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投稿日:2025年12月31日
レズリーからの視線の意味に気づいたのか、デイルは、やりづらそうに団子鼻をこすった。
「……お前の、急な儲け話が信じられない、っていう意見は尤もだ。俺たちは騙されているのかもしれないし、いいように利用されているのかもしれない。金はもらったけど、リオット族を雇うことで、今後、その金額以上の不利益を被る可能性だってある。……ただ、このまま何もしなければ、どちらにせよ、レドクイーン商会は取り潰しだ。原因は俺にある。でも俺は、俺たちの信条を捻じ曲げてまで工房の存続を選ぶことに、意味はないと思っている。──きっと、これが今 選べる唯一の方法なんだ。俺たちの望むように、鍛えた武具に価値を付けたまま、レドクイーン商会としてやっていくには……。そう思ったから、一か八かで、次期召喚師様の話に乗ったんだ」
デイルは、節くれだった職人らしい手を、レズリーの肩に置いた。
「その武器や金が俺たちからだってのは、ギールには言わなくていい。言ったら、あいつは素直に受け取らないだろう。結構ひどい言い合いをして、家から出て行ったからな。俺がくれてやったのは、五年という期間だけだ。五年間は、ギールが魔導師を目指そうが、何をしようが、俺たちには関係ない。仮に俺たちが大失敗して、レドクイーン商会が破産しても、ギールには関係ない」
「…………」
そもそもギールは、父のために魔導師になると言っているわけだから、実家のことを忘れるのは無理だろう。
そう思ったが、レズリーは、「……わかったわ」とだけ答えて、それ以上は何も言わなかった。
デイルはデイルなりに、覚悟を決めている。
レドクイーン商会の命運をかけた大博打を打つにあたり、家出するくらいなら好きにしろ、と息子を突き放したのは、一応、兄なりの優しさだ。
少々無責任にも思えるが、この人は、ギールへの愛情がないわけではない。
ただ不器用だから、職人としての顔と、父親としての顔が、うまく切り替えられないだけなのだ。
レズリーは、仕方なく、兄の賭けにも乗ってやることにした。
その後、ギールには、必要なものは用意してあげるから頑張ってみなさい、とだけ伝えて、五年以内の魔導師団入団を目指せるよう協力した。
ギールは、断固反対していた父が意見を変えたと聞いて、驚いた様子であったが、一方で、少し複雑そうでもあった。
レズリーは約束通り、レドクイーン商会がリオット族を雇おうとしていることや、金の工面をしたのがデイルであることは伝えなかったので、彼からしてみれば、家出をしたことで親に見放された、と感じたのかもしれない。
それでも、魔導師を目指せるようになった自体は、嬉しかったのだろう。
レズリーが「魔導師になって、お父さんを見返してやりなさい」と言うと、ギールは頷いて、意気揚々と私塾に通い始めたのだった。
次期召喚師からもらったのだという前金は、改めて数えてみると、普通に暮らせば三年は生活できるのではないか、というほどの大金であった。
しかし、ギールの通う私塾に、一年分の学費を納めると、あっという間に底を尽きてしまった。
レドクイーン商会が破産した時のために、半分は残しておくつもりだったのだが、その目測は甘かった。
このままでは、エバンス家が身銭を切ったとしても、五年間はもたないだろう。
ギールには、金に困っているところなど見せまいとしていたが、魔導師になるための勉強を続けさせるには、人一人の一生を賄えるくらいの金がかかった。
けれども、そんなレズリーの不安を吹っ飛ばすように、兄の妻ヘルミナから、手紙が送られてきた。
ギールを預かってくれていることに対する感謝と、不足分の金が用意できたという知らせだった。
サーフェリア歴、一四八八年。
ルーフェン・シェイルハートの正式な召喚師就任が決まった年。
特殊な地の魔術を持つリオット族からの協力と、南方ノーラデュースの鉱床の独占権を得たレドクイーン商会は、たった一年で、その名をサーフェリア中に轟かせることとなる。
その躍進ぶりは、一度はルーフェンからの提案を拒否したはずの大商会、カーノ商会が目を剥いて、自分たちもリオット族を雇用したいと掌を返すほどであった。
無名の商会から、瞬く間に武具商会の代表格に名を連ねるようになったレドクイーン家の存在は、世間のリオット族に対する認識を変えるのに、十分なものとなった。
また、ルーフェンが、レドクイーン商会とカーノ商会以外とは契約しようとしなかったため、その後も"リオット族"、"ノーラデュース製"という付加価値は、下落することなく特別視され続けた。
デイルの賭けは──大勝ちだった。
同年、レーシアス王制の樹立を経て、レドクイーン商会は、召喚師ルーフェンに従い新王都アーベリトへと拠点を移した。
ギールは、父とケンカ別れしたままになっていることを引きずっているのか、あるいは、当時身重になっていたレズリーの体調を気遣っていたのか、自分から実家に顔を出したいとは言わなかった。
けれども、心の中では、レドクイーン商会の発展ぶりを気にかけていたのだろう。
その頃のシュベルテでは、遷都に反対する声も大きかったため、なかなかアーベリトの情報は入ってこなくなっていたが、ギールは、街頭で呼び売りされている書簡新聞を集めては、レドクイーン商会に関する記事を探していた。
私塾に通い出して三年、十三歳になった年に、ギールは、魔導師団の入団試験に合格した。
特別に良い成績だったわけではないが、その年の合格者の中では、最年少であった。
もはやエバンス家の一員も同然となっていたギールの快挙に、レズリーもその夫も涙を流して喜んだし、まだ生まれたばかりの実子カディも、まるで自分の兄を祝うかのようにキャッキャと笑っていた。
預かっていた魔剣と魔銃を、デイルからの贈り物だとは言わずに渡すと、ギールは、目を見開いてから、恥ずかしそうに相好を崩した。
「入団はできましたが、まだ訓練生です。訓練期間中に脱落する人も沢山いると聞きますし、僕がそうならないとも限りません。これから五年、また一生懸命頑張ります。それで、もし正規の魔導師になれたら、アーベリトにいる父に会いに行きます。魔導師団には、いろんな魔法具があるらしいので、それまでに、父の知らない魔法具の知識をいっぱい仕入れておきます」
ギールは、普段から礼儀正しい大人びた子であったが、自分の両親に対しては、どうにも意地を張ってしまう節がある。
しかし、素直になれないのは、この年頃の少年らしさなのだろう。
本当は、長い寮生活に入る前に、実家の両親に会いにいったらどうか、と言うつもりだったが、口を挟むべきではないかと思い直すと、レズリーは、旅立つ甥を見送ったのであった。
とはいえ、五年以内に魔導師団に入団する、というデイルからの条件は果たしたので、そのことは伝えなければと、レズリーはギールに代わって筆をとった。
手紙には、最後に一文、「商会のために魔法具の勉強をしたい、というギール気持ちは、変わらないようです」とお節介心で付け加えた。
しばらくして、ギールの母、ヘルミナから返事があった。
向こうにいる図体のでかい子供も、未だに素直になれないらしい。
ヘルミナからの手紙には、「ギールの入団、とても嬉しいです。工房の皆も、お祝いしてくれました。酔った夫が、ギールを自慢の息子だと呟いていました。私の見えないところで、嬉し泣きしていると思います」と綴られていた。
レズリーは、その手紙を、大切に文机の引き出しにしまった。
いつか、ギールが魔導師になって帰ってきた時に、見せてやろうと思った。
兄は嫌がるかもしれないが、金の工面をしたのも、入団後に使うだろうと魔法具を用意したのも、全てデイルのやったことだと伝えよう。
本当は父が応援してくれていたのだと知った時、ギールはどんな反応をするだろうと想像すると、レズリーの顔にも、自然と笑みが浮かんだ。
ギールが十歳で突然訪ねてきてから、三年。
実家のレドクイーン商会が思いがけない躍進を遂げ、自身にも息子が産まれ、甥のギールの魔導師団入団も叶った。
この三年間は、息つく暇もないほど忙しかったが、幸せな三年間であった。
しかし、そんな幸せも、崩れるときは一瞬なのだと思い知ったのは、それから更に、四年の月日が経った頃であった。
一四九五年、軍事都市セントランスの宣戦布告により、旧王都シュベルテは、戦禍に見舞われた。
その日はちょうど、花祭りの日で、レズリーは五歳になるカディの手を引いて、大通りの露店を見て回っていた。
──突然、皮膚が焼け付くような熱風に襲われたかと思うと、そこで意識が途切れた。
目を覚ました時には、賑わっていたはずの景色は一変し、目の前には、積み重なった人と瓦礫の山々だけが、延々と広がっていた。
死体の下敷きになって、運良く生き延びたレズリーは、泣きじゃくるカディを背負って、夫のいる商店の方へと駆け出した。
周囲を見回す限り、生き残っている者は、ほとんど外に出ている。
祭典中は稼ぎ時だと意気込んで、職場にこもっている夫の安否が心配だった。
耳を塞ぎたくなるような泣き声や呻き声、強烈な血臭と焦げ臭さが充満する街中。
名前を叫びながら、跡形もなくなった商店街の辺りを彷徨っていると、倒壊した屋根の下に、見覚えのある衣の裾が見えた。
近づいてみると、折れた柱に圧し潰されて、夫が死んでいた。
その後のことは、よく覚えていない。
ただ、夫の口から噴き出した血の色が、やけに鮮烈に脳に焼き付いて、ずっと目の前が真っ赤だった。
どのくらいの時間、その場に立ち尽くしていたのか。
枯れた泣き声をあげて、尚もしゃくりあげている息子の背をさすっていると、ふと、見知らぬ兵士に声をかけられた。
真新しい鉄鎧に身を包み、小さな女神像を首から下げた、優しげな男であった。
男は、事態を察した様子で夫の前に跪くと、胸元の女神像を握って祈った。
そして、レズリーに向き直ると、水と食料を用意しているから、自分についてくるように、と言った。
案内された先は、最近北区に建設された、大きな聖堂であった。
中では、レズリーと同じような境遇に置かれた戦災者たちが、魂の抜けたような顔でうずくまっている。
男が、イシュカル教会の発足した修道騎士会の人間なのだと気付いたのは、その時であった。
聖堂での避難生活は、定期的に配られる水と食料で腹を満たし、日が暮れたら眠るだけの、単調なものであった。
といっても、セントランスからの宣戦布告に恐怖し、これからどう生きていけば良いのかという不安が全身を蝕んでいる状態では、何も喉を通らなかったし、眠ることもできなかった。
ただ息子が、支給された食料を食べ、喉を鳴らして水を飲んでいる姿を眺めている時だけ、自分も呼吸ができているような気がした。
ある日、薄緑の法衣を纏った司祭が現れて、微笑みながら、こう言った。
「皆さん、祈ってください。全知全能の女神イシュカルは、争いを嫌い、憎み、ゆえに大陸を分断して、このサーフェリアに平穏をもたらしました。今、こうして苦しんでいる我々の姿を見て、神は嘆いておられます。ですから、さあ、祈りましょう。罪なき民の祈りは、必ずイシュカル神に届きます」
燦々と降り注いだ朝日が、色鮮やかな聖堂のステンドグラスを通して、人々の心を照らす。
初めてこの説教を聞いたときは、祈っている暇があるなら、セントランスと対峙するための援軍でも連れてきてほしい、などと思ったものだが、馬車も出ていない状況で、自分がアーベリトに召喚師を呼びに行けるわけでもない。
無為な時間というのは、不安や焦りを増長させる。
何もしないよりはと、レズリーは、配られた教典に目を通し、小さな女神像を首に下げた。
そして、寝食している時以外は、心が押し潰されてしまわないように、どうか息子を守ってください、と祈り続けた。
──不思議なものだ。そうしている内に、レズリーは、夢を見るようになった。
聖堂の隅で寒さに凍えていると、眩い朝日と共に暖かい手が伸びてきて、息子と自分を抱きしめてくれる夢だ。
その手の主の姿は見えなかったが、なぜだか、イシュカル様だという確信があった。
夢を見ない夜もあったが、そんな日は、胸元の女神像を握ると、氷が溶けるように不安が和らいだ。
他の避難民たちも、イシュカル教に入信して祈るようになってから、夢にイシュカル神が出てくるようになったのだと言う。
聖堂での単調な暮らしに、祈るという習慣が根付くのに、そう時間はかからなかった。
避難生活を始めて、一月近く経った頃。
特別に衣類などの日用品の支給があるというので、久々にカディと共に聖堂の外へと出たレズリーは、瓦礫が撤去された通りを歩いていたところで、前から来る男の視線に気づいた。
小ざっぱりとした黒髪に、印象的な深緑の瞳をした、身なりの良い青年であった。
「……ギール……?」
呟くと、こちらを向いた青年が、顔をくしゃくしゃに歪めて走り寄ってきた。
「レズっ、レズリーさ……っ、ようやく見つけた……!」
道行く避難民たちをかきわけて、青年は、レズリーをガバッと抱きしめた。
カディは、赤ん坊の頃のことなど覚えていないのか、目をパチクリと見開いて、ギールを凝視している。
四年前に見送ったときは、自分よりも背が低かったのに、今やギールの身体は、レズリーの身体をすっぽりと覆ってしまうほどに大きかった。
「……ギール……? 本当に、ギールなの……?」
信じられぬ思いで、もう一度尋ねると、ギールは、ボロボロと涙をこぼしながら頷いた。
「ギールだよ……っ、おいの、レズリーさんの! よっ、よかった、生きてて……っ、ごめん、僕、肝心な時にシュベルテにいなくて……。遠征先で、セントランスに襲撃されたって聞いて、急いで、戻ってきたんだけど……っ、おじさんの家、なくなってるし! 居場所、わかんなくて、この辺の避難先、聖堂だっていっても、教徒以外は、入れないって言うし……!」
嗚咽混じりの言葉は、断片的にしか聞き取れなかったが、それでも、ギールの言いたいことは伝わってきた。
レズリーは、ゆっくりと身体を離すと、改めて、成長した甥の顔を見た。
涙に濡れた頬を、確かめるように触ると、鼻の奥に、つんと熱いものが込み上がってきた。
「これ、夢だわ……。だって私、夫も死んで、もう……もう、全部、なくなってしまって……」
ギールは、嗚咽をこらえるように、ぐっと歯を食いしばった。
それから、もう一度レズリーを抱きしめると、芯のある声で言った。
「来年、あと一年経ったら、僕、正規の魔導師になるんだ。今回の襲撃で、魔導師団も混乱してるから、卒業試験がどうなるか分かんないけど、でも、必ず一発で魔導師に昇格するよ! そうしたら今度は、僕がレズリーさんを支える。レズリーさんが僕にしてくれたように、居場所を作って、カディくんと二人、安心して暮らせるようにする! お金も返すよ、今すぐは無理だけど……魔導師になって稼いで、七年前、僕に賭けてよかったって思えるようにするから、だから……そんなこと、言わないで。レズリーさんの周りには、まだ、いろんなものが残ってるよ……」
「…………」
ぎゅっと力のこもった腕から、熱が伝わってきた。
夢なんかではない、生身の人間の、体温の温かさだった。
不意に、涙が溢れ落ちた。
頬を伝う涙の熱と、指を握ってくる息子の手の感覚を、皮膚が思い出したかのように感じとると、唐突に、自分は生きているのだ、という実感が湧いてきた。
自分も息子も、まだ生きている。
もちろん、目の前にいる甥のギールも、アーベリトに住んでいる兄のデイルも、その妻のヘルミナも生きている。
いつ理不尽に奪われるか分からない、そんな薄い平穏の上を、皆まだ、懸命に生き永らえているのだ。
レズリーは、ギールの背に腕を回すと、涙声で言った。
「……私……。私たちは、大丈夫だから……。恩返しは、お父さんと、お母さんにしてあげて」
「え……?」
驚いたように、ギールが離れて、レズリーの顔を見る。
レズリーは、呼吸を整えると、穏やかに目を細めた。
「本当はね……魔導師団に入るためのお金も、入団が決まった後に渡した魔法具も、私たちじゃなくて、全部貴方のお父さんが──レドクイーン商会が用意したものだったの。知っての通り、兄はああいう性格でしょう? 魔導師になった貴方が、心変わりして工房に戻ってきてくれないんじゃないかって心配で、口では反対してたみたいけど、お父さん、貴方のこと、実はすごく応援してたのよ。だから、ケンカ別れしたからとか、まだ訓練生だとか、そんなことは気にせず、早く会いに行ってあげて。そして、立派に入団して頑張ってますって、報告してあげて。魔導師って、それこそ命懸けのお仕事でしょう。お金とかはいいから、とりあえず、元気な顔を見せてあげるのが、一番の恩返しになると思うわ」
レズリーは、大きく息を吸って、再び込み上がってきた涙を堪えた。
ヘルミナとの手紙は、瓦礫と化してしまった我が家と共に、なくなってしまった。
ギールが魔導師になってから、なんて思わず、もっと早くに伝えてあげるべきだったのかもしれない。
だが、今からでも遅くはないはずだ。
だってギールも、デイルも、ヘルミナも、皆まだ生きているのだから──。
ギールの身体が、ぶるりと震えた。
ずるずると鼻をすすり、涙を拭うと、ギールは、泣き笑いするように表情を歪めた。
「……実を言うと、なんとなく、気付いてました。だって、入団祝いでもらった武器……あんなの、世界で父さんしか作れないし……」
つられて笑みを返すと、ギールは、一層表情を崩して、レズリーの肩に手を置いた。
「レズリーさん、本当に、ありがとう。貴女のおかげで、今の僕があることに代わりはありません。……困ったことがあったら、なんでも言ってください。僕も、父さんも、母さんも、必ず力になりますから」
レズリーは、ギールの手に、自身の手を重ねた。
「……こちらこそ、ありがとう。お父さんと仲直りできたら、教えてね。私、ヘルミナと賭けをしているの。貴方が魔導師団に入団して、それでも工房を手伝ってやるって言ってきた時に、その場でデイルが泣くか、泣かないかで」
意地悪く言って見せると、ギールはふっと吹き出して、「わかりました、僕も楽しみです」と答えた。
──けれどもその後、ギールからの連絡が、レズリーの元に届くことはなかった。
デイルたちの住む王都アーベリトが、突如として火の海に沈み、民の死体も残らぬほど焼けてしまったと知ったのは、それから数月後のことだった。
かろうじて生き延び、ヘンリ村に移り住んだアーベリトの人々の中に、レドクイーン商会の者は一人もいなかった。
ギールが父デイルと七年ぶりに再会し、和解できたのかどうかは、そのときは、結局分からなかった。
レーシアス王の崩御を受け、王権を取り戻したカーライル王は、アーベリトを陥落させたのは、前召喚師シルヴィア・シェイルハートである、と発表した。
しかし、イシュカル教会は、あの規模の惨事を引き起こせるのは、現召喚師のルーフェンだけであると触れ回っていた。
再び樹立されたカーライル王の戴冠式で、レズリーは初めて、現召喚師の姿を見た。
レドクイーン商会の命運をひっくり返したその人は、王の横に座り、遠目からでも分かる温度のない銀色の瞳で、じっとこちらを見下ろしていた。
カーン、カーンと甲高い音が響いてきて、レズリーは、はっと我に返った。
今度は教会ではない。
通用門の開門を知らせる、王宮の鐘の音だ。
ギールは、聖堂の時計塔を仰ぐと、口を開いた。
「そろそろ登城の刻なので、失礼します。……久々に会えて、よかったです。レズリーさん、どうかお元気で」
優しい言葉とは裏腹に、ふっと視線をそらして、ギールは、逃げるように踵を返した。
レズリーは、その暗い瞳を見て、ギールはもう、自分には会いに来ないだろうと思った。
きっと、手紙も送ってはこないだろう。
アーベリトが没落してから七年、ギールの内に積もった後悔や絶望は、今なお彼の心を蝕み続けているのだ。
首に掛けた女神像を握ると、レズリーは、ギールの背に声をかけた。
「そちらこそ、元気でね。……貴方に、イシュカル神のご加護があらんことを」
「…………」
通例であれば、加護を祈ってくれた者には、こちらも女神像を掲げて返さねばならない。
だがギールは、イシュカル教徒の証明である首飾りを持っていない。
曖昧な笑みを浮かべて、軽い会釈だけすると、ギールは、その場を後にしたのだった。
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