どうするのかは、ハインツの自由です」
「…………」
ノイがずっと黙っているので、トワリスは、恐る恐る振り返った。
ノイとハインツの関係は分からないが、さほど数のいないリオット族同士ともなれば、身内同然だろう。
身内だからこそ、ここに至るまでの経緯や、トワリスが知る限りのハインツの気持ちを、偽りなく伝えるべきだと思ったのだが、助けに行くつもりはないと断言するのは、流石に無神経だっただろうか。
そっとノイを見上げると、彼女は驚いたような、放心したような顔で、隻眼を見開いていた。
やはり、ハインツを見捨てたともとれるような発言をするのは、良くなかったのかもしれない。
トワリスは、慌てたように頭を下げた。
「助けてもらった立場なのに、本当にすみません。私も、ハインツのことは心配なんです。でも、今ルーフェンさんや私が戻ったら、今度こそ魔導師たちと殺し合いになりますし、仮にハインツを助け出せても、それが彼の意思にそぐわないことなら、意味がないと思うんです。ハインツだって、もう一人前の魔導師なわけですし、自分のことは自分で決めるべきというか、なんというか……」
言い淀むと、ノイは、我に返ったように手を振った。
「あ、いや……違う。急に黙ってしまって、ごめんなさい。ハインツが、ルーフェンや貴女に反論したというから、少し驚いただけで、別に彼をここに連れてきて欲しいと思ったわけじゃない。自分のことは自分で決めるべきだ、というのは私も同意見だし、他のリオット族の皆も、今の話を聞いて、貴女たちを責めるようなことはしないわ。ハインツが自分の意思で決め、行動したことなら、私たちは何も言わない。彼がどこでどう生きようと自由だし、その結果、命を失うようなことになったとしても、それは意味のある死だったとして受け入れる。……というか、私たちリオット族にこそ、ハインツの生き方に口を出す権利なんてないんだ」
「権利……?」
意味を問うように顔を上げると、ノイは、寂しげな笑みを浮かべた。
「確かにハインツはリオット族で、私たちの同胞よ。でもハインツは、私たちのことを、同胞とは思っていないでしょう。だからこそ、商会に入った他の男たちには着いていかず、一人でルーフェンと共に行くことを選んだ。あれ以来、十年ほど、私たちはハインツと会っていない。長が何度か顔を見せに来いと伝えているけれど、来たことがないから、多分、そういうことなのよ」
「…………」
情の深いハインツに限って、そんなことはないだろう。
そう返そうとして、トワリスは口をつぐんだ。
言われてみれば、確かに、ハインツからノーラデュースで暮らしていた頃の話を聞いたことがない。
話題に上がることはあったが、彼がその思い出を語るようなことはなかったし、アーベリトにいた頃も、ハインツと商会のリオット族が話しているところは見たことがなかった。
ノイは、昔を思い出すように、すっと目を細めた。
「約三十年前、ノーラデュースに追いやられてから十五年近く、私たちリオット族は、何もない地下での生活を強いられてきた。食べるものと言えば、時折迷い込んでくる土蛇くらいで、それも保存が効くわけではないから、腐った血肉でなんとか飢えと渇きをしのいでいる状態だった。餓死を恐れて地上に這い上がれば、見張りの魔導師に殺され、やむを得ず、仲間の死肉を漁り出した頃には、皆、生きる希望を失っていた。そんな中で、もう一族は滅んでいくしかないのだろうと悟った私たちは、ある掟を作った。一族の中で、子を産むことを禁じたのよ」
トワリスが、何かを察したように瞠目すると、ノイは、力なく頷いた。
「……そう、ハインツは、それでも生まれた子どもの中の一人だった。掟が決まってから、出産が見つかった親子は、罪人として処罰されることになった。一族から追放され、餓死するまで、一切の食べ物も水も分けてもらえなくなるんだ。最初の頃は、抵抗する者もいたが、ハインツの母親は、運命を受け入れたかのように、隅にうずくまって泣いていた。泣くだけで大人しくしていたから、数月放置していたのだけど、いつまで経っても泣き止まないので、様子を見に行って、驚いた。泣いていたのは、母親の方ではなかった。赤ん坊が──ハインツが、餓死して腐敗した母親の腕の中で、ずっと泣いていたんだ。生まれてから、飲まず食わずの子どもが、数月も生き延びていたの。信じられないでしょう? 思えばハインツは、あの時から特別だった」
一呼吸置いて、ノイは言い募った。
「当時は私もまだ子どもだったけど、親の死体を退けたハインツが、自力で這い出してきた時のことは、よく覚えている。大人たちも驚いて、呆然とその姿を見ていたわ。正直、どうして生きているのか分からなかったし、気味が悪かった。ついに一人で歩き出して、食糧庫に盗みに入った時も、ハインツに対してだけは、誰も何も言わなかった。皆、仕方ないことだと言い聞かせているだけで、同族殺しをしている罪悪感はあったんだ。だから、あの過酷な環境を乗り越えて見せたハインツを、あえて殺そうという者はいなかった。……まあ、だからといって、一族の輪に入れようともしなかったから、一人孤独に生き残ってしまったことが、ハインツにとって良いことだったのか、悪いことだったのかは分からない。あの頃は、自分以外を気にかける余裕なんてなかったし、きっとハインツは、私たちを恨んでいるのだろうと思っていたから、いつも離れたところで一人過ごしている彼を見ても、今更何を言えば良いか分からなくて、声をかけられなかった。そういう仕打ちを受けてきたから、ハインツは、人との接し方も分からない、気弱な性格になってしまったんだろう。もう謝る資格すらないことは分かっているけど、ルーフェンから、街中を一人で出歩くこともできないハインツの話を聞いては、申し訳ない気持ちになっていた。……その彼が、貴女たちに意見してまで背いたというなら、どうしても譲れない立ち位置が出来たんでしょう。ハインツが選んだ居場所に、私たちがとやかく言う資格はない」
「…………」
言い終えて、嘆息したノイを見て、トワリスは、ふと七年前に交わした、ルーフェンとの会話を思い出した。
トワリスが、かつて王都だったアーベリトに移り、初めてハインツと出会った時。
見かけによらず臆病で、道行く人々にも驚いて飛び上がっていたハインツを見て、トワリスも疑問に思ったのだ。
何故ルーフェンは、ハインツを魔導師としてそばに置いているのだろう、と。
ハインツの卓越した地の魔術、屈強さは、確かに類稀な才能であるが、それにしても、当時の彼の気弱さ、不器用さは現在の比ではなく、とても魔導師としてやっていけるような器には見えなかった。
にも拘わらず、ルーフェンはハインツを城館に住まわせていたので、それとなく理由を尋ねたことがある。
するとルーフェンは、「彼は商会にいるより、俺たちの近くで、魔導師の仕事をしていた方が良さそうだったから」と答えた。
後にハインツが、自身の制御しきれないほどの剛腕に思い悩んでいたと知り、一般人として生きていくことは難しいと判断したルーフェンが、彼の身元を引き受けたのだと納得したが、その背景には、ハインツとリオット族との軋轢も含まれていたのだろう。
ルーフェンは、冷静に物事の取捨選択しているように見えるが、その実、本当に居場所のない人間を、簡単には見捨てることができない人だ。
トワリスとハインツは、そんなルーフェンの素の性格を、身をもって知っている。
だからこそ、トワリスもルーフェンを見捨てようとは思えないし、ハインツにも、その気持ちはあるはずだ。
それでも、断固としてルーフェンの決断に背いたのは、ハインツの中で、魔導師団と敵対したくないという想いが何より先行したからだ。
勿論、トワリスにとっても、ジークハルトをはじめとする魔導師たちは大切な仲間である。
しかし、その生い立ちから、ハインツはトワリス以上に、憎しみ合うこと、対立することへの恐怖心、嫌悪感が強いのだろう。
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