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投稿日:2025年12月31日
第二章──新たなる時代
第一話『惹起』
夜明けを知らせる、鳥の鳴き声が聞こえた。
上着を羽織って外に出ると、清涼な初秋の風が頬をさすっていく。
ふと顔を上げると、職人風の出立ちの人々が、作業着の上から同じような薄手の上着を纏って、通りの坂道を登っていくのが見えた。
人の流れに従って、通りを進んでいくと、坂を登り切った場所に、巨大な聖堂が姿を現した。
中には、既に百名近い人々が集まっており、黙々と礼拝の刻を待っている。
王都シュベルテの西区に住むイシュカル教徒たちは、こうして毎朝、仕事が始まる前に聖堂に集まり、その日一日を無事に過ごせるようにと神に祈るのであった。
ギールは、目立たない広間の隅に移動すると、眼前に広がるステンドグラスを見上げた。
様々な色の着色ガラスが組み合わされ、そこに描かれているのは、サーフェリアの大地を護るように腕を広げた黄金の髪の女性──女神イシュカルだ。
かつて、古の大陸を四つに分断し、世界に安寧と秩序をもたらしたとされる女神イシュカルは、今なお人々をあらゆる災厄から護り、導いていると信じられている。
長年、その役割を担ってきたのは、悪魔を使役する召喚師一族であったが、歴史的に見ても数多くの大惨事に見舞われたこの十数年の間に、人心は姿無き女神へと傾き始めた。
当代の召喚師が失踪した今、イシュカル教会への入信を希望する者は、より一層増えていくだろう。
信教の自由はあれど、拠り所を失った人々は、何かに縋らずにはいられないのだ。
カーン、カーンと鐘の音が響いた。
ステンドグラスから降り注ぐ朝日が、鮮やかに煌めく。
たった一枚の着色ガラスを通しただけで、ここにいる者達には、朝日が荘厳な神の光に見えるのだろう。
皆、まるで神を直視してはならぬとでも言うかのように、床に膝をつき、頭を垂れる。
ギールも、隣の者の動きを真似して、組んだ両手に額をあてると、祈りの体勢をとった。
祭壇の横に、薄緑の法衣に身を包んだ司祭が現れると、人々は更に姿勢を低くした。
初老の司祭は、集まった礼拝者を見渡してから、手にしていた創世記を開き、その一節を読み上げる。
欠かさず礼拝に参加すれば、毎日聞かされることになる祈りの言葉。
教徒たちは、一言一句変わらぬその文言を、どのような気持ちで聞いているのだろう。
すぐそばで、静かに涙を流し始めた教徒の一人を薄目に見て、ギールは、ふとそんなことを思った。
司祭は、イシュカル神がどのようにして戦乱の世をおさめ、人間を異種族から遠ざけ、いかにして災いを打ち払ったのかを語る。
そして、その偉大さを説き、イシュカル神は信心深い民を護るのだと謳う。
けれども、ギールは知っていた。
イシュカル神は所詮、実体のない偶像に過ぎず、祈ったところで、手を差し伸べてはくれないのだということを──。
創世記の朗読が終わると、進行に則り、礼拝者の一人が許可を得て立ち上がった。
司祭に選出された代表者が、昨日あったことを神に報告し、祈りを直接口に出すことが許されるのだ。
内容は、よほど冒涜的なものでない限り、自由で構わないとされている。
仕事の成功を願う者もいれば、病にかかった家族の回復を願う者もいる。
これといって大きな出来事がなければ、「昨日一日は無事に過ごせた、今日も平穏に過ごせますように」と願っても良い。
少し前までは、異教の召喚師ルーフェン・シェイルハートを、ジークハルト・バーンズ率いる宮廷魔導師団が討ったという話題で持ちきりだったので、その歓喜の報告とイシュカル教会の発展を祈る者が、毎日のように続いていた。
今回の代表者の男は、昨日、よほど辛いことがあったのだろう。
最初に一言、「私の娘が……」と小さく呟いたが、以降は嗚咽をこぼすばかりで、何も言わない。
貧しい職人階級の出なのか、涙を拭う袖口は、汚らしく擦り切れていた。
司祭は、しばらく男が話し出すのを待っていたが、やがて、創世記を閉じると、優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫です、どうか落ち着いて。辛く苦しいことは、無理に言い表す必要はありません。言葉に出さずとも、一心に祈れば、イシュカル様はその想いを汲み取って下さいます」
穏やかで、心に染み入るような、ゆったりとした口調だった。
激しく泣き出した男は、申し訳なさそうに頭を下げて、再び祈りの姿勢に戻る。
司祭は、目尻の皺を深くすると、首に下げている小さな女神像を掲げた。
「どうか、イシュカル神の御加護があらんことを──」
礼拝が終わり、人波に紛れて聖堂を出ると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、背の低い中年女性が、顔を覗き込むようにこちらを見上げていた。
「……貴方、ギール? ギールでしょう!」
懐かしい叔母の鋭い声に驚き、思わずその腕をとって、通りから外れた細道へと移動する。
叔母といっても、数年前に会ったきりだが、彼女は、ギールが魔導師であることを知っている。
近年、魔導師団を離反してイシュカル教徒となる者は珍しくないが、現時点ではまだ召喚師一族の管轄下という扱いにある魔導師が、職人階級の者に混じって聖堂に来ていたと知られたら、ちょっとした騒ぎになる可能性がある。
それにギールは、大司祭モルティスとの親交を深めるにあたり、教徒を装って礼拝に参加しているだけで、今後も宮廷魔導師団を退団するつもりはない。
この場で、自分の身元に関することを話されては堪らなかった。
人気のない路地裏に着くと、ギールは、周囲に誰もいないかを確認して、ようやく叔母を解放した。
「……レズリーさん、どうしてここに? 北区に住んでたんじゃ……」
囁くような声で尋ねると、レズリーは呆れ顔になった。
「北区って……やっぱり手紙を読んでいなかったのね? 私たち、仮住まいの家は引き払って、二年近く前に西区に越してきたの。今は息子と二人暮らしよ。何度も手紙を送ったのに、貴方、何の音沙汰もないんだもの」
「す、すみません……仕事が忙しくて……」
鼻息を荒げる叔母に謝りながら、ギールは、そういえばあの頃から、レズリーとは連絡を取っていなかったな、と思い至った。
レズリーが手紙を送ったのは、おそらくギールが訓練生だった頃に暮らしていた魔導師団の寮だ。
しかし二年前には、ギールは既に正規の魔導師に昇格して、寮を出ていた。
配達員も、指定の郵便受けに手紙を放り込むだけなので、それがちゃんと宛名の相手に読まれたかどうかまでは確認しない。
届いた手紙は、きっと他の寮生宛のものに混じって、紛失してしまっただろう。
彼女は、ギールが宮廷魔導師として新しく居を構えていることは、知らないようだった。
レズリーは、腕組みをして、ギールの纏う職人服をじろじろと見た。
「……貴方、今どこで何をやっているの? 礼拝に参加してたようだけど、魔導師団を抜けたってこと? ちゃんと生活できているの? 少し痩せてるんじゃない?」
突然、肉付きを確かめるように腰回りを掴まれて、ギールは狼狽えた。
「だ、大丈夫ですよ! 遠征が多くて、なかなか一箇所に留まれないので、手紙のやりとりとかはちょっと難しいのですが……魔導師として、ちゃんと生活しています。礼拝に関しては、僕もその、少し興味があって。最近は、魔導師団に所属していても、イシュカル教に入信する者はいるので、試しに参加してみたんです」
言いながら、叔母の手をほどいて、距離を取る。
レズリーはつかの間、訝しむように甥を眺めていたが、やがて、大きくため息をつくと、肩掛け鞄から取り出した適当な紙片に、自身の住所を綴った。
「まあ、お仕事の都合なら仕方ないけれど、元気にやっているかどうかだけでいいから、たまには連絡しなさい。アーベリトの件があってから、何の連絡もなしで……。私、貴方にも何かあったんじゃないか、気を病んで魔導師団を辞めてしまったんじゃないかって、本当に心配したんだから」
「……はい。すみません」
再び謝罪を述べて、レズリーから紙片を受け取る。
そこに記された住所は、西区の教区──イシュカル教会の司祭が統括している区域内にあった。
昔から現実主義で、目に見えないものは信じない、などと言い放っていた叔母だが、今では、心から神を崇めるイシュカル教徒の一員になっているらしい。
というより、レズリーには、そうならざるを得ない事情があった。
彼女は、七年前に夫と住む家を失い、息子と共に教会に保護されていたのだ。
レズリーは、十代の頃にエバンス家というそれなりに名の知れた商家に嫁ぎ、長年シュベルテの北区で暮らしていた。
子供は息子一人だけであったが、夫がまとめる商連での事業も順調で、何一つ不自由のない生活を送っていた。
そんな暮らしが一変したのが、七年前に起きた、旧軍事都市セントランスによるシュベルテへの急襲だ。
北区は、被害が最も深刻な地区であった。
家族を失い、財産を失い、避難後もセントランスからの宣戦布告が発表され、安寧は訪れない。
頼みの魔導師団も壊滅状態に追い込まれ、当時のシュベルテは、恐怖と不安に震える戦災難民たちで溢れ返っていた。
そんな折、真っ先に救護活動に乗り出し、食事や仮住まいを民たちに提供して街の復旧に努めたのは、イシュカル教会が発足した新興騎士団であった。
実際にセントランスの侵攻を食い止めた魔導師たちからすれば、疲弊した自分達を王宮から追い出し、神の偉大さと魔導師団の無能さを説きながら、突如として街中を闊歩し出した新興騎士団には、不信感が募る一方だった。
しかし、絶望の淵に立たされた人々にとっては、その新興騎士団による難民救済が、まさに神からの救いの手に見えたのだろう。
レズリーも、その手をとった内の一人である。
息子と二人、働き手である夫を失った状態で生きていくには、イシュカル教徒としてその恩恵を受ける道しかなかったのだ。
レズリーは、俯いているギールを見上げて、何かを探るような顔つきになった。
「……貴方、やっぱり痩せてるわ。魔導師の仕事って、大変なんでしょう。本当に大丈夫? 今更になって、私がこんなことを言うのはおかしいかもしれないけど、その……別に、無理して危ない仕事を続けなくてもいいんじゃない? 貴方、まだ魔法具の勉強を続けたいの……?」
「…………」
ギールの瞳が、微かに揺れる。
余計なことを言ってしまったかと、罰が悪そうに様子を伺ってくる叔母に、ギールは、薄い笑みを作った。
「……僕はもう、魔法具のために魔導師を続けているわけじゃないんです。この七年は、別の理由で、魔導師団に留まっていました。……でも、そうですね。目下の目的は果たしたので、それも良いのかもしれません」
「目的……?」
問い返して、ギールの顔を見つめる。
視線が合った途端、目を伏せてしまった甥に、レズリーは、言い表せぬ寂しさと、虚しさを感じた。
あれから七年──その間に、甥に何があったのか、詳しいことはわからない。
しかしデイルとギールは、やはり和解できなかったのだ。
レズリーはこの時、ずっと聞きたくて聞けなかったことを、数年越しに、ようやく知ることができたのだった。
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