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投稿日:2025年12月31日
ざわめきが聞こえ始め、天井がギシギシと軋む。
頭上の扉が開き、そこから差し込んできた朝日を浴びて、シャルシスは、長い一夜が明けたことを悟った。
縄梯子を上って甲板に出ると、子供たちは、また船端に一列に座らされた。
照りつける強烈な日差しが、目や肌に沁みる。
皆、顔色を見る限り、あまり眠れなかったのだろう。
子供たちは、生温い潮風に嬲られながら、眩しそうに充血した目を伏せていた。
ほどなくして、水夫たちが朝食を運んできた。
内容は昨日と同じ、パンと少量の酒、そしてほとんど具のない薄いスープだ。
スープは、相変わらず酸っぱい匂いがしたが、昨夜よりは、抵抗なく飲み込むことができた。
考えてみれば、乗船してから、ろくなものを口にしていない。
不安と緊張で食欲は失せていたが、身体は空腹を感じていたのだろう。
乾き切って硬くなったパンは、口の中で酒でほぐしながら食べると、すんなり喉を通った。
朝食が終わると、再び走り込みが始まった。
男たちに怒鳴られ、時に笑われながら、相方と二人、鎖で繋がった脚をそろえて、甲板の端から端までを走り続けるのだ。
今日は、いきなり海に放り込まれたり、舶刀を見せつけられたりするようなことはなかった。
しかし、男たちの顔には、昨日と変わらず、残虐で侮蔑的な色が浮かんでいる。
虫でも見下ろすような彼らの目が、シャルシスたちを牽制し、立場の差を語っている。
いつ理不尽に暴力を振るわれるか分からない、殺されるとも知れない恐怖は、凄まじいものであった。
脅されて、痛みすら麻痺して動いていた脚も、度の過ぎた疲労が重なれば、やがては限界が来る。
呼吸が合わずに転んだり、足枷が擦れたりして脚が使い物にならなくなった二人組は、走れなくなった時点で、皮膚が裂けるまで鞭で打たれた。
容赦のない鞭打ちは、その子供が半死半生になるまで続けられ、見ている者達をも震え上がらせた。
泣いて逃げようとした子供は、特にひどく叩かれ、しまいには、全身を赤黒く腫らして動かなくなった。
一組、二組と、悶える力さえなくなったか細い肢体が、船端に積み重なっていく。
それは、戦場を知らぬ子供たちには、あまりにも衝撃的な光景であった。
この船上には、逃げ場がない。
抗える武器もなければ、倒れた子供を治療する道具もない。
隙あらば男たちから剣を奪おうとか、泳げる距離に島が見えたら海に飛び込もうとか、そういった気持ちは、いつの間にか消え失せていた。
シャルシスはただ、自分と相方のクロッカが目をつけられないよう、言われた通りに動くことしかできなかった。
日が暮れてくると、男たちの指示で、ようやく走り込みの時間が終わった。
震える脚を引きずって船端に集まり、黙々と粗末な夕食を終えると、子供たちは、再び床下の船室に押し込まれた。
やがて、辺りが夜闇に沈んだ。
男たちが寝静まっても、誰も、一言も発さなかった。
船室内は、昨夜勇気付け合ったことが嘘だったかのような、薄ら寒い絶望感に包まれている。
何かを考える気力も、思考を話す体力もなく、子供たちは、座った状態で泥のように眠ったのだった。
翌朝、男たちの声に叩き起こされて、シャルシスは目を覚ました。
船出初日の夜はほとんど眠れなかったが、昨晩は皆、何よりも疲労が優ったのだろう。
わずかに差し込む朝日の下で、まだ目覚めていない他の子供達が、互いの身体や壁にもたれて、目を閉じていた。
ナジムが「早く甲板に上がれ」と急かすので、シャルシスは、慌てて子供たちに声をかけた。
起きた子供たちは、億劫そうに身体をさすりながら、縄梯子を上がっていったが、その内の十人は、呼びかけても肩を揺すっても、目を開けなかった。
顔がむくんで、座位のまま冷たく硬直している。
昨日、執拗に鞭で打たれ、立ち上がることもできないほどに衰弱していた子供達であった。
甲板に出て、シャルシスたちが朝食をすすっている間。
ナジムが、床下から十人の死体を運び出して、海に放り投げていた。
まるで、壺の中の汚物を捨てるような、乱暴で適当な棄て方だった。
「……お前、平気な顔をして、よくもそんなことができるな」
空になった椀を床に置き、シャルシスがボソッと呟くと、ナジムは、乾いた笑みを浮かべた。
「じゃあ、俺がやりたくねぇって言ったら、お前がやってくれんのかよ。それとも、同じ飯を食った仲間とは、死体であってもお別れしたくないって? 俺は、これ以上船室が臭くなるのはごめんだぜ。お前ら、ただですらゴミ臭ぇのによ」
「…………」
ナジムは、鼻を摘んで、シッシッと虫でも払うように、シャルシスの前で手を振った。
その仕草を見た途端、感情に蓋をしていた恐れや不安を押しのけて、激しい怒りが突き上がってきた。
──死んだのは、まだ八歳にも満たないような、とりわけ幼い子供たちであった。
親が無くとも、金が無くとも、これまで通りに農村や街中で過ごしていれば、まだ朝日を拝めたかもしれないのに。
それを攫って、故意に痛めつけて殺したくせに、いざ死んだら、その遺体を臭いと言って捨てるのか。
シャルシスの爛々とした瞳に、抑えきれない怒気が宿る。
ナジムは、不意を突かれたように笑みを消してから、皮肉るような口調をやめた。
「……まあ、落ち着けよ。こいつらを殺したのは、俺じゃない。怒ったって、どうしようもねぇだろ。仕方のないことだって割り切れよ」
「何が仕方ないんだ。昨日、鞭で叩かれたせいで、その子らは死んだんだぞ」
「だからなんだ? お前らは捕まった側で、この状況を変える術を持っていない。こいつらは、その中でも特にガキで、体力もない無能だった。弱い奴が先に死んでいくのは、仕方のないことだろう」
ナジムは言いながら、積み重なっている死体に、再び手を伸ばした。
そして、汚物を掴むような仕草で一人担ぎ上げ、未だ死後硬直も解けていないその身を、船縁に引っ掛けて海に落とした。
シャルシスは、低い声を震わせた。
「……理解できない。ナジム、お前だって、俺と同じ年頃じゃないか。この前は答えをぼかしていたが、本当は、好きでこんなことをやっているわけではじゃないんだろう? あの男たちに脅されて、逆らえず、犯罪の片棒を担がされているのだろう。それをお前は、自分の方が弱い立場だから、仕方がないことだと納得しているというのか」
ナジムは、短く笑った。
しばらく何も答えなかったが、また一人、死体を海に放り投げると、吐き捨てるように言った。
「……お前らみたいな何もできねぇガキと、俺を一緒にするなよ。俺は、食っていくために、自ら望んでこの船に乗ってる。あいつらの言いなりになって、考えることもやめて、結局のたれ死んでいくお前らより、ずっとマシな人生だ」
不意に、高甲板で酒を煽っていた男の一人が、怒鳴り声をあげた。
コソコソと話しているナジムとシャルシスを、叱責する声であった。
びくりと肩を揺らした子供たちが、目立つようなことはやめてくれと、怯えた目でシャルシスを見る。
向き合っていた顔を互いにそらすと、シャルシスはクロッカの隣に座り直し、ナジムは死体の処理に戻った。
ここで言うことを聞かなければ、シャルシスのみならず、その相方であるクロッカまで鞭打たれることになりかねない。
男たちは、粗暴で浅学な賊の集団のように見えたが、一人が見せた反抗に対し、連帯責任で罰を与えることで、巧妙に子供たちを従順にさせていた。
口を閉じても、シャルシスとナジムの間には、まだ苛立ったような空気が残っていた。
だが、ナジムの放り投げた死体が、ザバン、ザバンと海原に飲まれる無情な音を聞いている内に、怒りよりも、身を切るような虚しさが勝ってきた。
ナジムの言葉には、やはり同意できない。
だが、今の自分たちが"何もできないガキ"で、ただ虐げられるだけの状況になっていることは、紛れもない事実だった。
生きて、この場から脱するためには、いかなる事態に陥っても、思考を放棄してはならない。
ルーフェンやトワリスの助けを期待して、待っているだけでは駄目だ。
冷静に洞察し、考え、他ならぬ自分が、現状を打破できる糸口を探るのだ。
シャルシスは、気を落ち着けるように、すっと息を吸った。
(……運良く武器を奪えても、戦えない子供ばかりの中で、男たち全員を倒すことは難しい。仮に倒せても、俺たちでは船の操縦ができない。どこを渡航しているかも分からない状態で、海に飛び込むのも現実的ではないだろう。逃げられるとしたら、陸に着いた後だ。まずは、この船がどこに向かっているのか、考えなければ……)
シャルシスは、目だけを動かして、空を見つめた。
白い帆の隙間に覗く、雲一つない朝空。
やや右方には、眩い太陽が煌めいている。
ということは今、この船は、おおよそ北に進んでいる。
星が見えれば、夜でもなんとなく進行方向が分かるが、日が暮れると床下の船室に閉じ込められるので、夜空は見られない。
羅針盤があれば、常に正確に方位を把握できるのだが、当然そんなものは手元にない。
この船の操舵手ならば持っているだろうが、足枷をつけた状態で、誰にも見つからずに、水夫たちの出入りする船尾楼に侵入するのは不可能だろう。
次いでシャルシスは、刺青の男たちが屯している、高甲板のほうを見た。
男たちが、円状に座り込み、賑やかに話しながら、朝食を摂っている。
各々の手には酒瓶が握られ、床に並べられた皿には、豆の入ったスープやパン、塩漬けの肉などが盛られていた。
保存食中心だが、海上での食事であることを思えば、豪華とも言える内容だ。
交代で休憩している水夫たちも、刺青の男たちに比べれば質素な生活をしているようだが、食事は十分な量を口にしている。
もしかしたら、この航海は、何月もかかるような長旅にはならないのかもしれない。
乗船者の半数以上を占める子供たちの食事が少ないとはいえ、百人以上が乗っているこの船で、何月も十分に食べて過ごそうと思うと、食料だけで船倉が一杯になってしまうからだ。
視線を一巡りさせて、シャルシスは、もう一度ナジムの方を見た。
ちょうど、最後の一人の死体を、海に投げ入れたところであった。
その時、高甲板から近づいてきた刺青の男が、子供たちに立つように命じた。
同時に、横から駆け寄ってきた二人の水夫が、空になった椀を回収し始める。
再び、悪夢の如き走り込みが始まるのだ。
シャルシスは、他の子供たちと同様に立ち上がったが、男の方は見ず、船縁から海を覗き込んだ。
死体の着水した水面が、白く泡立っている。
景色の変わらない海や空を眺めていると、船は随分ゆっくりと進んでいるように感じられたが、こうして死体の浮かぶ一点を目印にして考えると、本当の船の速度を実感することができた。
ふと、船端を支える、鉄製の肋骨が目についた。
肋骨は、大体三ロ (大股で三歩分ほど)の間隔で、外板に打ち付けられている。
そのことを確認してから、シャルシスは再度、海面を見下ろした。
先程まで真下に見えていた泡が、いつの間にか三本目、四本目の肋骨を通り過ぎ、遠く後方で豆粒のように小さくなっている。
船は、思ったよりもずっと速く、海原を進んでいるようだった。
風を受け、帆が張る。
降り注ぐ陽光が、キラキラと海原を輝かせている。
行こう、とクロッカに声をかけられるまで、シャルシスは、群青に沈んでいく死体を眺めていたのだった。
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