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投稿日:2025年12月31日
遠くで、誰かが泣いている。
重たい瞼を持ち上げると、ぼんやりとした視界の果てまで、崩壊して地に突き立った瓦礫と、仲間の魔導師たちの死体が、累々と転がっていた。
これは、旧王都アーベリトが、シルヴィアとルーフェンの手によって崩落した時の記憶だろうか。
いや、これは、セントランスにシュベルテが襲撃された時の記憶だ。
足元で、当時七歳だった王子シャルシスが、気絶した王母の身体にすがりつき、喘鳴しながら泣いている。
──評議の場で騎士たちに捕らえられ、主塔の地下牢に入れられたジークハルトは、もはや時間の感覚もなく、浮き沈みする意識の中で、繰り返し死臭に満ちた夢を見ていた。
幼いシャルシスのすぐ近くに、瓦礫の下敷きになって、無惨に押し潰された死体があった。
上半身が跡形もなく、顔も分からなかったが、この死体が誰なのか、ジークハルトは分かっていた。
彼はヴァレイ・ストンフリーという、優れた魔術の才覚と慧眼を持った、前宮廷魔導師団長だ。
瓦礫の隙間から染み出した血が、渾々と流れていく。
その鮮烈な赤色が、自身の足元まで広がってくる様を見ていると、不意に、ヴァレイの言葉が脳裏に蘇った。
──……お前、宮廷魔導師団を背負う覚悟はあるか。
奇しくも、セントランスに襲撃される前夜に、ヴァレイが問うてきたことだった。
あのとき自分は、何と答えたのだったか。
確か、驚いた後に、内心怖気付いて、頷くことはできなかった。
けれども、かつての自分は、正義とは程遠い魔導師団の実態を変えてやるのだ、と息巻いていたから、首を横に振ることもなく、結局黙っていたような気がする。
──私には、出来なかったよ。結果が今のシュベルテだ。
かすんだ記憶の底で、静かに言い募ったヴァレイが、瞳に苦々しい色を浮かべる。
自分も出来ませんでしたと、ジークハルトは、心の中で答えた。
ズキズキと皮膚が脈打つような痛みが、右手の甲に走る。
ジークハルトを投獄したイシュカル教徒たちは、数日に渡って入信のための説教と拷問を繰り返し、それでもジークハルトが神への忠誠を誓わないと悟るや、その手の甲に焼きごてを押し付けた。
くっきりと刻まれたのは、罪人であることを示す焼印だ。
遠くで、苦しげにしゃくりあげながら、誰かが泣いている。
パタリパタリと、ジークハルトの頬に、熱い雫が落ちた。
いつの間にか、戦場の光景も、ヴァレイの物静かな顔つきも、目の前から消え去っていたが、泣き声だけは、どこからか響き続けていた。
泣いているのは、一体誰だろう。
大切なものを失い、なぜ守ってくれなかったのかとジークハルトを責める、シュベルテの戦災者たちだろうか。
あるいは、落ちぶれたジークハルトの醜態に嘆き、団の現状に絶望する、魔導師たちだろうか。
まとわりつく死臭を払うように手を動かし、頬を拭うと、触れた雫で、ヌメッと指が滑った。
その瞬間、ジークハルトの意識が、一気に覚醒した。
──違う、これは涙ではない。誰かの鼻水だ。
「あっ! ハインツさん、今の見ましたか⁉︎ 手が動きましたよ! バーンズ団長、まだ生きてます!」
ハッと目を見開くと、二人の人影が、こちらを覗き込んでいた。
意識が混濁しているせいか、辺りが薄暗いせいか。
視界はひどくぼやけていたが、何度か瞬いている内に、焦点が合ってきた。
冷たい石床に横たわるジークハルトの上で、鼻水を垂らしながら泣いていたのは、ハインツであった。
「ほら、目も開きましたよ! ハインツさん、泣いてないで見てください!」
ハインツの肩をバシバシと叩き、小声で捲し立てているのはギールだ。
ギールは、ジークハルトが上体を起こそうとしていることに気づくと、その背に腕を差し入れて、石壁に寄りかかれるよう、身体の向きを調整してやった。
「バーンズ団長、俺たちのことが分かりますか? ここは主塔の最下層です。貴方が留置されてから、既に十一日が経っています」
うめきながら、聞こえているという意思表示で頷くと、ギールは、安堵したように息をついた。
「よかった。声をかけても揺らしても、全く反応がないので、もう死んでしまったんじゃないかと、ハインツさんが泣いてしまって。……あ、どうぞ、これ水です。詰所から掻っ払ってきました」
言いながら、ギールが皮の水筒を渡してきたので、ジークハルトはそれを受け取り、喉を鳴らして水を飲んだ。
投獄されてから、最低限の食事は与えられていたが、焼印を捺されてここ数日は意識が朦朧としていたので、最後に飲み食いしたのがいつなのかもよく覚えていない。
冷たい水が、渇いて貼りついた喉を潤し、全身に染み渡っていく感覚があった。
ギールは、手元の鍵束を一瞥してから、改めて、ジークハルトの手首の拘束痕と、足枷と鎖に付けられた魔法錠を見た。
手枷は持っていた鍵で外せたが、魔法錠は術式を解除せねば開かないので、足枷をこの場で外すのは無理だ。
解除の術式を聞き出そうにも、番兵たちは全員眠らせてしまった。
そもそも彼らは、魔術が使えるようには見えなかったので、術式は教会上層部の司祭たちが管理しているのかもしれない。
罪人の烙印を捺し、魔法錠まで持ち出してきたのは、ジークハルトの抵抗が激しかったからなのだろうか。
何にせよ、教会がジークハルトのことを、決して逃してはならない重要人物と認識していることは確かだ。
教会の狙いはおそらく、ジークハルトが入信したことを晒すか、あるいは、入信しなかった者の末路としてその首を晒すかで、反教主義を貫く魔導師たちの気勢を削ぐことなのだろう。
水筒の水を全て飲み干し、口を手の甲で拭うと、ジークハルトは、掠れた声を絞り出した。
「……お前たち、なんでここにいる。まさか、警備を突破して侵入してきたのか……?」
伸びた黒髪の隙間で、ジークハルトの目が動く。
見張りの番兵が、牢の外で倒れていることに気付いたのだろう。
ハインツの牢に見張りが立っていたのと同じように、この牢の入り口にも見張りが張り付いていたので、先ほど、ギールが麻酔針で眠らせたのだ。
やつれて疲弊したジークハルトの表情には、覇気がなかったが、それでも、静かに怒っていることが見て取れる。
ギールは、まだ嗚咽をこぼしているハインツを見やってから、真剣な面持ちで答えた。
「勝手なことをして、申し訳ありません。ですが団長、地下牢に侵入したのは僕だけで、ハインツさんは、貴方と同じように投獄されていたんです」
「……どういうことだ?」
目を見張ったジークハルトに、ギールは頷いた。
「団長が教会に捕えられてから、色々なことがあったんです。ただ、僕も全ての状況を把握しきれているわけではなくて……。とにかく、ハインツさんが、急ぎ団長にも知らせたいと仰るので、ここまで来ました。まずは、話を聞いてください」
ジークハルトとギール、二人の視線がハインツに集まる。
ハインツは、ようやく収まってきた涙と鼻水を拭うと、一息置いて、評議後のことを辿々しく語り始めた。
ジークハルトを釈放するよう、教会に交渉できないかと話すアレクシア、ギール、ハインツの前に、何者かに操られたヨークが現れたこと。
そのヨークに両目を裂かれたアレクシアを連れて、ギールは一度、その場を後にしたこと。
そして、残ったハインツが対峙したのは、ヨークの中に入り込んでいた、アルファノルの召喚師を名乗る、エイリーンという闇精霊だったこと。
エイリーンは、以前ミストリアから帰還したトワリスの中にも入り込んでいて、ハインツとは、その時から面識があったこと。
それから、精霊族の過去の因縁、エイリーンの目的、その目論見にルーフェンが関わっているかもしれない、ということ。
ヨークが意識を取り戻したところで、エイリーンはどこかへ消え去り、駆けつけた教会の人間に、ハインツは傷害の容疑で捕えられたこと。
王室についていたハブロの死、アレクシアの失明まで、知りうる限りのことを、ハインツはジークハルトとギールに打ち明けた。
ハインツが話し終えると、つかの間、牢内は不気味な静けさに包まれた。
瞬きも忘れ、唖然と聞き入っていたギールは、ごくりと息を呑むと、静寂を破った。
「ハインツさんを疑うわけではありませんが……俄には、信じがたい話ですね。まあ、伝承通りと言われればそうなんですが、闇精霊族とは……」
それだけ言って、ギールは再び黙り込む。
ジークハルトも、痩せて落ち窪んだ目を閉じ、長らく沈黙していたが、やがて目を開けると、ハインツを見据えた。
「……確かに信じがたいが、否定できる話ではないな。実際、獣人族は存在するわけだし、お前やトワリスの特質を知っている以上、人間と他種族の交流があったということは事実だと認めざるをえない。俺はその闇精霊とやらを見たことはないが、人並みの意思があるのなら、復讐のために他国を侵略しよう、といった考えを起こしてもおかしくはないだろう。そこにルーフェンが関わっていたという話も、明確な証拠があるわけではないが、そう考えると腑に落ちる点が多い」
言いながら、ジークハルトの頭には、ノーラデュースでのルーフェンのとのやりとりが思い浮かんでいた。
──今、君たちが警戒するべきなのは俺じゃない。召喚師一族そのものなんだよ。
王宮を出た目的は、召喚師制の廃止だけではないのだろうと尋ねたジークハルトに対し、ルーフェンが返してきた言葉だ。
どんな問い方をしても、明確な答えが返ってこなかったのは、ルーフェンが闇精霊との内通を隠そうとしていたからだと考えれば、合点がいくような気がする。
それでも、教会と魔導師団の共存を勧めたり、告発された際にミストリアを含む他国の存在を仄めかしたりしていたのは、彼なりの警告だったのか、あるいは宣戦布告だったのか。
何にせよ、ルーフェンとエイリーンとやらの間に関わりがあったというハインツの報告には、根拠が少ないながら、妙な納得感があった。
岩床についた膝上で、ギールはぐっと拳を握り込んだ。
「つまり……教会の予想通り、やはり召喚師は国家転覆を企んでいた、ということですか? ミストリアの次期召喚師を見逃したのはその布石で、今度は闇精霊と手を組み、我々を陥れようとしていると?」
ハインツは、ぐずぐずと鼻をすすった。
「わ、わからない……。エイリーンの言い方は、そうだった、けど、ルーフェンがそんなこと考えてたの、信じたくない。情報集めたくても、俺、捕まっちゃったし。教会の人達、今の話、ほとんど聞いてくれなかったし、もう、どうすれば良いのか……」
項垂れたハインツを見て、ギールが、出かかった反論を飲み込む。
額に手を当て、深々と息をつくと、ジークハルトが言った。
「どうすれば良いも何も、やることは一つだ。例え不確定の段階であっても、そのエイリーンとやらが人間を襲う可能性があるなら、その襲撃方法を予測して、対策を立てねばならない。召喚師一族が相手だというなら尚更、防ぐことができなければ被害は甚大になるだろう」
「し、しかし……正直今の魔導師団は、教会による弾圧で、それどころではありません。新興魔導師団の設立に伴う人の異動で、通常の任務さえまともに回っていない状況です。ハインツさんの証言以外、なんの情報もない闇精霊に対する策を講じている余裕なんて、とてもではありませんが……」
ギールの言葉に、ジークハルトは眉をひそめた。
「違う、逆だ。他国の脅威が迫っている可能性がある以上、教会と下らん"内輪揉め"をしている場合じゃない。……お前に言わせれば、そうだろう?」
ギールは、弾かれたように顔を上げると、大きく目を見開いた。
──そう、そうだ。ジークハルトの言う通りだ。
サーフェリアの危機を前に、同じ民の安寧を守ることを目的とする世俗魔導師団とイシュカル教会が、争っている場合ではない。
つい最近まで、そう主張して散々ジークハルトに楯突いていたのは、ギールの方だったのに。
いざ周りの魔導師たちが失脚し始めたら、団の地位を守るために動ける宮廷魔導師は自分一人しかいない、という焦りで頭がいっぱいになって、本来の目的を見失っていた。
ジークハルトもまた、七年前のセントランスによる襲撃時に、一人だけ生き残った王都常駐の宮廷魔導師である。
当時、壮絶な辛苦を味わいながらも、魔導師団の復権を果たし、再び教会と並び立つまでに地位を回復させ、たったの二十一という若さで、宮廷魔導師団長の座についた──そんなジークハルトの苦悩を、今のギールなら、少しは想像できる。
きっとジークハルトは、イシュカル教会との勢力争いを、些細なことだとは思っていない。
それでも、あえて"内輪揉め"などというチンケな言い方をしたのは、現状に対する皮肉だ。
王宮内での勢力争いなど不毛だと分かっていても、ジークハルトは、それをくだらないと一蹴できない立場にいた。
それが現実だったのだ。
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