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投稿日:2025年12月31日
トワリスは、腰の剣帯から双剣を抜くと、ルーフェンにそれを手渡した。
「すみませんが、終わるまで預かっていてもらえますか?」
「……いいけど、本当にやるの?」
「ここまで馬鹿にされて、今更引けないでしょう」
ルーフェンが、やれやれとため息をつく。
頭巾を被り直し、腕の曲げ伸ばしを始めたトワリスを見て、ドリックが嘲笑を深めた。
「やる気十分のところ悪いがよぉ。賭けってのは、偏ったとしても、両者にそれなりの額が賭けられなきゃ成り立たねぇんだよ。そうでなきゃ、こっちの儲けがなくなるからな。俺に賭けられた金額は、ざっと十万。……で? お前らは、あといくらそのアバズレに賭けるんだ? 五百ぽっちじゃ、お話にならねぇんだよなぁ」
もうこれ以上は笑わせないでくれ、とでも言いたげな引き笑いが、観衆たちの間でヒィヒィと漏れる。
シャルシスは、無意識に唇を噛んだ。
喧嘩賭博に首を突っ込もうとしたのは自分の方だが、トワリスやルーフェンが嘲笑われるのは、不愉快だし悔しかった。
「……じゃあ、一億」
唐突に、ルーフェンが思いつきのように言った。
瞬間、場の空気が冷え、潮が引いていくように、笑い声が消える。
目を見開いて、ドリックはルーフェンを凝視した。
「……テメェ、今なんつった?」
「彼女に一億ゼル賭ける、って言った。……ああ、もしかして、この意味わからない?」
「…………」
ドリックの口元が、ヒクッと引き攣る。
今度は、トワリスが呆れ顔になって、ルーフェンを見た。
これは、賭けの世界では、有名な煽り文句だった。
特に、盤上遊戯において、終盤に自分の勝ちを確信した者が、「この局面では一億ゼル賭ける」などと相手に宣言することがある。
だが、一億ゼルなどという桁違いの額をポンと出せる者は、上流階級であってもそうそういない。
これは、本当にこの金額を賭ける、という意味ではない。
絶対に払えるわけがない、現実味のない賭け金をあえて提示することで、「お前が勝つことは、万に一つもあり得ない」と相手を煽っているのだ。
言わば、場を盛り上げる口上であり、最大の侮辱でもあった。
ドリックのこめかみに、ピキピキと青筋が浮かぶ。
鼻息荒く唾を飛ばしながら、ドリックは怒鳴った。
「寝ぼけたこと抜かしてんじゃねぇ! だったら俺も、自分に一億賭けてやらぁ‼︎ なんなら女とお前、二人まとめて相手してやってもいいんだぞ!」
ルーフェンは、首を傾けて微笑んだ。
「あ、そう? まあ、どっちでもいいけど、それなら別に、無理に賭けに乗らなくても良いんだよ。喧嘩賭博に則るなら、武器を振り回すのは禁止だ。でも、それじゃあ不安だろう? 弟と同じ轍を踏んだら、あんたまで良い笑い者に──」
「──黙れ‼︎ テメェなんぞ、拳一つで十分だ! 殴り殺してやる……!」
叫ぶや、小刀を地面に捨てると、ドリックは、拳を振り上げてルーフェンの方へ突進した。
しかし、その拳は届かなかった。
横に吹っ飛んだ巨体が、周囲を囲んでいた観衆たちの中に、勢いよく突っ込む。
トワリスが、横合いから彼の脇腹を蹴り飛ばしたのだ。
驚きと興奮の入り混じった歓声が、試合開始の合図となった。
怒声をあげたドリックが、支え起こそうとしてくれた男たちの手を振り払って、立ち上がる。
トワリスが、かかってこいと構えると、ドリックの顔が、怒りでみるみる赤くなった。
丸太のように太い腕が迫ってきて、トワリスの首元に掴みかかる。
半身になって、その手をかわしたトワリスは、前のめりになったドリックの鳩尾を、膝で蹴り上げた。
うめき声を漏らしたドリックが、ツバを吐き散らし、身体を折り曲げる。
だが、倒れることはなく、再び殴りかかってきたので、トワリスは思わず感心した。
脇腹も鳩尾も、まともに食らえば、一撃で立ち上がれなくなるような急所だ。
死なない程度に加減しているとはいえ、それでも一発受けて動いているということは、ドリックは、絶妙に急所への直撃を回避しているのだろう。
この男、戦闘訓練などは積んでいないただのゴロツキだろうが、大口を叩いていただけあって、喧嘩慣れはしているようだった。
ドリックの攻撃をいなしては、隙をついて急所を狙う。
そんなトワリスの機敏な身のこなしに、シャルシスは、気づけば身を乗り出して魅入っていた。
体格差のある相手と対峙する時は、力任せに打ち込まず、相手が向かってきたその隙をつく。
シャルシスも、年齢の割に自分は小柄な方だと自覚していたから、そういう戦法は沢山勉強してきた。
しかし、いざ戦うとなると、頭で思い描いている通りには動けないものだ。
自分よりも大きな相手に襲われるということは、とても恐ろしい。
足はすくむし、思考は回らないし、咄嗟に目をつぶってしまうこともある。
力では絶対に敵わないから、一度でも掴まれたり殴られたりしたら終わりだ、という緊張感が常にあって、弱腰にもなる。
体力だって相手の方が上だから、戦闘が長引けば長引くほど、不利になるのはこちらのほうだ。
けれども、トワリスの戦い方は、そういった"不利"を一切感じさせない、見事なものであった。
彼女は、恐怖に支配されず、ドリックの攻撃をよく見ている。
よく見て、正確に次の一手を読み、素早く反応して、最小限の動きで彼を翻弄している。
結果的に、大振りな攻防を繰り返す羽目になって、疲弊し始めているのはドリックのほうだ。
小柄であっても、武器や魔術が使えない状況であっても、それだけの条件差ならいくらでも覆せる。
トワリスを見ていると、だんだんそういう風に思えてきて、シャルシスは、胸が熱くなるのを感じたのであった。
いつの間にか声援を忘れ、唖然とドリックの消耗ぶりを見守るようになった観衆たちの間を抜けると、ルーフェンは、受付の木卓の方を見た。
卓上に置かれた賭け金の山を、つい先程まで気絶していたはずのドリックの弟──ネリオが、衣の中に詰め込んでいる。
予想通りと言えば、予想通りの展開だった。
賭け率を操作し、賞金を誤魔化し、大勝ちしそうな参加者は、腕に自信のある兄ドリックがぶちのめす。
思いがけず兄が負けそうな場合は、弟のネリオが、最終手段として儲け金を持ち逃げする。
これが、この喧嘩賭博の主催者であるドリックとネリオ兄弟の"ルール"だったのだろう。
喧嘩に夢中になっている観衆たちを尻目に、ネリオが木卓を離れた。
金でふくれた腹を抱え、こそこそと身を屈めながら、大通りの方に歩いて行く。
その襟首を掴んで、後ろに引き倒すと、ルーフェンは、鼻血まみれの顔を見下ろした。
「……ねえ、そんな重そうなお腹で、一体どこに行くつもり?」
問いながら、ネリオの上衣の裾を持ち上げる。
腹に貯め込んでいた銅貨が、ザラザラと地面にこぼれ落ちた。
舌打ちして、袖の中に隠し持っていた小刀を抜くと、ネリオは、それを闇雲に振り回した。
「クソッ、クソ! 邪魔しやがって!」
斬撃を避け、ルーフェンが一歩下がる。
その隙に、落ちた銅貨を再び腹と衣の間に詰めると、ネリオは立ち上がった。
「売っ払われたくなきゃ、さっさとどけ! 道を開けろ……!」
「……その話、あんまり大声でしないでくれる?」
しーっと人差し指を立てたルーフェンに、ネリオが小刀を振りかぶる。
ルーフェンは、向かってきたネリオの腕を掴み、下から肘を叩き上げた。
手放された小刀が、宙に弾き飛ばされる。
同時に、野太い悲鳴が上がった。
トワリスが、動きの鈍くなったドリックの懐に潜り込み、その巨体を背負い投げしたのだ。
小刀とドリックが宙を舞い、やがて、音を立てて地面に落ちる。
四肢を投げ出したまま、ついにドリックが起き上がらなくなっても、しばらくは、誰も何も言わなかった。
しかし、観衆の一人が、不意に「負けた……」と呟くと、その瞬間、路地に響き渡るほどの大声が上がった。
ドリックに賭けていた者たちの、怒りの声だ。
「おいドリック! なに負けてんだよ⁉︎ 金返せ!」
「ざけんなテメェ! 調子に乗って、一万も賭けちまったじゃねぇか!」
「ぁあー……女の方にもっと賭けておくんだった!」
頭を抱え、口々に叫喚しながら、男たちはドリックを取り囲み、青い賭け札を彼に投げつけ始めた。
その流れに逆らって、観衆の群れの中を抜けると、シャルシスは辺りを見回した。
受付の木卓、積み重なった空の酒樽、男たちの輪から離れて手首を回しているトワリス。
そして、路地の入り口近く──ルーフェンの足元で、なぜか這いつくばっているネリオの姿を見つけると、シャルシスは駆け出した。
赤い賭け札を握る手が、熱く汗ばんでいる。
息が弾んで、鼓動が速い。でも、足取りは軽い。
痛む肘をおさえて、半泣きしているネリオの顔を覗き込むと、シャルシスは、目をキラキラと輝かせて言った。
「おい、賞金を計算しろ! 俺たちの勝ちだぞ!」
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