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投稿日:2025年12月31日






 手負いの獣というものは、死に瀕すると、とてつもない力を発揮するものだ。
本来は臆病で、気性が穏やかな草食獣でも、逃げ場を失うと、死に物狂いで襲いかかってくる。
クロッカの兄の一人は、ハクジカの角に突かれて死んだ。
村一番の狩人だと言われていた祖父も、ハクジカ狩りで負った怪我が原因で、歩けなくなった。
身内に犠牲が出ても、なお狩猟民であることに誇りを持ち、ハクジカに果敢に立ち向かっていく父や兄たちの背を、クロッカは、いつも立ちすくんで見ているだけであった。

 やがて、父から「足手纏いだ、狩りには出るな」と言いつけられ、十三にもなって、女たちと一緒に家事仕事の手伝いをしていたクロッカは、兄弟の中で、一番の腰抜けだと罵られるようになった。
唯一同行を許された、冬前の毛皮の行商旅では、山道で兄たちとはぐれ、『蛇の毒牙』に誘拐される始末。
無能で気弱な息子のことなど、父は探していないだろう。
ナジムの言う通り、穀潰しが一人いなくなったと、むしろ清々しているかもしれない。

 そんな自分が、古城生活では、唯一のハクジカ狩りの経験者として皆に頼られている。
そのことがたまらなく嬉しく、気持ちを強く奮い立たせてくれていたが、今はその期待が、重石のように心を押し潰そうとしていた。
現状を打破するため、自分たちが食い繋ぐために、覚悟を決めるしかない状況だということは分かっている。
それでも、いざハクジカを前にしたら、自分はまた立ちすくむことしかできないのではないかという恐れが、クロッカの思考を蝕み始めていたのだった。

 枝などを踏んで音を立てないよう、ゆっくりと獣道を上っていく。
すると、立ち並ぶ木立の隙間から、最初にくくり罠をかけた跳ね木が、ガサガサと揺れているのが見えた。
六人で目を合わせたから、息を殺して更に近づく。
藪の向こうから、フゥフゥと荒い呼吸音と、凍った土を掻く重い音が聞こえてきた。

 枝葉の隙間から藪の先を見て、クロッカが、ぽつりと囁いた。

「……すごい……まさか、本当に捕まえられるなんて……」

 同じように跳ね木の根本を見て、シャルシスも息を呑んだ。
巨大な白い鹿が、後脚を蔓縄つるなわに括られた状態で、地面にうずくまっている。
脚は細いが、立ち上がったら、軍馬くらいの大きさはあるのではないだろうか。
頭に生えた角は、想像よりもずっと大きく立派で、樹木のように枝分かれしている。
木漏れ日を受け、ツヤツヤと輝く毛皮は、噂通りの雪色で、神々しい美しさを纏っていた。

「あ、あれがハクジカ……。確かに、矢が刺さったくらいでは動じなさそうだな……」

 呟いたシャルシスの横で、クロッカが首を振った。

「でも、かなり弱ってる。年をとったオスだ。……多分、他のオスに負けて、慌てて逃げてきたんだよ。全身、ギッチュの卵まみれだし」

「えっ」

 思わず目をこすって、シャルシスは、改めてハクジカの全身を観察した。
雰囲気に呑まれて見落としていたが、よく見ると、首元の毛が赤く血で汚れている。
複雑に枝分かれしている角も、片方だけ折れて、長さが不揃いだ。
オス同士の闘争に負け、前後不覚に陥っていたところで、運悪く──シャルシスたちにとっては運良く、罠にかかったのだろう。
白く輝く毛皮は、毛が陽光を反射しているというより、毛についた卵っぽいツブツブが光っているのだと気づいたが、それは見なかったことにした。

 わずかに身を乗り出したエトが、ハクジカの尻の下辺りを指差した。

「弱ってるなら好都合だけど、見て。……あそこ、土が盛り上がってる。跳ね木の根っこが、抜けかかってるんだ。下手に出ていくと、木ごと引き抜いて、反対方向に逃げられちゃうかも」

 シャルシスは、先程拾った木の棍棒をぐっと握りこむと、五人に向かって言った。

「……六人でハクジカを囲んで、まずは退路を塞ごう。俺が合図を出したら、ナジムとラシアン、ホレスとエトは、蔓縄を投げて、可能ならハクジカを木に縛り付けてくれ。俺はこの棍棒で、殴って気絶させられないか試してみる」

 各々が頷いて、ナジムの肩にかかっている蔓縄を受け取る。
次いでシャルシスは、背負っていた弓と矢筒を、クロッカに手渡した。

「クロッカは、ひたすらハクジカに矢を射ってくれ。致命傷にはならなくても、弱らせることはできるだろう?」

「え……えっ⁉︎ 僕がやるの⁉︎」

 動揺を見せたクロッカに、シャルシスは眉を寄せた。

「経験のあるお前が、一番の適任者だ。追い込み猟では、いしゆみも使ってハクジカを狩っていたんだろう? まあ、弩と普通の弓では、多少勝手が違うかもしれないが……」

 青白い顔になって、クロッカは弓矢を突き返してきた。

「む、無理だよ。僕、確かに経験はあるけど……実際に狩るのは苦手で。シャルくんがやった方がいいと思う」

「俺が? でも、それでは仕留める役が──」

「──二人とも、早く準備しろ! 警戒されてるぞ!」

 ホレスに急かされて、シャルシスとクロッカは、ハッと視線を戻した。
先程まで必死に土を掻いていたハクジカが、ピンと耳を立て、こちらを凝視している。
シャルシスは、弓矢をクロッカに押し返すと、口早に言った。

「苦手だったとしても、この中ではお前が一番慣れているはずだ! 頼んだぞ!」

 戸惑っているクロッカを置いて、シャルシスは、素早くハクジカの後ろに回り込んだ。
他の四人も、藪に身を隠しながら、ハクジカを取り囲むように散っていく。
ハクジカは、盛んに耳を動かしながら、己を捕らえる蔓縄を、憎らしげに蹴り払おうとしていた。

 やがて、全員が配置についたことを遠目に確認すると、シャルシスは、汗ばんだ手で棍棒を握り直した。
緊張で、指先がピリピリと痺れている。
身の危険が迫っていることには、ハクジカもとっくに気づいているのだろう。
一層激しく暴れ始めた強健な後脚に力負けして、跳ね木がミシミシと音を立てながら、傾き始めた。

 ついに、土から根が見えた──刹那。
転げるように藪を突っ切って、シャルシスは叫んだ。

「──今だ!」

 四本の蔓縄が、一斉に放たれる。
しかしそれらは、ハクジカの身体にかすりもしなかった。
シャルシスが叫んだ、その一瞬の隙を見計らったかのように、ハクジカがタンッと地を蹴って、高く跳躍したからだ。

 手負いであることも、蔓縄で縛られたままであることも感じさせない力強さで、ハクジカは、シャルシスの頭上を飛び越えた。
首元を狙ったクロッカの矢も、届かずに茂みの中へ落ちていく。
ハクジカは、前脚から着地するや、根ごと抜かれた跳ね木を引きずって、そのまま走り出した。

「まっ、待てーっ!」

 シャルシスは、慌てて方向転換すると、ハクジカが引きずっている跳ね木に飛びつき、地面に両のかかとを突き立てた。
駆け寄ってきた他の四人も、跳ね木を抱え込んで、思い切り後方に引っ張る。
両者を繋ぐ蔓縄が、ビンッと張った。
しかし、五人がかりでも、窮地に錯乱したハクジカの勢いは止められなかった。

 踏ん張った両足が、ズルズルと凍った土の上を滑っていく。
──が、木立の間を走り抜けようとしたところで、突然ハクジカが仰け反った。
ハクジカの大きな角が、左右に広がった木の幹枝の間に突っかかったのだ。

「──せーのっ‼︎」

 咄嗟に放ったシャルシスの掛け声に反応し、その瞬間、全員の呼吸が合わさった。
渾身の力で引かれた蔓縄が、ビシッと音を立て、より強く張り詰める。
木立に角を弾かれたハクジカは、同時に左後脚を引かれ、四肢のバランスを崩してその場でひっくり返った。

「っし、縛れ! 蔓縄を木にくくりつけるんだ‼︎」

 シャルシスの指示を受け、ホレス、エト、ラシアンの三人が、太い木立の根元に、跳ね木ごと蔓縄を巻きつける。
シャルシスとナジムは、ハクジカが抜けられそうな退路を塞がんと、それぞれ広い獣道に立ちはだかった。

 ホレスたちが縛り直してくれた蔓縄は、先ほどの攻防で緩まり、ハクジカの腿からかかとの辺りまで落ちてしまっている。
次にまた跳び上がったら、脚から蔓縄の輪が抜け落ちて、今度こそ逃げられてしまうだろう。

 フゥフゥと鼻を膨らませながら、ハクジカが立ち上がる。
改めて目前にすると、その体貌たいぼうからは、堅牢な要塞の如き迫力が感じられた。
顔の側面についた両の目は、草食獣とは思えぬ獰猛な光を宿し、低くもたげた大角は、枝角一本一本がこちらを突き殺さんとする凶器に見える。
これで弱っている老年個体だというのだから、若く健常なオスに出会っていたら、逃げ出すのはこちらの方だったかもしれない。

 シャルシスは、息を整えると、棍棒を両手で握って構えた。
対するハクジカは、逃げ道を失ったことを悟ったようにシャルシスに向き直ると、前脚で地面を掻き、頭を揺らした。
当然、言葉は交わせない。
だが、攻撃が及ぶ間合いを見定めながら、互いに思考を読み取ろうとしている。
獣相手に牽制けんせいし合うなんて、自分でも妙だと思うが、この場には、寸分の油断も許されない緊迫感が満ちていた。
これは指南稽古でも賭け試合でもない、命を削る"猛者"との殺し合いなのだ。

(……脚だ。打撃しか与えられないのなら、脚を折るしかない!)

 棍棒を横向きに持ち変えると、シャルシスは、一気に踏み込んだ。
前脚を持ち上げ、勢いをつけたハクジカが、迫ってきた棍棒めがけて角を振る。
カーンッ、と乾いた音が響いて、棍棒が角に弾かれた。
圧倒的な力差で押し飛ばされ、後方に身体が泳いだが、シャルシスは、棍棒を手放さなかった。
すぐさま起き上がって、再びハクジカの脚を狙い、間合いを詰める。

 同じく打って出たナジムが、先ほど投げ落とした蔓縄をハクジカの角に掛け、その動きを制御しようと踏ん張った。
ホレス、エト、ラシアンの三人もまた、もう一度ハクジカの体勢を崩そうと、後脚にかかった蔓縄を木立を支点にして引いていた。
致命傷にはならずとも、蔓縄に動きを制限されながら、棍棒で殴られ続けるのは、ひどく苦痛なのだろう。
ハクジカは、ブゥブゥと鼻を鳴らし、激しくもがいていた。

 その時、クロッカの放った矢が、ハクジカの顔の横を掠っていった。
刺さりはしなかったが、驚いたのだろう。
大きく跳び上がったハクジカが、ナジムたちを振り切り、勢いよくさお立ちになった。

「うわぁっ……⁉︎」

 凄まじい力で蔓縄を引かれ、ナジムの身体が、釣り上げられた魚のよう宙へと投げ出された。
同時に、太い木立に繋がれていた蔓縄が、ついにブチッと千切れた。
それを引っ張っていたホレスら三人も、悲鳴をあげて、後ろに転倒する。
思わず後ずさって、シャルシスは、ハクジカと距離をとった。
今までは、ハクジカの動きが蔓縄に抑えられていたから、打ち合えていたのだ。
その縛りがなくなった今、突進してきたハクジカに突き飛ばされでもしたら、シャルシスの命はないだろう。


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