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投稿日:2025年12月31日
身軽になったハクジカは、痛む左後脚をかばうように跳ねながら、しかし、目にも止まらぬ速さで走り出した。
急いで追いかけるが、とても追跡できる速度ではない。
開けた獣道を選び、三本足でも突き出した岩を飛び越え、急斜面をものともせず駆けていく。
もう駄目だ、と諦めかけた──次の瞬間。
蔓縄をブンブンと振り回しながら、ナジムが叫んだ。
「逃げるなぁっ! 俺の食糧ーっ‼︎」
一投された蔓縄の輪が、走るハクジカの角に──かかった。
ブゥーッと鳴いて、ハクジカが頭を振る。
ナジムもウォーッと声をあげて、大きく仰け反ったが、力負けして倒れ込み、ハクジカに引きずられていく。
シャルシスたちは、遠ざかっていくナジムの身体に、必死になってしがみついた。
「木だ! 木に掴まって、蔓縄を結べ……!」
近くの木立を目で示して、シャルシスが叫ぶ。
岩や木根が飛び出している地面の上を引きずられ、踏ん張ろうとしては転び、傷だらけになりながら、それでも少年たちは、懸命に幹枝に手を伸ばした。
全身泥まみれ、血まみれになっていたが、疲れや痛みは感じなくなっていた。
むしろ、ナジムが掴んだこの機を逃してはならないという共通の思いで、力が漲っている。
歯を食いしばり、筋肉が痙攣するほどの力を込めて、六人は、引っ張ってきた蔓縄を木立に半周巻きつけた。
ハクジカの方は、暴れているうちに、蔓縄が角に絡まってしまったらしい。
口から白い泡を噴きながら、懸命に頭を振り続けている。
ハクジカが角を揺らすたび、蔓縄がギチギチと嫌な音を立てた。
外れる気配がないのは良いが、このままでは、また蔓縄がちぎれるだろう。
けれどもこちらは、蔓縄を引っ張るので精一杯だ。
何かハクジカを弱らせる手立てはないものか、と考えている内に、蔓縄を構成する蔓の一本が、プツッと切れた。
ハクジカが解放されるのは、時間の問題だ。
焦りで頭が真っ白になり、腕が震える。
脚まで痺れて、力が入らなくなってきた。
言うことを聞かない足元に、ふと視線を落とした時。
シャルシスは、地面の上に、黒いヌルヌルとした水たまりができていることに気づいた。
踏ん張れなくなったというより、このヌルヌルのせいで、足裏が滑っている。
何の水たまりだろうか、と視線を巡らせて、ハッとした。
ラシアンの上着の腹回りから、黒い液体がにじんで、ポタポタと地面に垂れている。
──ケシャの実だ。
草笛を吹いていた時に、ラシアンがせっせと集めていたケシャの実が、ハクジカに引き回されたせいで服の中で潰れ、その果汁が染み出してきたのだ。
蔓縄を引きながら、シャルシスは言った。
「ラシアン! 上着! 上着を脱げ!」
「え⁉︎ な、なんで⁉︎」
「ケシャの実! 油が多くてよく燃えるのだろう⁉︎」
シャルシスの意図を理解できないまま、一瞬だけ蔓縄から手を離したラシアンが、ケシャの実と、その果汁でベタベタになった毛織の上着を脱ぎ捨てる。
「手を離すな!」と喚いているナジムに、「少しだけ堪えてくれ」と言い置くと、シャルシスも蔓縄から離れた。
そして、ラシアンの上着を拾い上げると、横から暴れるハクジカに近づき、潰れてグズグズになったケシャの実を数個、投げつけた。
油分を含む黒々とした果汁が、ハクジカの雪色の毛皮をビシャビシャと汚す。
余った実と上着を放ると、次いでシャルシスは、拾った小枝で土の上に魔法陣を描いた。
魔術は一通り教わっているが、正直、あまり得意ではない。
それに、貴族出で魔術まで使えるとなると、いよいよ素性を怪しまれるので、皆の前では使いたくなかった。
だが今は、そんなことは言っていられない状況だ。
魔法陣の上に、ラシアンの上着を置くと、シャルシスは唱えた。
「──盛る炎、猛る炎、出でよ……!」
魔法陣が煌々と光り、熱波を噴いて、上着が燃え上がった。
驚愕しているクロッカたちを横目に、シャルシスは、腰に帯びていた棍棒を燃えている上着に押し付け、火を移すと、今度はそれをハクジカに投げつけた。
──が、燃える棍棒は、ハクジカに身体にぶつかって跳ね返り、凍った地面に落ちて鎮火してしまった。
もう一度、今度は拾った棒切れに火を移して投げつけてみるが、ハクジカの身体には引火しない。
ケシャの実の果汁は、含油率が高いというだけで、純粋な油ではない。
引火させるには、もっと長く火を押し当てなければならないのだろう。
「だから手離すなって!」と制止してくるナジムを振り切り、クロッカが走り寄ってきた。
「シャルくん! 火で弱らせるってことだよね⁉︎」
「ああ、できるか⁉︎」
「やってみる……!」
クロッカは、先程シャルシスが放ったケシャの実と、炎上するラシアンの上着の切れ端を矢尻で突き刺すと、燃える矢を弓につがえた。
狙いは、果汁まみれになっているハクジカの腹部。
標的は暴れているが、この距離であれば、外すことはないだろう。
ビュンッと弓弦が鳴り、狙い通り、火矢がハクジカの腹部に刺さった。
キュウッと高い声を出し、ハクジカが飛び上がる。
痛みと熱さに動転し、その巨体が近くの木立にぶつかった瞬間、火矢の炎が毛に燃え移った。
「よし、もう一回だ! 何本でも射て‼︎」
「うん!」
シャルシスが次々と火矢を作り、クロッカが弓につがえる。
しかし、二発目は毛に掠っただけで、刺さらなかった。
ハクジカが、己を捕らえているものを排除しようと、蔓縄を引くナジムたちの方に突進したからだ。
「うぎゃぁあっ⁉︎」
反射的に蔓縄を放り出した四人が、悲鳴をあげて、木のそばから散った。
角に蔓縄を引っ掛けたまま、ハクジカが、地を揺らすような勢いで突っ込んでくる。
ゴンッと角と木幹が激突し、大きく揺れた木立の枝葉から、溶けた雪が降り注いだ。
木から後退したハクジカが、身体の向きを変えたので、シャルシスたちは身を強張らせた。
クロッカの射った三発目の火矢が、今度は胸元に刺さる。
火が勢いを増したが、その巨体はまだ倒れない。
むしろ激昂し、一層興奮した様子で、ハクジカはシャルシスたちの方に猛進してきた。
「まずい! 逃げるぞ‼︎」
シャルシスと共に走り去ろうとしたところで、クロッカは、ふと踏み止まった。
ナジムたちが蔓縄を手放した今、ハクジカを繋ぎ止めるものは、何もない。
ここで自分が避ければ、ハクジカは、そのまま森の奥へと駆けていき、行方を眩ませてしまうかもしれない。
そうなったら、今までの頑張りが、全部無駄になる。
全員で知恵を絞って狩りに出られるようになったことも、突貫で作った罠にハクジカがかかった奇跡も、皆の勇気と機知が生んだこの状況、全てがなかったことになってしまう。
クロッカは、ハクジカの方に向き直った。
四本目の矢をつがえ、迫り来るハクジカの目に狙いを定める。
目さえ潰してしまえば、逃げることも攻撃することも、上手くできなくなるはずだ。
「クロッカ何してる⁉︎ 避けろ‼︎」
クロッカが後ろについてきていないことに気づき、真っ青になったシャルシスが叫んだ。
しかし、クロッカは逃げなかった。
震える矢尻の先に、ハクジカの目を見据える。
果たして、突進してくる小さな的を、正確に射抜けるのか。
外せば、ハクジカに突き飛ばされ、角で貫かれ、クロッカは兄のように死ぬだろう。
だが、その恐怖よりも、ハクジカを──この先の希望を逃してはならない、という思いが勝った。
呼吸を止め、矢を放つ。
宙を裂き、ハクジカの目を狙って飛んだ矢が──
「──刺さった!」
声にならない叫びをあげ、踊るように飛び跳ねたハクジカが、ややあって、その場に倒れ込んだ。
爆発的に火が勢いを増し、ついに、全身が灼熱に飲まれる。
火を消そうと、ぬかるんだ地面の上でジタバタとのたうつハクジカを見て、少年たちは我に返った。
「……ま、まだだ! 火を絶やすな! 蔓縄も持てーっ‼︎」
クロッカが五本目、六本目と火矢を放つ。
ホレス、エト、ラシアンの三人も、かき集めてきた木枝やケシャの実に火をつけると、それをハクジカに向かって投じた。
炎がより高く、より大きく燃え上がっていく。
シャルシスとナジムは、焼けて短くなった蔓縄の両端を持つと、二人でピンと張って、起きあがろうとしているハクジカの脚に引っ掛けた。
炎の中で、ハクジカが再びひっくり返る。
そうして、二度、三度と転ばせている内に、蔓縄は焼失したが、ハクジカもまた、起き上がれる体力を失ったようだった。
やがて、必死にもがいていたハクジカが、ピクリとも動かなくなった。
静かな森の中で、燃え盛る炎の音だけが響いている。
少年たちは手を止め、しばらく呆然と、炎に舐められるハクジカの肢体を見つめていた。
不意に、炎に駆け寄ったナジムが、焦った様子で振り返った。
「おい馬鹿! 早く火を消すぞ! 黒焦げになったら、これがハクジカだと分からなくなっちまうだろ!」
あっと声を上げ、六人全員で、慌てて凍った土を炎の中に投げ込む。
今朝まで降っていた雪のおかげで、森全体が凍って、草木が湿っていたことが幸いだった。
ハクジカを倒すのに必死で、他の危険など考えていなかったが、もし周りの木々に飛び火していたら、大規模な山火事に発展していたかもしれない。
二人一組で、脱いだ上着に大量の土を乗せ、それを何杯もハクジカにかけていると、徐々に炎が弱まっていき、ほどなくして鎮火した。
ハクジカの身体は焼けて黒ずみ、雪と土まみれになって汚れていたが、足先や頭部には、まだ毛が残っていた。
この白い毛と立派な角さえあれば、これがハクジカだという証明にはなるだろう。
ラシアンの上着を燃やしていた炎も、ケシャの実の油分が飛んだのか、シャルシスが魔力を込めるのをやめたからか、いつの間にか消えていた。
枝先でハクジカの身体をツンツンとつついて、ラシアンが呟いた。
「これ、死んだ……よね……?」
吐息をつくように、クロッカが答えた。
「……うん。死んだよ」
少年たちは、放心したような顔で、それぞれの目を見合わせた。
クロッカが矢尻を使って、雑な切り口ながら、ハクジカの首の裂いていく。
流れ出していく血を見た瞬間、唐突に、ハクジカ狩りを成功させたのだという実感がわき、凄まじい達成感と喜びが突き上がってきた。
「やった……やったぞ! うぉおおーっ‼︎」
叫ぶや、シャルシスがいきなり両手を上げた。
他の五人も、つられて叫び声を上げると、互いに手を打ち鳴らし、肩を抱き合って跳ね回った。
意味もなく腕を振ったり、ハクジカの周りを走ったりして、しまいには、自分たちのこの喜びようがおかしくなってきて、全員で息もできないくらい笑い転げた。
土の上に寝っ転がると、急に身体中が痛くなってきた。
無数に負った傷が、ズキズキと痛む。
笑いすぎて、酸欠で頭がクラクラする。
ハクジカとの戦いを乗り越えた疲労感も相まって、全身汗だくだ。
息も凍る山中で、上着も着ていないのに、頬が火照って暑いくらいだった。
「……少し、休んで帰ろうか」
はぁはぁと呼吸を整えながら、シャルシスが呟く。
他の五人も、地面に仰向けになって、無言で頷いた。
太陽は、まだ高い位置に居座って、雲の隙間からこちらを見下ろしている。
ハクジカの運搬に手間取ることを考えても、日が傾き始めた頃にここを発てば、約束の夜までには帰城できるだろう。
出発時に、もし時間が余ったら鳥や兎を獲ろう、などという話をしたが、今はもう、一歩も動けないほどに疲れ切っていた。
「……驚くだろうな、蛇連中。暗に、絶対無理だろうって言いながら、僕たちにハクジカを狩りを命じてたからさ。……ざまあみろ!」
不意に、エトが言うと、クロッカが小さく笑った。
「もしかしたら、どうやって狩ったんだって、怪しまれちゃうかもしれないね。僕だって、蔓縄や弓矢だけでハクジカを狩ったなんて、未だに信じられないもん。シャルくんが魔術を使い出した時も、思わず目を疑っちゃったし……」
シャルシスは、苦々しい顔になった。
「あり物で狩りを成功させたことは説明すれば良いが、俺の魔術に関しては、ハクジカが逃げそうになったところで咄嗟に松明で火をつけた、ということにしておこう。魔術が使えると知られたら、色々と面倒事が起こりそうだから……」
言いながら、シャルシスは、燃えて掻き消えた魔法陣の跡を見やった。
盗賊たちは、今もシャルシスのことを、身寄りのない孤児か何かだと思っているはずだ。
その認識は変えない方が警戒されないし、まして、彼らがシュベルテとの開戦を目論むマイゼン側の人間である以上、王族であることは絶対にバレてはいけない。
それに、身分は隠し通せたとしても、文字が書けるとか、魔術が使えるだなんて知られたら、戦力になると判断されて前線送りになる可能性もある。
脱走計画を円滑に進めるためにも、素性を疑われるような言動は避けたかった。
興奮したように、ラシアンがシャルシスを見た。
「あれ、やっぱり魔術だったんだ! 急に僕の上着から、バッて炎が出てさぁ。すごかったなぁ!」
うんうんと頷いて、クロッカが同調した。
「僕もびっくりしたよ。魔術なんて初めて見たもん。頭良いし、読み書きできるし、魔術まで使えるなんて、シャルくんは本当に何でもできるんだね」
いきなり手放しに褒められて、シャルシスは、照れ臭げに「そんなことはない」と否定した。
実際、今回のハクジカ狩りは、シャルシス一人では絶対に成し得なかった。
この六人がいたから、成功させることできたのだ。
シャルシスは、穏やかな口調で返した。
「あんなの……練習すれば誰でもできる、初歩的な魔術だ。文字だって、習う機会さえあれば、いくらでも読み書きできるようになる。俺はたまたまそういうことを学べる環境に生まれたから、交渉役として狩りに出る流れを作ったが、ハクジカを倒すに至ったのは、お前たちの経験や知識があったからだ。
ホレスやエトが、罠や蔓縄の作り方を提案してくれなければ、ハクジカを捕まえることはできなかったし、ラシアンがケシャの実を集めていなければ、火で弱らせることもできなかった。ナジムやクロッカが、最後まで諦めずにハクジカを蔓縄で捕らえ、矢で目を射ってくれなければ、きっと逃していただろう。……俺の力じゃない。お前たちの方が、よほどすごい」
クロッカたちは、驚いたように目を見開いてから、微かに頰を赤くした。
くすぐったいような、居ても立っても居られないような空気感に、自然と笑みがこぼれた。
ふと上体を起こして、ホレスが言った。
「そういえば俺、実はちょっとだけ文字を習ったことがあってさ。自分の名前だけは書けるんだよね」
枝切れを拾ってきて、土の上に、得意げに名前を掘っていく。
"レ"の字が逆だったが、他の字は合っている。
集まってきて、興味津々といった様子で筆致を覗き込んでいるクロッカ、エト、ラシアンの三人に、ホレスは語った。
「まだ村で暮らしてた頃、なんとかって教会の聖職者が来てさ。一時的に滞在して、食べ物を配ってくれたり、文字を教えてくれたりしたんだ。俺は、育ての親父に、文字なんて書けても腹の足しにならないし、そんなことしてる暇があるなら畑仕事を手伝えって怒られたから、長くは通えなかったんだけど。数月はいたかな……そのあとは、教えに入信した村人を引き連れて、どっか行っちまった」
わずかに瞠目して、シャルシスは尋ねた。
「それって……もしかして、イシュカル教会か?」
「ああー、うん。そんな名前だったかな、多分」
パッと顔を上げたラシアンが、驚いたように言った。
「イシュカル教会! それなら、僕の村にも来てたから、聞いたことあるよ。なぁんだ、食べ物とかくれるんなら、僕も行けばよかったなぁ……」
クロッカが、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「ええ? ラシアンくんって、南西部の出身だったよね? そのなんとか教会って、そんなに沢山の地域を回ってるの? 僕、聞いたことないけど……」
ホレスの字に目線を落としたまま、シャルシスが説明した。
「クロッカの故郷がある辺りは、今も召喚師信仰が根強いからな。マイゼン伯領は、過去に旧セントランスの支配から逃れて、カーライル王政の傘下に入った地だ。独立自治が認められて、召喚師一族が軍部を統率していた当時のシュベルテの思想が強く残ってるから、今でも教会は寄りつきづらいのだろう。マイゼン伯が開戦を考えているのも、そのあたりの事情が関係しているのかもしれない」
難しそうな顔で、クロッカは首を傾げた。
「ふーん……? 山のしきたり以外で、村の皆が何を信仰してるとか、あんまり意識したことなかったけど。まあ確かに、召喚師様がいたから今のサーフェリアがあって、北領は侵略されずに済んだんだって、じっちゃんとかは、そういう昔話が好きだったな。でも正直、王族とか召喚師一族とか教会とか、そういうのは僕、よく分かんないや」
上流階級への皮肉を込めたような口ぶりで、エトが答えた。
「都市部のことなんて、噂で流れてくる程度だもんね。どうせ僕たちみたいなのは、国のお偉いさんたちが何を考えてるとか、聞いても理解できないだろうし……」
クロッカが笑って、こくりと頷く。
ホレスやラシアンも、返事はしなかったが、当たり前のように同意している様子だった。
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