トップページへ
目次選択へ
投稿日:2025年12月31日






 長い長い洞窟を歩き続けて、ようやく出口に辿り着くと、冷たい夜気が三人を包み込んだ。
ノーラデュースは、日中は灼熱の荒野と化すが、夜は着込まねば越せないほどに冷える。
しかし今は、これらの過酷な条件が、良い隠れみのである。
この環境を利用して、魔導師たちが動きやすくなるだろう時間帯になる前に、奈落から離れて行方を眩ませなければならなかった。

 外に出ると、そこは、四方を岩壁に囲まれた窪地になっていた。
梯子はしごでもあれば、それを足がかりに登れそうな高さだが、身一つでは届きそうもない。
岩壁を階段状に変形させて、よじのぼっていくしかないかと、ルーフェンが指先に魔力を込めた時。
トワリスがそれを制して、腰の鉤縄かぎなわに手をかけた。

「付近にバーンズさんたちが潜伏していたら、少しの魔力でも探知される可能性があります。私が先に登って、上から縄を垂らすので、少し待っててください」

 言うや、縄を振り回して勢いづけると、トワリスは、鉤を岩壁の上へと高く放った。
縄をぐいぐいと引っ張って、鉤の爪が、しっかりと地面にかかったかを確認する。
そして、縄を腕に巻きつけ、後ろに下がって助走をつけると、トワリスは、重さを感じさせない動きで跳び上がった。

 リオット族の身体能力を、頑健な獣のようだと称するなら、トワリスの俊敏さは、まるで風を意のままに操る木の葉のようだと、昔から思っていた。
彼女は、半獣人ゆえに、半端な魔力を織り交ぜてようやく人より運動神経が良くなるくらいだ、などと言うが、普通の人間が魔術で身体を強化したとしても、あんな動きはできない。
なんなら、純血の獣人族の動きとも、少し違うように感じる。
ルーフェンは、獣人たちの種ごとの特性を詳しく知っているわけではないが、それでも、トワリスの身のこなしは、彼女が生きてきた中で、独自に習得してきたものなのだろうと思う。
魔導師としてのトワリスが見せた強さ、しなやかさは、初めて出会った時、周囲を威嚇して逃げ惑っていた少女にはないものだった。

 瞬く間に岩壁を駆け登り、近くの巨石に鉤縄を巻き直すと、トワリスは、窪地に縄を垂らした。
降りてきた縄を受け取って、ルーフェンが、シャルシスに先に行けと示す。
シャルシスは、夜闇と混ざり合っている岩壁の頂上を見上げて、不安げにつぶやいた。

「……これ、本当に大丈夫か? おれは、リオット族やトワリスみたいに、崖登りなんてできないぞ」

 ルーフェンは、おかしそうに肩をすくめた。

「そんなの、俺にもできないよ。大丈夫、上でトワが引っ張り上げてくれるだろうから、君はしっかり縄を持ってればいい」

「……この縄、途中で切れたりしないか?」

「仮に切れても、落ちて死ぬような高さじゃない。ま、位置によっては、俺が受け止めてあげるよ」

「い、位置によっては……」

 ルーフェンの冗談に気が抜けたのか、強張っていたシャルシスの表情が、わずかに緩まる。
しかし、先導のトワリスに、人間離れした登り方を見せられただけでは、自分が登り切るところなど想像できないのだろう。
縄の強度を確かめるばかりで、なかなか登ろうとしないシャルシスに、ルーフェンは苦笑を浮かべた。

「貸してごらん。俺が登って問題なければ、君の重さでも縄は切れない。……それか、どうしても怖いなら、俺が担いでいってあげるけど?」

「…………」

 シャルシスは、不機嫌そうに眉を寄せると、縄の先端をルーフェンに投げつけた。
くすくすと笑ってから、手を振って、地上のトワリスに合図を送る。
途端、ぐっと引っ張り上げられた縄を伝って、ルーフェンは、岩壁の凹凸を足場に、上へ上へと登っていった。

 頂上に辿り着くと、ルーフェンは、差し出されたトワリスの手をとって、ようやく窪地を脱した。
数日ぶりの地上を仰げば、星の降るような夜空が、天一面に広がっている。
真っ暗な洞窟内では心強かった磨石の光も、仄かな月明かりの下では、ほとんど役に立たなかった。

 トワリスは、もう一度窪地に縄を放ると、シャルシスにそれを腰回りで結ぶように指示してから、ゆっくりと引っ張り始めた。
だが、手を貸そうとしたルーフェンが、横から近づいた瞬間、驚いたように後ずさる。
弾かれたようにこちらを見たトワリスに、ルーフェンは、思わず両手を上げた。

「……ごめん、手伝おうかと思って。……というか、俺が代わるよ。腕、怪我してるんでしょう」

「いえ! 人一人くらい、私だけで平気です」

「…………」

 過剰に反応してしまって、気まずくなったのだろう。
恥ずかしそうに俯いて、トワリスは、縄の引き上げを再開させる。
その横顔が、また紅潮しているのを見て、ルーフェンは、微かに目を逸らした。
これを演技だと思えないのは、やはり自分が、トワリスの色仕掛けとやらにまんまとハマっているからなのだろうか。
再び込み上がってきた思いを、必死に飲み下しながら、ルーフェンは、懸命に岩壁を登ろうとするシャルシスを見下ろしていた。

 手伝い不要と言われたものの、横でぼーっと突っ立っているのも申し訳ないので、ルーフェンは、シシムの磨石をトワリスの手元に近づけた。
あってないような光だが、間近で照らせば、トワリスの細い指先や、赤褐色の髪一本一本が分かるくらいには明るい。
切れてしまった毛先は、ノイに整えてもらった、と言っていたが、要は、刃物で長さを揃えただけだろう。
首の辺りまで短くなった髪は、あちこちに跳ねて、まとまりなく広がっていた。

 こうして改めて見ると、トワリスの髪は、客観的には良い髪質とは言えないのだろう。
本人の言う通り癖っ毛で、珍しい色ではあるが、目を引くような鮮やかさはない。
しかしルーフェンは、それを冗談で綺麗だと褒めたつもりはなかった。
では、いつからそんな風に思い始めたのだろう、と考えた時──。
いつも脳裏に浮かぶのは、七年前の、ハーフェルンでの祭典での出来事であった。

 祝宴の場に、マルカン家の人間を狙った刺客たちが侵入して、騒ぎになった折。
幻術の炎の中を、紅鳶べにとび色にたなびいていた彼女の髪は、本当に綺麗だった。
風のような俊敏さを以て、火の粉と共に宙に舞い上がった姿も、まるで、そこだけ別の時間が流れてあるかのように、優雅で美しかった。
そしてその後、ルーフェンにかっこいいところを見せたかったのだと言って、ぎこちなく微笑んだ顔も──。

 元々、特殊な生い立ち故に、トワリスに対する思い入れは強かった。
だが、生まれに関係なく、一人の人間として彼女を愛おしく想うようになったのは、多分、あの時だったのだろう。

 岩壁を登ってくるシャルシスの速度に合わせて、少しずつ縄を引いているトワリスに、ルーフェンは、ぽつりと尋ねた。

「トワリス」

「……はい?」

「……いつから俺のこと好きなの?」

「えっ⁉︎」

 動揺して叫んだトワリスの手から、するりと縄が抜け落ちる。
瞬間、鈍い音と共に、シャルシスの悲鳴が聞こえてきた。
慌てて窪地を覗き込むと、岩壁の下で、シャルシスが背中を丸めてうめいていた。

 あっごめん、と地上から謝ると、けたたましい文句が返ってきた。
とりあえず、大した怪我はなさそうだ。
硬直しているトワリスに代わり、ルーフェンが縄を引き始めると、シャルシスは、渋々また岩壁を登り始めた。

 トワリスは、混乱した様子でパクパクと口を開閉させていたが、しばらくすると、掠れた声で問い返してきた。

「っな、なん、なんで、そんなこと聞くんですか……」

「……なんとなく。気になったから」

 答えると、トワリスの顔が、再び真っ赤に染まる。
あ、とか、う、とか呻いた後、トワリスは、ふるふると首を振った。
 
「……わ、分かんないです。……多分、ずっと前……文字、教えてもらった時とか……」

「…………」

 そういえば、そんなこともあったなと、ルーフェンは、トワリスと出会って間もない頃の記憶をたどった。
確か、自分が十五で、トワリスが十二の時だったか。
トワリスが、仕事の報告書をあまりにも熱心に見つめていたので、試しに羽ペンを握らせてみたら、毎日インクだらけになって文字の練習をしていた。
その成果を、なぜかルーフェンではなく、サミルやダナに見せに行っていたと知った時は、餌付けしていた動物が別の人に懐いていたような、複雑な気分になったのを覚えている。
そんな彼女と、十年以上経った今でもこうして一緒にいるなんて、当時の自分は、想像もしていなかった。

 再び間を置いてから、トワリスは、少し落ち着いた様子で続けた。

「……でも、私のいないところで、知らない間にルーフェンさんが死んじゃったら嫌だなって……。そこまで思って、好きなんだなってはっきり自覚したのは、告発された貴方を追うって決めた時です」

「…………」

 いざ聞かされると、どう返答すれば良いのか分からなくなって、ルーフェンは沈黙した。
質問しておいてなんだが、トワリスの答えを聞いていると、現実味のない夢の中にいるような、フワフワとした心地になってくる。
今、自分がどんな顔でいるのかも分からず、ルーフェンは、ひたすら眼下の縄を手繰り寄せていた。

 トワリスは、つかの間ルーフェンの様子を伺っていたが、やがて、悲しげに耳を下げた。

「……ごめんなさい」

 顔を上げると、今度は、トワリスの方がそろりと目を逸らす。
ルーフェンが何も言わないので、改めて難色を示されたと思ったらしい。
無反応はまずかったと内省して、慌てて声を絞り出そうとすると、その前に、トワリスが口を開いた。

「なんていうか……お、重いですよね。ずっとルーフェンさんのこと追いかけて、魔導師になって、こんなところまで来て。冷静になって考えたら、我ながら執着しすぎてるっていうか、一方的すぎるっていうか……。あ、安心してください。別に、これ以上どうしたいとかは考えてませんし、ルーフェンさんが迷惑っていうなら、必要以上に近づいたりもしないですから……」

「…………」

 では、迷惑じゃないと言ったら、必要以上に近づいても良いのだろうか。
一瞬、あらぬことを口走りかけて、熱の上がった自分を諌める。

 何か言わなければならないが、だからといって、勢い任せの返答は口にするべきではない。
今の自分は、今後が保障されていない、危うい身の上だ。
多分トワリスは、それでも良いと頷いてくれるし、むしろ、だからこそ来たのだと言うだろう。
だが、まだこの旅の終着点を知らない彼女を、このまま何も話さずに巻き込んで良いものか──。
まだ、踏ん切りをつけることができなかった。

「……トワ、俺は……」

 逡巡の末に、ようやく唇を開く。

──本当に道連れにしようというなら、やはり、全てを伝えるべきだろう。
この場では言えずとも、ミストリアで闇精霊と関わってしまったトワリスには、いずれ知る権利があるのかもしれない。
知っても尚、踏み入れるのか、引き返すのかは、トワリス自身が決めることだ。

 ルーフェンが、続きを紡ごうとした時。
それを遮るように、トワリスが啖呵を切った。

「あっ、ど、同行する件に関しては、撤回はなしですよ! 迷惑なら近づかないって言っただけで、私が同行するか否かの話は、既に決着がついてるんですから!」

 先程までの気弱な態度が嘘だったかのように、トワリスが詰め寄ってくる。
ルーフェンが、同行するのは許さないと、再び言い含めてくると思ったらしい。
勢いに押されて、ルーフェンは目を丸くした。

「……え? あ、いやそうじゃなくて──」

「というか! 誤解のないように言っておきますけど、私が同行したいのは、何も私情だけが理由じゃないですからね! そちらにも色々と事情があるのは分かりましたけど、この旅先で、万が一にも殿下に何かあったら国にとって大問題です! 経緯を知ったからって、気ままな二人旅いってらっしゃい、とはなりませんよ……!」

 あらゆる羞恥心と戦いながら、それでも自分に引き返す選択はないと、懸命に意思表示しているのだろう。
同行云々について言うつもりではなかったので、反論としては検討違いだが、彼女の必死さを見ていれば、その根底にある気持ちは痛いほど伝わってきた。

 トワリスは、何事にも一生懸命で、とにかく真っ直ぐな人だ。
時に愚直とも言える、その馬鹿正直な性格の持ち主こそ、ルーフェンの知っているトワリスである。

 彼女は子供の頃から、気持ちを口にするのが苦手なようだったから、話す時は、いつも言葉より雄弁な仕草や瞳の動きを見ていた。
だから、分かってしまう。
互いに立場が変わった今、それでも寄り添おうとしてくれる彼女の想いは、きっと本物である。
ルーフェンの都合の良い妄想だ、と言われればそれまでだが、やはり、何の益もないのに追ってきてくれた彼女の全てが、演技だとは思えない。
仮に演技でも、もう騙されていたって良いか、という気分にすらなっていた。

 尚も言い募ろうとするトワリスの前に、ルーフェンは、スッと片手をあげた。

「ちょっと待って。……ここまで来て、今更拒否するつもりはないよ。俺はただ、ろくな旅路にはならないだろうけど、それでもついてくるって言うなら、それはトワの自由だから、もうどうにでもして……って言いたかっただけ」

 突然ルーフェンが折れたので、驚いたのだろう。
トワリスは、ぱちぱちと目を瞬かせた。

「……え? 本当に? あとで撤回されても、絶対聞きませんよ」

 ルーフェンは、肩をすくめて答えた。

「……いいも何も、また言い争ったって、主張が平行線になるだけだろう。そうなったら多分、俺には勝ち目がない」

「…………」

 トワリスの目が、ますます大きく見開かれる。
その瞳の奥には、深い安堵と、一抹の躊躇いが浮かんでいた。

「……やっぱり、ついてくるな、って言われるのかと思いました。さっきだって、無理矢理丸め込んだようなものだし、迷惑だからって……」

 少し不安げに視線をさまよわせて、トワリスが呟く。
ここで、そう思うなら帰れ、くらい言えたなら、それが一番良いのだろう。
残酷な嘘を重ねることになっても、本当にトワリスのことを想うなら、真っ当な道に戻してやるのが優しさだ。
けれど、彼女を傷つけてまで遠ざけるほどの意気地は、ルーフェンの中には、なくなってしまっていた。
あわよくば、その表情に残る不安や躊躇いを、他ならぬ自分が、取り払えたらいいと考えている。

 ルーフェンは、ふと目を伏せると、シャルシスを引く縄を握り直した。

「言わないよ。……もう、全部、俺の負けでいい。こういうのは、先に惚れた方の負けって決まってる」

「…………へ?」

 間の抜けたトワリスの声を聞きながら、縄をぐいっと引き上げる。
すると、ようやく頂上付近までよじ登っていたシャルシスが、なんとか地面に這い上がってきた。

 シャルシスは、息を整えると、真っ先にトワリスの元へ向かい、後頭部の髪をかき上げて見せた。

「おい、トワリス! なぜ途中で縄を放したのだ! おかげで落っこちて、頭と背中を打ったぞ。ほら見ろ、コブが出来ている。打ちどころが悪ければ、死んでいたかもしれない!」

 顔を赤くして、シャルシスが憤慨する。
しかし、一向に返事が返って来ないので、シャルシスは眉を寄せた。

 冷たい空気が、しん、と静まり返っている。
振り向いた先のトワリスは、シャルシスの比にならないほど、全身真っ赤に染まり上がっていた。

「……な、何かあったのか?」

 思わず尋ねるも、トワリスは首を振って、「なんでもありません」と顔を背けてしまう。
そんな上擦った声で、なんでもないと言われても、全く説得力がない。

 シャルシスは、粛々と鉤縄を回収しているルーフェンを見やると、訝しむような視線を送ったのだった。



To be continued....


- 49 -


🔖しおりを挟む

 👏拍手を送る

前ページへ  次ページへ

目次選択へ


(総ページ数102)