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投稿日:2025年12月31日
古城での労働生活が始まって、三日目の夜。
すぐ近くで悲鳴が上がって、シャルシスは、ハッと目を覚ました。
格子の外にある燭台の炎だけが、石室内をぼんやりと照らしている。
その薄暗い中、シャルシスの隣で眠っていた少年──セドルが、下履きの裾を握って呻いていた。
「な、なんだ? 足が痛むのか?」
声をかけるが、セドルは汗だくの顔を振るだけで、何も答えない。
慌てて下履きをめくり、枝切れのような右脚を確認して、シャルシスはギョッとした。
山道を通った時にできたのであろう、セドルの右脛の擦り傷に、ウネウネと動く茶色いものが吸い付いている。
それは、親指ほどの太さをした、何かの幼虫のような生物であった。
「うわぁっ、気持ち悪い……!」
一緒に目覚めた他の少年たちも、ウネウネを見て、短い叫び声をあげる。
取ってやりたいが、素手で触るには、なんとも気色の悪い生物だ。
シャルシスが、仕方なく毛布の先で払い落とそうとすると、少し遅れて起きたらしいクロッカが、制止の声をあげた。
「シャルくん、待って! 無理にとろうとしちゃダメ!」
手を止めたシャルシスを、クロッカが押しのける。
クロッカは、セドルの右脚を掴んで、ウネウネを凝視した。
「……うん、やっぱりギッチュだ。なんでこんなところにいるんだろう。泥の中に紛れてたのかな……?」
「ぎ、ぎっちゅ……? なんだそれは? 虫なのか……?」
恐々と脇からのぞきこんで、シャルシスが問う。
クロッカは、軽い口調で答えた。
「これは、皮膚を食い破って、体内に潜り込んでいく虫だよ。ちゃんとした名前は知らないけど、僕たちハデネの北領民は、『ギッチュ (鹿喰い虫)』って呼んでる。返しのついた鋭い牙を持っていて、無理に取ろうとすると、頭がちぎれて牙ごと皮膚の中に残っちゃうから、下手に触っちゃダメなんだ」
「…………」
クロッカの説明を聞いて、周囲に立っていた少年たちの顔が、サッと青くなった。
ギッチュに食いつかれている張本人、セドルに至っては、もはや失神する寸前のような、土気色の顔になっている。
セドルは以前、船で食べていたパンに虫がわいていたと気づいた時も、一際大騒ぎしていた。
確か彼は、街育ちだと言っていたから、虫の類いは嫌いなのかもしれない。
勿論、街中にも虫はいるが、こんな風に、得体の知れないウネウネに傷口に吸い付かれるようなことはない。
シャルシスも、旅に出て多少は見慣れたが、基本的に虫の類いは苦手なので、セドルの気持ちはよく分かった。
仮に苦手でなくとも、自分はこれから寄生虫に皮膚を食い破られるのだと思ったら、正気ではいられないだろう。
顔面蒼白になっている面々を見回して、クロッカが、焦ったように付け加えた。
「あっ、だ、大丈夫だよ! その名の通り、ギッチュは普通、ハクジカっていう北部山地に棲む大鹿にしか寄生しないんだ。たまに人間とか、他の動物の皮膚にも食いついちゃうんだけど、その場合は、皮膚の下には潜っていかないよ。ただ食いついて、ぶら下がってるだけ。多分、堀を掘ってる時に、セドルくんの足にくっついちゃったんじゃないかな」
それを聞いて、少年たちの頰に、わずかに血の気が戻った。
クロッカは、北方ハデネ山脈の麓にある村出身で、農耕や狩猟を生活の基盤とする山岳民だ。
船上では、気弱で引っ込み思案な印象が強かった彼だが、山での古城生活が始まってからは、その豊富な山暮らしの知識と経験が頼もしかった。
立ち並んでいた少年の一人が、苦々しい表情で呟いた。
「触ったらいけないのは分かったけど、じゃあ、どうすればいいの? ぶら下がってるだけったって、噛まれた部分、血が出てるし……このまんま放置ってわけにもいかないだろう?」
ガクガクと頷いたセドルが、すがるような視線をクロッカに向ける。
クロッカは、勇気づけるように拳を握った。
「油をかければ、自然と落ちるよ! 僕も、狩ってきたハクジカを解体してる時に、何度かギッチュに噛まれたことがあるけど、そういう時は、いつも母ちゃんが熊油を持ってきてくれたんだ」
「え? 熊油をかけると、ギッチュは自分から噛むのをやめるってこと?」
「うん。熊油が体につくと、ギッチュは口を離して、そのあと死んじゃうんだ。理由はよく分かんないけど、僕の村の人たちは、皆そうやって対処してたよ」
少年たちは、顔を見合わせてから、困ったように辺りを見回した。
対処法が分かったのは良いが、熊油なんてものは、この場にない。
刺青の男たちに助けを求めても、熊油どころか、治療道具の一つすら貸してくれないだろうし、むしろ、妙な虫に噛まれたなどと言ったら、病気でも広めるのではないかと疑われて、セドルが殺されてしまうかもしれない。
シャルシスは、震えているセドルの肩を叩くと、立ち上がって、鉄格子の外に見える壁掛けの燭台を指差した。
「……仕方ない。あれで代用しよう」
「あれって……蝋燭のこと?」
怪訝そうに眉をひそめた少年たちが、シャルシスを見る。
不安げなセドルを一瞥して、クロッカが言った。
「ギッチュを焼き殺しても、牙が刺さったままじゃ意味がないよ。火が皮膚に触れたら、セドルくん、火傷しちゃうかもしれないし……」
シャルシスは、首を横に振った。
「別に、焼き殺そうというわけじゃない。熊油の代わりに、蝋燭の蝋を使うんだ。多分、熊油を塗られたギッチュが口を離すのは、呼吸穴が油で塞がれて、窒息してもがくからだ。ギッチュのことはよく知らないが、虫は口ではなく、身体にある小さな穴で呼吸しているのだと、昔、何かの本で読んだことがある。熊油に虫を殺せる毒があるという話は聞いたことがないし、熊油であるということではなく、油であることに意味があるなら、蝋でも代用できるはずだ」
唖然としている少年たちを置いて、シャルシスは、鉄格子に近づいた。
見張りのナジムは、これだけ石室内が騒がしいにも拘らず、石壁にもたれて爆睡している。
格子の隙間から手を出して、シャルシスは、ナジムの肩を揺らした。
「おい……おい、ナジム。起きてくれ。頼みたいことがある」
「……んあ?」
間抜けな声を出して、うっすらと目を開ける。
ナジムは、まだ焦点の合っていない、ぼんやりとした目でシャルシスを見つめていたが、ややあって、弾かれたように立ち上がると、触れられた肩をパッパッと手で払った。
「なんだよいきなり! きたねぇ手で触んな!」
悪態を無視して、シャルシスは、後ろで少年たちに囲まれてうずくまっているセドルを示した。
「ナジム、あそこの壁掛けの蝋燭を、こちらに持ってきてくれないか? セドルが、ギッチュという虫に噛まれた。人間には特別な害のある虫ではないらしいが、人力で牙を抜くのが難しくて、取り除くには、熊油を使うのが有効なのだそうだ。でも、熊油はないから、蝋で代用したい」
ナジムは、セドルの右足にぶら下がっている肉厚なウネウネを見て、不快そうに口元を歪めた。
そして、燭台を見やり、シャルシスに視線を戻した。
「……蝋で代用って、何をするんだ? 熱で殺すのか?」
「厳密には違うが、とにかく、早くよこしてくれ。ギッチュ自体に大した害はなくとも、ろくに治療ができないこの環境で、噛み傷を放置したくないんだ。これが原因で病でも流行ったら、お前たちも困るだろう。……心配せずとも、何も企んでいない。ギッチュが離れたら、蝋燭はすぐに返すから」
「…………」
ナジムは、探るような目つきで、シャルシスのことを見つめた。
しばらくそうして、悩んでいる様子だったが、蝋燭一本渡したところで、石室内で焼身自殺はできないし、武器にもならないと思い至ったのだろう。
壁掛けの台座から蝋燭を抜くと、それをシャルシスに渡した。
礼を言って、蝋燭を受け取ると、シャルシスはセドルのそばに屈んだ。
そして、周りに立っている少年たちに、指示を出した。
「今から俺が、蝋を垂らす。皆は、垂れた蝋が皮膚につかないように、周りを毛布で覆ってくれ」
少年たちは頷くと、ギッチュに触れないようにしながら、持ち寄った数枚の毛布をセドルの脛に当てた。
それが終わると、シャルシスは、セドルの顔を覗き込んだ。
「俺も気をつけるが、もしギッチュが動いたら、思わぬ方に蝋が飛び散る可能性もある。そうなったら熱いだろうが、なんとか耐えてくれ」
セドルは、唇を引き結び、涙の浮かんだ目をギュッと閉じた。
熱さなんて気にならないから、早くギッチュをどうにかしてくれ、と言いたげだ。
シャルシスは、片膝をつくと、ギッチュの真上で蝋燭を傾けた。
熱で溶けた蝋が、じわじわと雫をつくり、やがて、ポトッと垂れ落ちる。
蝋を受けたギッチュは、熱さに驚いたのか、それとも反射なのか、途端に身体を収縮させた。
二滴、三滴と受けても、長らくそのままでいたが、突然、じたばたと身体を捩らせ始めたかと思うと、皮膚から離れ、石床の上にポロリと転げ落ちた。
すかさず手を伸ばしたクロッカが、冷えて固まった蝋まみれのギッチュを、指先で摘み上げる。
早くも死んでしまったのか、のたうっていた身体は、もうピクリとも動かない。
クロッカは、シャルシスが持ち直した蝋燭の灯りで、ギッチュの死骸を照らすと、その頭部をまじまじと見つめ、言った。
「……あ、よかった、牙が残ってる! セドルくん、もう心配いらないよ!」
固唾を呑んで見守っていた少年たちが、一斉に、はぁあっと安堵の息をこぼす。
セドルは、緊張で強張っていた四肢を投げ出し、その場に倒れ込んだ。
「ありがとう……皆、本当にありがとう……」
ギッチュの噛み痕は、改めて確認すると、まだ少し出血はしているものの、数日も経てば消えると思われる程度の軽傷だった。
それでも、うわ言のように礼を言い続けるセドルに、シャルシスもクロッカも、思わず笑ってしまった。
セドルの態度が、まるで九死に一生を得たとでもいうような、大袈裟なものだったからだ。
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